米倉昌晴とは? わかりやすく解説

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米倉昌晴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/14 13:18 UTC 版)

 
米倉昌晴
時代 江戸時代中期
生誕 享保13年4月22日1728年5月30日
死没 天明5年12月20日1786年1月19日
改名 長之助(幼名)、昌晴
戒名 政運道香義徳院大居士
墓所 東京都港区西麻布長谷寺
官位 従五位下丹後守
幕府 江戸幕府 奏者番若年寄
主君 徳川家重家治
武蔵金沢藩
氏族 米倉氏
父母 米倉昌倫、堀田氏
米倉里矩
兄弟 昌長、昌晴
柳沢保経娘・瑞泉院
島津久芳娘
田中氏
昌賢、晴光、戸田光知、本多忠福、
遠山景祥正室、今大路正庸室ら
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米倉 昌晴(よねくら まさはる)は、江戸時代中期の大名若年寄武蔵国金沢藩3代藩主。六浦藩米倉家6代。官位従五位下丹後守

略歴

享保13年(1728年)4月22日、分家で3000石の旗本である米倉昌倫の次男として誕生。寛延2年(1749年)、2代藩主・米倉里矩が子無くして早世したため、その養子となって跡を継いだ[1]。同年5月に9代将軍・徳川家重御目見し、12月に叙任する。

明和元年(1764年)8月に大番頭となり、安永5年(1776年)1月に奏者番、同年4月に日光祭礼奉行、安永6年(1777年)4月に若年寄など、要職を歴任した。しかし天明4年(1784年)4月、同じ若年寄である田沼意知が暗殺されると、罪を得て[2]連座により謹慎処分となった。同年5月に許されて西の丸御付となる。

天明5年(1786年)、病を得て若年寄を辞任しようとしたが、許されずに在職中のまま死去した。享年58。

跡を次男・昌賢が継いだ。

系譜

父母

  • 米倉昌倫(実父)
  • 堀田氏 ー 側室(実母)
  • 米倉里矩(養父)

正室、継室

  • 瑞泉院 ー 柳沢保経の娘(正室)
  • 島津久芳の娘(継室)

側室

  • 田中氏

子女

  • 米倉昌賢(次男)生母は田中氏(側室)
  • (三男)
  • 戸田光知
  • (七男)
  • 本多忠福[3](八男)
  • 遠山景祥正室後に米倉昌喜正室
  • 今大路正庸室

脚注

  1. ^ なお、実父・昌倫は長田重賢の五男であり、皆川藩初代藩主・米倉昌尹の次男・昌仲の養子になった。
  2. ^ 理由は不明。
  3. ^ 本多忠由の養子

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