米倉忠仰とは? わかりやすく解説

米倉忠仰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/10 14:22 UTC 版)

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米倉忠仰
時代 江戸時代中期
生誕 宝永3年2月1日1706年3月15日
死没 享保20年4月8日1735年5月29日
改名 鍋三郎・大膳(幼名)、柳沢保教(初名)、米倉忠仰
戒名 諦了院殿雄厳忠英大居士
官位 従五位下丹後守主計頭
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
下野皆川藩主、武蔵六浦藩
氏族 柳沢氏米倉氏
父母 柳沢吉保、片山氏
米倉昌照
兄弟 柳沢吉里、柳沢長暢、柳沢安基、
柳沢経隆柳沢時睦忠仰柳沢保経
春子、真子、綾子、国子、増子、美喜子
本多忠直
香雲院
里矩
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米倉 忠仰(よねくら ただすけ)は、江戸時代中期の大名下野国皆川藩4代藩主、武蔵国六浦藩(金沢藩)初代藩主。六浦藩米倉家4代。官位従五位下丹後守主計頭

生涯

宝永3年(1706年)2月1日、5代将軍・徳川綱吉側用人として仕えた柳沢吉保の六男として誕生(一説には四男とされているが、四男は柳沢経隆)。

宝永7年(1710年)7月18日、皆川藩3代藩主・米倉昌照の養子となり、正徳2年(1712年)に昌照が死去したために跡を継いだ。

享保元年(1716年)9月1日、8代将軍・徳川吉宗に拝謁し、享保5年(1720年)12月18日に叙任する。享保7年(1722年)7月27日に六浦(金沢)へ移封となる。

享保20年(1735年)閏3月23日、出仕停止を命じられる。病床にあった忠仰は、長男・里矩の年齢を3歳から9歳に修正する報告を行った。幕府はこれを咎めたのである。実は虚偽の報告であり、忠仰死後に判明することになる。同年4月8日、死去。享年30。

跡を里矩が継ぐが、生前に忠仰が里矩の年齢を詐称していたことから、お家騒動が起こった。

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