えど‐じだい【江戸時代】
江戸時代
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江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史のうち江戸幕府(徳川幕府)の統治時代を指す時代区分である。他の呼称として徳川時代、徳川日本[1]、旧幕時代、藩政時代(藩領のみ)などがある。
注釈
- ^ 始期については、豊臣秀吉が薨じた1598年(慶長3年)や関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した1600年10月21日(慶長5年9月15日)、あるいは豊臣氏滅亡の1615年(元和元年)を始まりとする見方もある[要出典]。
- ^ 終期については、ペリーが来航した1853年(嘉永6年)や桜田門外の変があった1860年(万延元年)、徳川慶喜が大政奉還を明治天皇に上奏した1867年11月9日(慶応3年10月14日)とする見方や、王政復古の大号令によって明治政府樹立を宣言した1868年1月3日(慶応3年12月9日)、江戸開城された1868年5月3日(慶応4年4月11日)、あるいは廃藩置県が断行された1871年(明治4年)とする見方も存在する[2]。
- ^ 幕府の反対により典仁親王の尊号宣下を見合わせた「尊号一件」で寛政5年(1793年)に辞職する。
- ^ 同年5月22日に、江戸市中に告げられた。市中の奢侈な風俗の取締、贅沢の禁止、質素倹約が強行された。
- ^ しかし、1814年(天保15年)6月、忠邦、再び老中となった。
- ^ 源了圓は、「『海国図志』の日中韓の読み方の違い」において、後に洋務派と変法派を生みつつも刊行当時は正しく評価されなかった清国、『海国図志』への反応が鈍かった朝鮮、翻刻本23種(うち和訳本16種)が刊行され、国民一般に公開されて、きわめて関心が高かった日本を比較している[15]。
- ^ 8年後の1861年、幕府は庶民の大船建造・外国船購入を許可する。
- ^ 第1位の生糸が輸出額の50~80%、第2位の茶が5~17%を占めていた。
- ^ 1863年(文久3年)11月、薩摩藩は英公使に10万ドルを交付して生麦事件を解決している。
- ^ 嫡子の在国が許された。大名の妻子に対しての帰国が許可された。
- ^ 旗本に対し、3000石に付き10人、1000石に付き3人、500石に付き1人の人提出を、500石以下は金納にし、この人数で歩兵組を編成した[18]。
- ^ 長州が公家たちを懐柔し、天皇の詔勅であるといってつぎつぎにいろいろな命令を出すと、天皇には覚えがないと言った「偽詔勅事件」が次々に起こってくる。これを「下より出る叡慮」ともいう[19]。
- ^ 全大名に命じたが、実行した藩はほとんどなかった。
- ^ 馬関海峡を航行中の外国船(米船ペムブローク号、300トン)を自藩製の大砲で攻撃して「攘夷」を決行した。庚申丸から砲撃し、たまたま馬関に向かっていた癸亥丸も砲撃に加わった。しかし、米船は全速力で逃げ、両船は速力の差が明白すぎて、追跡できなかった。意気の上がった長州側は、5月23日仏軍艦キンシャン号を、26日には蘭艦メジュサ号を砲撃した[20]。
- ^ 3年後の1866年(慶応2年)4月7日には、幕府、学術・商業のための海外渡航を許可している。
- ^ 大坂に、各国駐日代表を引見した。3月25日にパークスと、26日にオランダ総領事と、27日ロッシュと、28日に英仏蘭三国代表と、4月1日に米駐日公使ファルケンブルグと会見した。
- ^ 5月、西宮・大坂・堺・兵庫・江戸に打ちこわし。6月、武蔵一円打ち毀し(武州世直し一揆)、陸奥信達両郡で打ち毀し(信達騒動)。7月、伊予大洲藩、出羽村山郡で打ち毀し。8月、小倉藩で、長州戦争の混乱から一揆。幕府、諸国凶作・米価高騰につき庶民の外国米販売・交友を許可。11月、江戸の窮民増加。幕府、窮民中の強壮者を兵に採用と布告。
- ^ 6ヶ条にわたる密約、協定は主として、第二次征長について、薩摩が長州藩のために政治的に援助することを決めたものだった。5条には、幕府が、朝廷を擁し正義をこばみ、周旋尽力の道を遮るときは、さつまはばくふと「遂に決戦に及び候ほかこれ無きこと」という文句を入れた。中味は防衛的な同盟であったが、この中では場合によっては倒幕もあり得ることを初めて示した[25]。
- ^ 1868年(慶応4年)3月14日、明治天皇は、京都御所の紫宸殿に於いて、神前で五つのことを誓った。このとき御誓文とともに、明治天皇自らの信念の発表があった。これは「宸翰」(しんかん)と呼ばれた。(天皇このとき数えで16歳、満で15歳)書いたのは木戸孝允と言われている。
「宸翰
- 朕幼弱をもってにわかに大統(たいとう)を紹(つ)ぎ爾来何をもって万国に対立し、列祖につかえ奉らんやと朝夕恐懼にたえざるなり。
- ひそかに考えるに中葉朝政衰えてより武家権をもっぱらにし、表は朝廷を推尊して実は敬いしてこれを遠ざけ、億兆の父母として絶えて赤子(せきし)の情を知ることあたわざるより計りなし、ついに億兆の君たるもただ名のみになり果て、それがために今日朝廷の尊重は古に倍せしがごとくして朝威は倍衰え、上下(しょうか)相離るること霄譲(しょうじょう)のごとし。かかる形勢にて何をもって天下に君臨せんや。
- 今般朝政一新の時にあたり天下億兆一人もその所を得ざる時は、皆朕が罪なれば今日の事朕自身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、古え列祖の尽きさせ給いしあとをふみ、治蹟をすすめてこそ、はじめて天職を奉じて億兆の君たる所にそむかざるべし。
- 往昔列祖万機を親(みずか)らし不臣(ふしん)のものあればみずから将としてこれを征したまい、朝廷の政すべて簡易にしてかくのごとく尊重ならざるゆえ、君臣相したしみて上下相愛し徳沢(とくたく)天下にあまねく国威海外に耀きしなり。
- しかるに近来宇内大いに開け各国四方に相雄飛するの時にあたり、ひとり我国のみ世界の形勢にうとく、旧習を固守し、一新の効を計らず、朕いたずらに九重中に安居し、一日の安きをぬすみ、百年の憂いを忘るるときはついに各国の凌侮を受け、上に列祖をはずかしめ奉り、下は億兆を苦しめんことをおそる。ゆえに朕ここに百巻諸侯と広く相誓い列祖の御偉業を継述し、一身の艱難辛苦を問わず、みずから四方を経営し汝億兆を安撫し、ついには万里の波濤を開拓し、国威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置かんことを欲す。汝億兆旧来の陋習になれ、尊重のみを朝廷のこととなし、神州の危急を知らず。朕一たび足を挙げれば非常に驚き、種々の疑惑を生じ、万口紛紜として朕が志をなさざらしむる時は、これ朕をして君たる道を失わしむるのみならず、従って列祖の天下を失わしむるなり。
- 汝億兆よくよく朕が志を体認し、相率いて私見を去り、公議をとり、朕が業を助けて神州を保全し、列祖の神霊を慰し奉らしめば生前の幸甚ならん。」
- ^ 江戸幕府の対外関係は「鎖国」と呼ばれてきたが、対ヨーロッパ貿易をオランダに制限しただけで、清や朝鮮などとは貿易を行っていたため、「海禁」と呼ぶべきだという主張がある[42][43]。
- ^ 「人口構成の正確な状況を把握するために、いくつかの村の膨大な古い記録を調べてみたことがある」として。松原久子『驕れる白人と闘うための日本近代史』( 育てるのは二人か三人、下百姓は二人あるいは一人[47]
出典
- ^ 芳賀徹『文明としての徳川日本』筑摩書房、2017年。
- ^ 蔵並省自 編『近世日本の展開』八千代出版、1977年、2-3頁。
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- ^ 林玲子、大石慎三郎『新書・江戸時代5 流通列島の誕生』〈講談社現代新書〉1995年。ISBN 4-06-149261-6。
- ^ 佐藤誠三郎、岡崎久彦『日本の失敗と成功—近代160年の教訓』扶桑社、2000年。ISBN 4-594-02917-5。
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- ^ 日本近世の歴史4 田沼時代. 吉川弘文館. (2012/5/1)
- ^ 藤田 覚『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ書房、2007年7月10日、253-254頁。
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- ^ 高木 久史 (2016). 通貨の日本史 - 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで. 中公新書
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- ^ 藤沢周平『藤沢周平全集 第17巻』文藝春秋、 1993年、420ページ
- ^ 藤田覚『泰平のしくみ-江戸の行政と社会』岩波書店、2012年、202頁。
- ^ 源了圓 著「「海国図志」の日中韓の読み方の違い」、西尾幹二 編『江戸時代が可能にした明治維新』産経新聞ニュースサービス〈地球日本史3〉、1999年。ISBN 4-594-02665-6。
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- ^ 宮地正人監修、大日方純夫・山田朗・山田敬男・吉田裕『日本近現代史を読む』新日本出版社、 2010年、 17ページ
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- ^ 田中 2007, p. 46.
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- ^ 藤沢周平『藤沢周平全集 第7巻』文藝春秋、 1993年、 77ページ
- ^ 鶴見俊輔『 御一新の嵐 』 <鶴見俊輔集・続-2> 筑摩書房、 2001年、 152-153ページ
- ^ 以下は尾藤正英『江戸時代とはなにか』による。
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- ^ 久光重平『日本貨幣物語』毎日新聞社、1976年。
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- ^ 高島正憲『経済成長の日本史』2017年
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- ^ 荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会、1988年
- ^ ロナルド・P・ トビ著・ 速水融・ 川勝平太・ 永積洋子翻訳『近世日本の国家形成と外交』(創文社、1990年)
- ^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』(中央公論社、1994年) p.95
- ^ 和辻哲郎 埋もれた日本 ――キリシタン渡来文化前後における日本の思想的情況―― (青空文庫)
- ^ ヘルマン・オームス 著、黒住真、清水正之、沢一、頼住光子 訳『徳川イデオロギー』ぺりかん社、1990年。
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江戸時代(1603年~1868年)
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「日本と南アフリカの関係」の記事における「江戸時代(1603年~1868年)」の解説
17世紀中ごろにケープ植民地入植者にはオランダ人ヤン・ファン・リーベックによって、長崎の出島から連れてこられたハポンと呼ばれる日本人家族が含まれていたという説がある。1663年から1666年にかけて、長崎のオランダ商館長を務めたことがあるツァハリアス・ヴァグナーが、ケープ植民地の総督を務めた。なお、江戸時代の長崎には、オランダ人によって、世界の珍しい動植物がもたらされたが、当時、オランダの支配下にあったケープ植民地からはダチョウがもたらされた。 公式記録として残る最初の南アフリカに訪れた日本人は、江戸幕府がロシアに派遣した山内作左衛門ら6人の留学生たちである。引率の山内と、留学生の市川文吉、緒方城次郎、大築彦五郎、田中次郎、小沢清次郎の6人は箱館から香港、シンガポール、バタヴィアを経て慶応2年(1866年)1月にケープタウンに到着し、5日間滞在した。
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江戸時代(近世都市の源)
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江戸時代には堺奉行が置かれ、糸割符など保護を受けるが、鎖国の成立とともに経済の中心は再び大坂へ移り、管轄も大坂町奉行が兼任する。1704年には大和川の付け替え工事が行われ、陸続きであった堺と住吉が分断された。しかも、この開削により河口付近に多量の土砂がたまったため、堺港に大きな船が停泊できなくなり、港湾機能も縮小せざるを得なくなった。 しかし、中世の自由都市堺と、江戸初期の堺の財力は莫大なものがあり、それが後世の日本に与えた影響は大きい。中世の日本において一貫して大都市といえるのは京都だけであり、当時陸運の便利がよい京都に商人の大半が集中していた。一方、堺商人は海運のため全国の中小港湾都市に莫大な投資を行った。その当時既に繁栄していた博多、鹿児島、大分などはともかく、それ以外の全国の多くの都市について、その発展の基礎部分に中世の堺商人の投資が大きな影響を与えているともいえ、それは大阪、名古屋、東京も例外ではない。
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江戸時代(幕末まで)
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江戸時代初期の1635年には「大船建造禁止令」が施行され、船の500石積以上の建造が禁止されることになる。ただし、これはすぐに商船は対象外になる。鎖国を行った為に、外航船を建造する必要が無くなった日本では軍船は関船が、商船は帆走専用に改良された弁才船が中心となった。特に後者は江戸時代の近海海運を大いに発展させた。 鎖国以前には徳川家康の命によってウィリアム・アダムス(三浦按針)が建造した2隻の小型ガレオンや、慶長遣欧使節団のサン・ファン・バウティスタ号などの例がある。
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江戸時代(日光社参の将軍宿城)
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「古河城」の記事における「江戸時代(日光社参の将軍宿城)」の解説
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼした後には、徳川家康に従って小笠原秀政が入部し、古河城の修復・拡張を行った。以後、江戸時代には古河藩の藩庁がおかれ、歴代藩主の居城となった。また、古河公方時代とは逆に、東北方面をにらみ、江戸防衛の一端を担った。 城主は幕府の要職を務めることが多く、大老の土井利勝・堀田正俊、老中の永井尚政・松平信之・本多忠良・土井利厚・土井利位などを数える。 城下には日光街道の宿場町である古河宿が展開するとともに、渡良瀬川による河川水運も発達して、交通・物流の要所となった。徳川将軍による日光社参では、岩槻城・古河城・宇都宮城に宿泊した後、日光に入ることを恒例とし、将軍の宿城の一つとしても重視された。 また、古河城は度重なる渡良瀬川の洪水に悩まされていたため、他には例を見ない洪水対策マニュアルも整備されていた。
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江戸時代(但馬)
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因幡守護代山名豊定の長男山名豊数は豊定の地位を継承したが因幡の有力国人武田氏により国を追われ但馬の所領に戻った。そこで豊数の長男山名豊宗がうまれた。豊宗は後に鳥取城主宮部長房に仕えた。主家の宮部家は関ヶ原の戦い後改易所領没収となったので子孫は但馬で帰農した。
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江戸時代(但馬 村岡)
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因幡の山名豊国は豊臣時代は無禄であったが1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで家康側につき、亀井茲矩の軍に加わった。山名氏は徳川氏とおなじく新田一族に繋がるということもあり、大名待遇の交代寄合表御礼衆という家格の旗本に列せられた(江戸幕府の正式な家譜では松平家、酒井家と同格の血族とされた)。 江戸初期、但馬山名家が断絶したため、山名宗家は豊国が継承した。 江戸時代初期の山名隆豊は旗本・福島家に生まれ、福島正則の曾孫にあたる。のち山名家の養子となった。 第8代将軍徳川吉宗時代の当主山名豊就(山名豊政の孫)は徳川吉宗の信任を得、大番頭を、その後旗本としては異例の大名職である寺社奉行に任じられ、因幡守護山名氏の後胤として縁のある因幡守を称するなど、山名一族の長者として山名家の名を高めた。 江戸時代中期の当主山名義徳は九州の筑後柳川藩の藩主立花貞俶の子として生まれ、山名家の養子となった。 江戸後期の当主 山名義蕃は越前鯖江藩の藩主間部詮茂の子として生まれ、はじめ詮量と名乗った。のち山名義方の養子となり義蕃と改名し、1821年山名家を継承した。義蕃は、1818年まで、甥の間部詮勝(老中在職期間: 1840年 - 1843年、1858年 - 1859年)の後見役を務めていた。 幕末の動乱では、山名家は早い段階で新政府側に従った。1869年(明治2年)、山名義済は1万1,000石への高直しが明治政府に認められ大名と認定され、新たに但馬村岡藩を立藩した(いわゆる維新立藩)。その後1871年(明治4年)廃藩置県となる。1884年(明治17年)華族令の公布にともない、山名家は男爵を授けられた
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江戸時代(但馬山名氏子孫 清水氏流山名氏)
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「山名氏」の記事における「江戸時代(但馬山名氏子孫 清水氏流山名氏)」の解説
徳川家康により江戸幕府が開かれたものの大坂には豊臣家がいまだ健在であった。山名氏の嫡流である但馬山名氏山名堯熙の嫡男・山名堯政は豊臣氏の直臣として豊臣秀頼に近侍していたとされる[要出典]。 しかし1615年(慶長20年)の大坂夏の陣が起き、 堯政は大坂城内にて戦死した。 その一方、父親の堯熙は大坂夏の陣を生き延び 京都六条の屋敷において晩年を過ごした。 堯熙は堯政の子の山名煕政(当時8歳)およびその兄弟による但馬守護山名氏の家名存続を意図したが、豊臣旧臣である家の存続は難しく、煕政は当時徳川家臣となっていた山名豊国の尽力により、既に徳川家臣となっていた山名氏旧臣である清水正親の養子となることで清水氏の家督を相続し、これにより但馬守護山名氏嫡流は断絶した。煕政の弟の煕氏は外祖父(田結庄氏)がかつて徳川家康の次男秀康に仕えていた経緯や、叔父山名豊郷が松平忠直の家臣であったことなどから越前松平家一門に元服後仕えることが出来、その子孫も代々越前松平家一門に仕えた。 山名煕政は清水氏の養子となったため、名を改め清水恒豊と称し 清水氏の家督を継承したことで徳川氏の幕臣となることができた。以降、清水恒豊および恒豊の子の清水煕豊が清水姓から山名姓への復帰を願い嘆願するも、豊臣遺臣を警戒する初期の江戸幕府からは許されることはなかった、とされる[要出典]。 しかし断絶して85年後江戸時代も治安が落ち着いてくると、復姓の嘆願が叶う。1700年(元禄13年)3月2日、恒豊の孫の清水時信が徳川綱吉から許しを得、山名に復姓、山名時信と称した。これにより煕政流山名氏は再興し、以後山名氏嫡流(の山名時氏)にちなむ「時」字を通字として幕末まで代々続く。石高は微禄ながらも、以後の幕府からも山名家嫡流のうちの一つとして認知された。 時信の従兄弟の山名豊常の養子である山名豊明は第八代将軍徳川吉宗により寄合に加えられたのち作事奉行・槍奉行に任じられた。山名豊明は当初は布衣(従六位相当)であったが立身し従五位下伊豆守に叙任されるなど将軍吉宗の信任を得た。のち徳川家治にも重く用いられ、日光東照宮参詣にも同行を許された。 幕末の動乱の時期、この山名氏は御家人として最後まで徳川将軍家に従った。明治新政府により徳川家当主の徳川家達が駿府(静岡)に転封されると、山名氏も幕臣として静岡県に赴いた。この山名家は明治を迎え、他の幕臣同様士族となった。
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江戸時代(因幡山名氏子孫)
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「山名氏」の記事における「江戸時代(因幡山名氏子孫)」の解説
また、因幡守護家の山名誠通の子孫は長州藩毛利氏の家臣となり、江戸時代を通じて長州藩士として毛利氏に仕え、幕末を迎えた。
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江戸時代(1867年以前)
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「本場所の一覧」の記事における「江戸時代(1867年以前)」の解説
年度場所名興行都市会場初日千秋楽日数備考元禄12年(1699年) 5月場所 京都 岡崎神社 5月28日 6月19日 8 元禄15年(1702年) 場所 大坂 堀江 6月場所 京都 六波羅 6月9日 享保2年(1717年) 10月場所 京都 稲荷町上御前掛り 10月7日 享保9年(1724年) 5月場所 京都 二条川東御所稲荷 享保11年(1726年) 10月場所 江戸 新材木町杉森稲荷社 享保13年(1728年) 9月場所 京都 嶋原口 享保15年(1730年) 4月場所 大坂 堀江 4月8日 享保17年(1732年) 5月場所 京都 5月場所 大坂 堀江 5月3日 6月場所 京都 6月1日 享保18年(1733年) 5月場所 大坂 堀江 享保19年(1734年) 4月場所 大坂 堀江 9月場所 京都 四条河原 9月4日 享保20年(1735年) 4月場所 大坂 堀江 5月場所 京都 5月7日 元文2年(1737年) 2月場所 京都 2月7日 4月場所 大坂 堀江 寛保元年(1741年) 閏4月場所 京都 二条川東 5月場所 大坂 堀江 寛保3年(1743年) 5月場所 京都 二条川畑 5月場所 大坂 堀江 寛保4年延享元年(1744年) 4月場所 京都 二条川東 4月11日 4月場所 大坂 北浦江御池通一丁目 8月場所 京都 二条川端 8月場所 大坂 堀江 延享3年(1746年) 5月場所 京都 二条川端 5月7日 5月場所 大坂 堀江 延享4年(1747年) 6月場所 京都 6月24日 延享5年寛延元年(1748年) 8月場所 京都 二条川東上ル畑地 寛延2年(1749年) 3月場所 大坂 南堀江 4月場所 京都 二条東 6月場所 京都 中堂寺嶋原 寛延3年(1750年) 4月場所 大坂 堀江 寛延4年宝暦元年(1751年) 5月場所 大坂 南堀江浜一丁目 宝暦2年(1752年) 4月場所 大坂 南堀江浜一丁目 5月場所 京都 二条川東 8月場所 京都 北野下ノ森 宝暦3年(1753年) 5月場所 大坂 南堀江 5月場所 京都 川東二条上ル 7月場所 京都 祇園北林 10月場所 江戸 深川八幡宮 10月7日 宝暦4年(1754年) 5月場所 大坂 南堀江 5月場所 京都 二条東畑地 5月6日 8月場所 京都 二条川東畑地 宝暦5年(1755年) 5月場所 大坂 幸町 宝暦6年(1756年) 9月場所 京都 二条川東御免 9月9日 場所 大坂 堀江 宝暦7年(1757年) 5月場所 京都 二条川東御免 10月場所 江戸 浅草八幡宮 10月5日 8 星取不明。 宝暦8年(1758年) 3月場所 江戸 深川八幡宮 3月11日 8 星取不明。 5月場所 大坂 堀江 5月9日 10 10月場所 江戸 深川八幡宮 10月15日 8 星取不明。 宝暦9年(1759年) 3月場所 江戸 深川八幡宮 3月7日 8 星取不明。 5月場所 京都 二条川東 5月19日 宝暦10年(1760年) 4月場所 大坂 堀江 10 10月場所 江戸 芝神明社 10月1日 8 星取不明。 宝暦11年(1761年) 10月場所 江戸 浅草八幡宮 10月11日 8 場所 大坂 宝暦12年(1762年) 3月場所 江戸 深川八幡宮 3月27日 8 5月場所 京都 二条川畑 場所 大坂 宝暦13年(1763年) 4月場所 江戸 神田明神 4月5日 8 5月場所 大坂 堀江 10 6月場所 京都 祇園北林 6月19日 10月場所 江戸 浅草八幡宮 10月10日 8 宝暦14年明和元年(1764年) 3月場所 江戸 浅草八幡宮 3月27日 8 5月場所 大坂 堀江 5月15日 10 6月場所 京都 二条川東 10月場所 江戸 深川八幡宮 10月20日 8 明和2年(1765年) 3月場所 江戸 芝神明社 3月6日 8 5月場所 大坂 堀江 10 6月場所 京都 二条川東 8月場所 大坂 新地 8月5日 秋相撲と称して興行。 8月場所 京都 祇園北林 8月24日 10月場所 江戸 深川八幡宮 10月14日 8 明和3年(1766年) 3月場所 江戸 芝神明社 3月24日 9 5月場所 大坂 堀江 10 6月場所 京都 祇園北林 8月場所 大坂 新地 8月11日 8月場所 京都 二条河原 10月場所 江戸 深川八幡宮 10月15日 8 明和4年(1767年) 3月場所 江戸 深川八幡宮 3月15日 8 5月場所 大坂 堀江 5月21日 10 6月場所 京都 祇園北林 8月場所 大坂 新地 8月17日 秋相撲として開催。 10月場所 江戸 深川八幡宮 10月11日 9 明和5年(1768年) この年は江戸春場所は開催せず、秋に開催。 場所 大坂 堀江 10 この年は京都秋場所は開催せず。 9月場所 江戸 本所回向院 9月28日 8 11月場所 江戸 市ヶ谷八幡宮 11月3日 8 番付不明。 明和6年(1769年) 4月場所 江戸 深川八幡宮 4月8日 8 星取一部不明。 7月場所 大坂 堀江 7月24日 10 8月場所 京都 二条川東 8月24日 9 10月場所 江戸 深川八幡宮 10月11日 8 明和7年(1770年) 3月場所 江戸 芝西久保八幡宮 3月8日 8 5月場所 大坂 堀江 5月6日 6月場所 京都 二条川東 6月8日 8 11月場所 江戸 市ヶ谷左内坂長龍寺 11月9日 8 明和8年(1771年) 3月場所 江戸 深川三十三間堂 3月15日 8 5月場所 大坂 堀江 5月6日 10 8月場所 京都 8 8月場所 大坂 新地 8月13日 10 10月場所 江戸 深川八幡宮 10月22日 8 明和9年安永元年(1772年) 江戸春場所は開催されず。 8月場所 大坂 新地 10 9月場所 京都 10 11月場所 江戸 本所回向院 11月4日 8 番付発表後に再編成される。 安永2年(1773年) 3月場所 江戸 深川八幡宮 3月20日 8 5月場所 大坂 堀江 5月15日 10 8月場所 京都 二条東 8 場所 大坂 10 秋相撲として開催。 10月場所 江戸 本所一ツ目八幡宮 10月29日 8 安永3年(1774年) 4月場所 江戸 深川八幡宮 4月13日 8 7月場所 大坂 堀江 10 8月場所 京都 二条東 10 10月場所 江戸 深川八幡宮 10月10日 8 安永4年(1775年) 3月場所 江戸 深川八幡宮 3月22日 84 雨天続きのため、4日目で打ち上げ。 7月場所 大坂 堀江 10 8月場所 京都 二条川東 8月19日 10 10月場所 江戸 深川八幡宮 10月17日 9 番付上は8日興行。 安永5年(1776年) 1月場所 江戸 浅草八幡宮 1月12日 - この年は春の本場所開催の記録がなく、当場所が本場所であるかも不明。 5月場所 大坂 新地 5月5日 10 5月場所 京都 二条川東 5月25日 10月場所 江戸 深川八幡宮 10月11日 8 安永6年(1777年) 4月場所 江戸 深川八幡宮 4月7日 8 7月場所 大坂 新地 7月20日 10 8月場所 京都 二条川東 8月11日 9 10月場所 江戸 深川八幡宮 10月13日 8 安永7年(1778年) 3月場所 江戸 深川八幡宮 3月27日 10 場所 大坂 新地 10 7月場所 京都 二条川東 10 11月場所 江戸 深川八幡宮 11月7日 10 安永8年(1779年) 3月場所 江戸 深川八幡宮 3月16日 10 場所 大坂 堺町一丁目 10 9月場所 京都 9月9日 10 10月場所 江戸 深川八幡宮 10月14日 10 安永9年(1780年) 3月場所 江戸 深川三十三間堂 3月15日 106 雨天続きのため6日目で打ち上げ。 5月場所 大坂 新地 10 7月場所 京都 10 10月場所 江戸 芝神明宮 10月19日 10 安永10年天明元年(1781年) 3月場所 江戸 市ヶ谷左内坂長龍寺 3月5日 10 千秋楽は雨天のため中止。 8月場所 大坂 新地 8月9日 10 京都秋場所は開催なし。 10月場所 江戸 本所回向院 10月18日 10 天明2年(1782年) 2月場所 江戸 浅草八幡宮 2月11日 10 5月場所 大坂 新地 5月17日 10 6月場所 京都 二条川東 10 10月場所 江戸 深川八幡宮 10月15日 10 天明3年(1783年) 3月場所 江戸 深川八幡宮 3月28日 10 9月場所 大坂 新地 9月9日 10 9月場所 京都 二条川東 9月29日 10 11月場所 江戸 本所回向院 11月4日 10 天明4年(1784年) 3月場所 江戸 本所回向院 3月4日 10 8月場所 大坂 新地 8月9日 10月場所 京都 10月17日 11月場所 江戸 本所回向院 11月15日 10 天明5年(1785年) 江戸春場所は不景気のため開催されず。 8月場所 大坂 新地 8月5日 京都秋場所は不景気のため開催されず。 江戸冬場所は不景気のため開催されず。 天明6年(1786年) 3月場所 江戸 浅草八幡宮 3月27日 10 8月場所 大坂 新地 8月3日 11月場所 江戸 浅草八幡宮 11月7日 10 天明7年(1787年) 5月場所 江戸 浅草八幡宮 5月11日 - 番付は発表したが、米価暴騰のため中止。 大坂夏場所は開催せず。 11月場所 江戸 浅草八幡宮 11月25日 10 天明8年(1788年) 4月場所 江戸 本所回向院 4月10日 10 8月場所 大坂 新地 8月5日 10月場所 京都 四条道場 11月場所 江戸 本所回向院 11月8日 10 天明9年寛政元年(1789年) 3月場所 江戸 浅草八幡宮 3月26日 10 8月場所 大坂 新地 7月16日 10 11月場所 江戸 深川八幡宮 11月11日 10 谷風・小野川に横綱免許。 寛政2年(1790年) 3月場所 江戸 深川八幡宮 3月22日 9 5月場所 大坂 新地 5月25日 10 11月場所 江戸 本所回向院 11月15日 10 寛政3年(1791年) 4月場所 江戸 本所回向院 4月22日6月22日 10 上覧相撲などにより大幅に延期、改めて初日が触れられる(返り初日)。 8月場所 大坂 新地 8月15日 11月場所 江戸 本所回向院 11月15日 12月4日 10 寛政4年(1792年) 3月場所 江戸 神田明神 3月24日 10 7月場所 大坂 新地 7月15日 11月場所 江戸 浅草八幡宮 11月14日 103 悪天候のため3日で打ち上げ。 寛政5年(1793年) 3月場所 江戸 浅草八幡宮 3月20日 9 7月場所 大坂 新地 7月15日 8月場所 京都 二条新地川東 8月5日 11月場所 江戸 本所回向院 10月26日 10 寛政6年(1794年) 3月場所 江戸 深川八幡宮 3月19日 10 7月場所 大坂 新地 7月15日 11月場所 江戸 本所回向院 11月16日 10 寛政7年(1795年) 3月場所 江戸 本所回向院 3月20日 105 悪天候のため5日で打ち上げ。 8月場所 大坂 新地 8月12日 11月場所 江戸 浅草八幡宮 11月20日 10 寛政8年(1796年) 3月場所 江戸 本所回向院 3月3日 10 5月場所 大坂 新地 10 10月場所 江戸 本所回向院 10月16日 10 寛政9年(1797年) 3月場所 江戸 浅草八幡宮 3月28日 10 8月場所 大坂 新地 10 10月場所 江戸 芝神明 10月22日 10 寛政10年(1798年) 3月場所 江戸 芝神明宮 3月6日3月26日 5月29日 10 7月場所 大坂 新地 7月17日 10 10月場所 江戸 本所回向院 10月24日 10 寛政11年(1799年) 2月場所 江戸 本所回向院 2月28日 107 悪天候のため7日で打ち上げ。 7月場所 大坂 南堀江 11月場所 江戸 本所回向院 11月1日 10 寛政12年(1800年) 4月場所 江戸 浅草八幡宮 4月21日 105 5日目で打ち上げ。 4月場所 大坂 新地 5月16日 江戸相撲にあわせて、5月に延期。 10月場所 江戸 浅草八幡宮 10月25日 10 寛政13年享和元年(1801年) 3月場所 江戸 深川八幡宮 3月3日 10 8月場所 大坂 南堀江 8月1日 8月場所 京都 二条川東 11月場所 江戸 本所回向院境内 11月24日 106 不入りのため6日で打ち上げ。 享和2年(1802年) 2月場所 江戸 神田明神 2月25日 10 6月場所 大坂 新地 6月3日 10月場所 大坂 新地 10月1日 秋場所として再度開催。 11月場所 江戸 本所回向院境内 11月13日 10 場所中に上覧相撲が入る。 享和3年(1803年) 3月場所 江戸 浅草八幡宮 3月20日5月6日 6月10日 107 はしかのため7日で打ち上げ。 7月場所 大坂 南堀江 7月28日 8月場所 京都 二条川東 8月12日 10月場所 江戸 本所回向院境内 10月20日 10 享和4年文化元年(1804年) 3月場所 江戸 神田明神御 3月20日 9 6月場所 大坂 南堀江 6月3日 7月場所 京都 二条川東 7月15日 10 10月場所 江戸 本所回向院 10月27日 10 文化2年(1805年) 2月場所 江戸 本所回向院 2月5日 10 場所中にめ組の喧嘩で長期中断。 5月場所 大坂 新地 10月場所 江戸 本所回向院 10月18日 10 文化3年(1806年) 2月場所 江戸 山王御旅所茅場町薬師 2月12日 105 文化の大火のため、5日で打ち切り。 5月場所 大坂 南堀江 9月場所 大坂 新地 10月場所 江戸 本所回向院境内 10月22日 10 文化4年(1807年) 2月場所 江戸 浅草八幡宮 2月15日 10 7月場所 大坂 新地 11月場所 江戸 本所回向院 11月12日 10 文化5年(1808年) 3月場所 江戸 本所回向院 3月15日 10 7月場所 大坂 新地 10月場所 江戸 本所回向院 10月25日 10 文化6年(1809年) 2月場所 江戸 山王御旅所茅場町薬師境内 2月9日 10 5月場所 大坂 新地 10月場所 江戸 本所回向院 10月25日 10 文化7年(1810年) 2月場所 江戸 山王御旅所茅場町薬師 2月15日 10 5月場所 大坂 新地 10 7月場所 京都 二条川東 10 10月場所 江戸 本所回向院 10月20日 10 文化8年(1811年) 2月場所 江戸 山王御旅所茅場町薬師 2月3日 10 7月場所 大坂 新地 11月場所 江戸 本所回向院 11月7日 10 文化9年(1812年) 4月場所 江戸 深川元町神明宮 4月19日 105 5日で打ち上げ。 5月場所 大坂 新地 7月場所 京都 二条川東 10 9月場所 大坂 新地 11月場所 江戸 本所回向院 11月9日 10 文化10年(1813年) 1月場所 江戸 浅草観世音 1月28日 10 8月場所 大坂 新地 11月場所 京都 二条川東 10 11月場所 江戸 本所回向院 11月28日 10 文化11年(1814年) 4月場所 江戸 本所回向院 4月3日 10 5月場所 大坂 新地 10 6月場所 京都 二条川東 10 11月場所 江戸 本所回向院 11月8日 10 文化12年(1815年) 3月場所 江戸 西久保八幡宮 3月1日 10 8月場所 京都 二条川東 8月2日 10 9月場所 大坂 新地 11月場所 江戸 麹町拾丁目心法寺 11月12日 10 文化13年(1816年) 2月場所 江戸 西久保八幡宮 3月25日 108 8日で打ち上げ。 5月場所 大坂 新地 8月場所 大坂 新地 8月場所 京都 三条川東 10 10月場所 江戸 本所回向院 10月18日 10 文化14年(1817年) 1月場所 江戸 本所回向院 1月20日 10 5月場所 大坂 新地 7月場所 京都 二条川東 10月場所 江戸 本所回向院境内 10月5日 10 文化15年文政元年(1818年) 2月場所 江戸 浅草八幡宮 2月15日 10 5月場所 大坂 新地 10 6月場所 京都 二条川東 10 10月場所 江戸 浅草八幡宮 10月25日 10 文政2年(1819年) 3月場所 江戸 本所回向院 3月3日 10 5月場所 大坂 新地 11月場所 江戸 本所回向院 11月6日 10 文政3年(1820年) 3月場所 江戸 本所回向院 3月20日 106 6日目で打ち上げ。 4月場所 大坂 新地 中相撲として開催。 7月場所 京都 二条川東 10 10月場所 江戸 山王御旅所茅場町薬師 10月19日 10 文政4年(1821年) 2月場所 江戸 浅草御蔵前大護院 2月21日 10 4月場所 大坂 新地 8月場所 京都 祇園 10 10月場所 江戸 本所回向院 10月27日 10 文政5年(1822年) 1月場所 江戸 本所回向院 1月3日 10 6月場所 大坂 新地 10月場所 江戸 本所回向院 10月24日 10 文政6年(1823年) 2月場所 江戸 本所回向院 2月3日 107 7日目で打ち上げ。 6月場所 大坂 新地 6月23日 8月場所 京都 二条川東 8月1日 10 10月場所 江戸 本所回向院境内 10月24日 10 文政7年(1824年) 1月場所 江戸 湯島天神 1月6日 10 6月場所 大坂 新地 6月4日 10月場所 江戸 本所回向院 10月7日 10 文政8年(1825年) 1月場所 江戸 浅草八幡宮 1月23日 10 6月場所 大坂 新地 6月6日 7月場所 京都 10 10月場所 江戸 芝神明宮 10月18日 10 文政9年(1826年) 1月場所 江戸 本所回向院 1月25日 10 5月場所 大坂 新地 7月場所 京都 二条川東 7 10月場所 江戸 本所回向院 10月26日 10 文政10年(1827年) 3月場所 江戸 芝明神 3月13日 107 7日目で打ち上げ。 6月場所 大坂 新地 6月5日 10 11月場所 江戸 本所回向院 11月7日 105 5日目で打ち上げ。 文政11年(1828年) 3月場所 江戸 本所回向院 3月3日 10 6月場所 大坂 新地 6月26日 7月場所 京都 二条川東 10 10月場所 江戸 本所回向院境内 10月24日 10 文政12年(1829年) 2月場所 江戸 本所回向院境内 2月7日 107 大火のため7日目で打ち切り。 7月場所 大坂 新地 7月23日 10 9月場所 京都 四条河原 10 9月場所 大坂 新地 10月場所 江戸 本所回向院 10月22日 10 文政13年天保元年(1830年) 3月場所 江戸 本所回向院 3月15日 10 場所中に上覧相撲のため中断。 8月場所 大坂 新地 8月6日 10 9月場所 京都 二条川東 7 11月場所 江戸 本所回向院 11月1日 10 天保2年(1831年) 2月場所 江戸 芝神明社内 2月4日 10 6月場所 大坂 南興福寺 6月24日 7月場所 京都 四条河原 11月場所 江戸 本所回向院 11月1日 108 勧進能のため4日目以降を翌年1月へ順延、8日目まで。 天保3年(1832年) 江戸春場所は冬場所順延のため開催されず。 6月場所 大坂 新地 10 7月場所 京都 四条河原 7月16日 10 11月場所 江戸 本所回向院 11月1日 10 天保4年(1833年) 2月場所 江戸 本所回向院 2月13日 10 8月場所 大坂 新地 8月7日 10 8月場所 京都 二条川東 10 11月場所 江戸 本所回向院 10月27日11月13日 108 力士の帰京が遅れて順延。8日目で打ち上げ。 天保5年(1834年) 1月場所 江戸 本所回向院 1月22日 10 上方では本場所なし。 10月場所 江戸 本所回向院 10月25日 10 天保6年(1835年) 1月場所 江戸 本所回向院 1月22日 10 7月場所 大坂 新地 10 8月場所 京都 二条川東 8月4日 10月場所 江戸 本所回向院 10月19日 10 天保7年(1836年) 2月場所 江戸 本所回向院 2月6日 106 6日目で打ち上げ。 9月場所 大坂 新地 9月11日 10 11月場所 江戸 本所回向院 11月11日 10 天保8年(1837年) 1月場所 江戸 本所回向院 1月15日 10 9月場所 大坂 新地 10 10月場所 江戸 本所回向院 10月20日 10 天保9年(1838年) 2月場所 江戸 本所回向院 2月5日 106 6日目で打ち上げ。 6月場所 大坂 新地 6月10日 10月場所 江戸 本所回向院 10月20日 10 天保10年(1839年) 3月場所 江戸 本所回向院 3月3日 10 7月場所 大坂 新地 7月15日 10 8月場所 京都 三条川東 8月3日 11月場所 江戸 本所回向院 11月5日 10 天保11年(1840年) 2月場所 江戸 本所回向院 2月22日 10 6月場所 大坂 新地 7月場所 京都 四条河原 7月16日 10 10月場所 江戸 本所回向院 10月24日 10 天保12年(1841年) 1月場所 江戸 本所回向院 1月13日 10 7月場所 大坂 新地 10 8月場所 京都 三条川東 8月8日 10 11月場所 江戸 本所回向院 11月4日 108 大雪のため8日目で打ち上げ。 天保13年(1842年) 2月場所 江戸 本所回向院 2月4日 10 7月場所 大坂 新地 10 10月場所 江戸 本所回向院 10月5日 10 天保14年(1843年) 1月場所 江戸 本所回向院 1月25日 10 5月場所 大坂 新地 8月場所 京都 四条河原 8月6日 5 10月場所 江戸 本所回向院 10月15日 10 天保15年弘化元年(1844年) 1月場所 江戸 本所回向院 1月28日 10 6月場所 大坂 天満砂浜屋敷 10 8月場所 京都 四条河原 10月場所 江戸 本所回向院 10月26日 10 弘化2年(1845年) 3月場所 江戸 本所回向院 3月16日 10 7月場所 大坂 天満砂浜屋敷 7月19日 8月場所 京都 四条河原 8月9日 11月場所 江戸 本所回向院 11月7日 10 弘化3年(1846年) 3月場所 江戸 本所回向院 3月18日 10 6月場所 大坂 日本橋御蔵前 108 台風被害のため打ち切り。 11月場所 江戸 本所回向院 11月21日 10 弘化4年(1847年) 3月場所 江戸 本所回向院 3月21日 10 5月場所 大坂 天満砂浜屋敷 7月場所 京都 四条道場 11月場所 江戸 本所回向院 11月24日 10 弘化5年嘉永元年(1848年) 1月場所 江戸 本所回向院 1月16日 2月7日 10 7月場所 大坂 天満砂浜屋敷 7月18日 10 7月場所 京都 誓願寺 7月30日 11月場所 江戸 本所回向院 11月23日 12月18日 10 嘉永2年(1849年) 2月場所 江戸 本所回向院 3月2日 3月30日 10 5月場所 大坂 天満砂浜屋敷 10 6月場所 京都 二条川東 108 11月場所 江戸 本所回向院 11月13日 10 嘉永3年(1850年) 3月場所 江戸 本所回向院 3月25日 10 7月場所 大坂 天満砂浜屋敷 11月場所 江戸 本所回向院 11月20日 12月10日 10 嘉永4年(1851年) 2月場所 江戸 本所回向院 2月28日 3月28日 105 場所中に嘉永事件が発生。雨天続きのため5日目で打ち上げ。 7月場所 大坂 天満砂浜屋敷 11月場所 江戸 本所回向院 11月21日 12月4日 10 嘉永5年(1852年) 2月場所 江戸 本所回向院 10 5月場所 大坂 天満砂浜屋敷 11月場所 江戸 本所回向院 10 嘉永6年(1853年) 2月場所 江戸 本所回向院 10 6月場所 大坂 北堀江 11月場所 江戸 本所回向院 10 嘉永7年安政元年(1854年) 2月場所 江戸 本所回向院 2月26日 10 5月場所 大坂 北堀江 11月場所 江戸 本所回向院 10 安政2年(1855年) 2月場所 江戸 本所回向院 - 回向院火災のため番付発表のみで中止。 6月場所 大坂 北堀江 江戸冬場所は安政江戸地震のため開催されず。 安政3年(1856年) 1月場所 江戸 本所回向院 10 4月場所 大坂 北堀江 11月場所 江戸 本所回向院 10 安政4年(1857年) 1月場所 江戸 本所回向院 108 仁王尊開帳のため8日目で打ち上げ。 7月場所 京都 祇園北林 10 8月場所 大坂 北堀江 8 11月場所 江戸 本所回向院 10 安政5年(1858年) 1月場所 江戸 本所回向院 10 6月場所 大坂 北堀江 7月場所 京都 11月場所 江戸 本所回向院 - 江戸大火のため番付発表のみで中止。 安政6年(1859年) 1月場所 江戸 本所回向院 10 7月場所 大坂 天満砂浜屋敷 11月場所 江戸 本所回向院 10 安政7年万延元年(1860年) 2月場所 江戸 本所回向院 10 6月場所 大坂 天満砂浜屋敷 10月場所 江戸 本所回向院 107 7日目で打ち上げ。 万延2年文久元年(1861年) 2月場所 江戸 本所回向院 10 5月場所 大坂 天満砂原屋敷 10月場所 江戸 本所回向院 10 文久2年(1862年) 2月場所 江戸 本所回向院 3月20日 10 6月場所 大坂 天満砂原屋敷 10 11月場所 江戸 本所回向院 10 文久3年(1863年) 6月場所 大坂 天満砂原屋敷 7月場所 江戸 本所回向院 10 11月場所 江戸 本所回向院 109 9日目で打ち上げ。 文久4年元治元年(1864年) 4月場所 江戸 本所回向院 10 4月場所 大坂 天満砂原屋敷 10 10月場所 江戸 本所回向院 10 元治2年慶応元年(1865年) 2月場所 江戸 本所回向院 10 閏5月場所 大坂 天満砂原屋敷 11月場所 江戸 本所回向院 10 慶応2年(1866年) 3月場所 江戸 本所回向院 10 5月場所 大坂 天満砂原屋敷 10 11月場所 江戸 本所回向院 10 慶応3年(1867年) 3月場所 江戸 本所回向院 4月16日 10 6月場所 大坂 天満砂原屋敷 11月場所 江戸 本所回向院 10
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江戸時代(1603年 - 1868年)
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「日本とキューバの関係」の記事における「江戸時代(1603年 - 1868年)」の解説
文献で確認できる日本とキューバの交流は、豊臣秀吉の遺児秀頼が大坂城に未だ勢力を保っていた1614年までさかのぼる。1613年の秋に宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として仙台藩月ノ浦(現・石巻市)を出発した慶長遣欧使節が、太平洋経由でスペイン帝国本土に向かう途中の翌1614年7月23日、当時スペイン副王領ヌエバ・エスパーニャの一地方都市であったハバナに立ち寄って、8月初旬まで滞在した。後年の話になるが、2001年、支倉常長にゆかりのある仙台育英学園がこの史実を記念して、創立百周年記念事業の一環としてハバナに支倉常長の像を寄贈した。この銅像は、彫刻家の土屋瑞穂が台座に仙台城石垣の石を用いて制作したものであり、同年4月26日には除幕式が行われた。 1620年8月、支倉の率いる慶長遣欧使節が、正使であった宣教師ソテロを連れずに帰朝した。支倉らが7年ほど外遊していた間に、日本では大坂に拠っていた秀頼が母淀殿らと共に自害して豊臣氏が滅亡、徳川氏の政道に異を唱える勢力が一掃され、キリシタン旧教勢力による内政干渉を断固排撃して内政干渉をしないキリシタン新教勢力のオランダのみと国交を結ぶことを基本方針とした鎖国体制が築かれつつあったため、旧教勢力の大国スペインの息のかかったソテロをマニラに置き去りにして帰朝せざるを得なかったのである。1622年9月、慶長遣欧使節の正使を務めていたソテロが日本に密入国しようとしたところ、幕府に露見して捕らえられた。その翌々年の1624年、かつてキリシタン大名大村純忠が統治していた長崎の大村で焚刑に処された。また、この年に日本はスペインとの国交を断絶し、キューバを含むスペイン副王領ヌエバ・エスパーニャとの外交関係も途絶した。以後、江戸幕府が倒れるまで国交が回復することはなかった。
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江戸時代(1603年 - 1868年)
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「駐日オランダ大使館」の記事における「江戸時代(1603年 - 1868年)」の解説
「カピタン」および「出島」も参照 日本に常駐するオランダの外交代表の歴史はヨーロッパ諸国で最古の部類に入り、17世紀初頭まで遡ることができる。徳川家光の治世で日本との外交関係が途絶したスペイン・ポルトガル同君連合やイングランド王国(後のイギリス)を除けば、オランダは日本に外交代表を常駐させていた最も歴史の古いヨーロッパの国である。安土桃山時代から寛永年間にかけて、日本はポルトガルと緊密な貿易関係を築いていたが、幕府はまずスペインおよびイングランドとの外交関係を断った後、島原の乱の鎮圧後には緊密な貿易関係のあったポルトガルとの外交関係をも断ち、これにより日本ではヨーロッパ諸国とはオランダのみと外交関係を維持する鎖国体制が完成した。 幕府が依然ポルトガルとの外交関係を維持していた1609年(慶長14年)、オランダ人商人ヤックス・スペックスが肥前国平戸(現・長崎県平戸市)にオランダ商館を開設して初代商館長に就任した。当時、日本との二国間関係が最も古く貿易関係が深かったのはポルトガルだったため、ヨーロッパ諸国の商館長はポルトガル語に因んで一律にカピタン(ポルトガル語: Capitão)と呼ばれるようになった。1619年(元和5年)に10代で平戸のオランダ商館の料理人として着任し、その後は通訳や商館次席、商館長代理など次々と出世したフランス系オランダ人のフランソワ・カロンは、1639年(寛永16年)から1641年(寛永18年)にかけて一時的な商館閉鎖の憂き目に遭いながらも幕府と協調しつつ商館長として奉職した。同時期に幕府はポルトガルと断交し、断交後には通商再開を協議するため来日したポルトガル人を処刑している。 平戸に常駐した最後のオランダ商館長は、初めて『オランダ風説書』を口述筆記して幕府に提出したことで広く知られるマクシミリアン・ル・メールである。日本がポルトガルと断交したことにより、それまでポルトガル商館が置かれていた出島が無人となっていたが、1641年(寛永18年)にカロン商館長が幕府による平戸から出島へのオランダ商館移転要請を承諾し、これを受けて後任者のル・メール商館長が同年内に商館を肥前国出島(現・長崎県長崎市出島町)へ移転させた。寛永年間に開かれた出島のオランダ商館は、ナポレオン・ボナパルトのヨーロッパ征服によりオランダが本土を喪失した時期も含めて維持され、幕末の安政年間まで200年以上にわたって存続した。安政年間には、最後の商館長ヤン・ドンケル・クルティウスにより、日蘭和親条約や日蘭追加条約の締結や軍艦2隻の発注、長崎海軍伝習所の設立などが相次いで執り行われた。 1859年(安政6年)、江戸の西応寺境内(現・みなと幼稚園敷地内)に史上初の駐日オランダ公使館(オランダ語: Nederlandse Legatie in Japan、英語: Legation of the Netherlands in Japan / Dutch Legation in Japan)が置かれた。1867年(慶応3年)末に勃発した江戸薩摩藩邸の焼討事件により西応寺も延焼、全焼したため、オランダ公使館は品川の長応寺へ移転し、オランダのディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック代理公使らは長応寺で明治維新を迎えた。
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江戸時代
「江戸時代」の例文・使い方・用例・文例
- 江戸時代を中心とする
- 特別展示では、江戸時代の生活様式と文化が特集されています。
- 江戸時代の人々はできるだけ物を長く使えるように努力した。
- 花火は江戸時代頃に人気を博した。
- それは江戸時代からの習慣です。
- これは、江戸時代に出版された本です。
- この門には江戸時代初期の建築技術が最大限に発揮されている。
- それは江戸時代中期から人気がありました。
- それらは江戸時代から使われているものです。
- こけしは江戸時代からある玩具です。
- これは江戸時代より前の文化です。
- 江戸時代には、観月の宴がとても人気だった。
- 江戸時代に、各藩の奨励策によって、全国各地に地場産業が興った。
- 江戸時代、武士は刀を2本刺していた。
- この習慣は江戸時代に始まった。
- この習慣は江戸時代からのものだ。
- このテレビドラマを見れば江戸時代の庶民の暮らしぶりがよくわかります。
- 利根川は江戸時代の氾濫防止工事によって流れを変えられるまで関東平野をうねるように流れていたということがわかった.
- 日本のテレビドラマで人気のある人物の一人は, いつもお忍びの旅をして善にむくい, 悪をこらしめる江戸時代の副将軍である.
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