えど じだい [3]【江戸時代】
江戸時代
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江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。
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- ^ 幕府の反対により典仁親王の尊号宣下を見合わせた事件、寛政4年(1792年)11月「尊号一件」で寛政5年(1793年)に辞職する
- ^ 同年5月22日に、江戸市中に告げられた。市中の奢侈な風俗の取締、贅沢の禁止、質素倹約が強行された。
- ^ 8年後の1861年、幕府は庶民の大船建造・外国船購入を許可する
- ^ 嫡子の在国が許された。大名の妻子に対しての帰国が許可された。
- ^ 旗本に対し、3000石に付き10人、1000石に付き3人、500石に付き1人の人提出を、500石以下は金納にし、この人数で歩兵組を編成した
- ^ 長州が公家たちを懐柔し、天皇の詔勅であるといってつぎつぎにいろいろな命令を出すと、天皇には覚えがないと言った「偽詔勅事件」が次々に起こってくる。これを「下より出る叡慮」ともいう。
- ^ 馬関海峡を航行中の外国船(米船ペムブローク号、300トン)を自藩製の大砲で攻撃して「攘夷」を決行した。庚申丸から砲撃し、たまたま馬関に向かっていた癸亥丸も砲撃に加わった。しかし、米船は全速力で逃げ、両船は速力の差が明白すぎて、追跡できなかった。意気の上がった長州側は、5月23日仏軍艦キンシャン号を、26日には蘭艦メジュサ号を砲撃した
- ^ 3年後の1866年(慶応2年)4月7日には、幕府、学術・商業のための海外渡航を許可している
- ^ 大坂に、各国駐日代表を引見した。3月25日にパークスと、26日にオランダ総領事と、27日ロッシュと、28日に英仏蘭三国代表と、4月1日に米駐日公使ファルケンブルグと会見した。
- ^ 5月、西宮・大坂・堺・兵庫・江戸に打ちこわし。6月、武蔵一円打ち毀し(武州世直し一揆)、陸奥信達両郡で打ち毀し(信達騒動)。7月、伊予大洲藩、出羽村山郡で打ち毀し。8月、小倉藩で、長州戦争の混乱から一揆。幕府、諸国凶作・米価高騰につき庶民の外国米販売・交友を許可。11月、江戸の窮民増加。幕府、窮民中の強壮者を兵に採用と布告
- ^ 6ヶ条にわたる密約、協定は主として、第二次征長について、薩摩が長州藩のために政治的に援助することを決めたものだった。5条には、幕府が、朝廷を擁し正義をこばみ、周旋尽力の道を遮るときは、さつまはばくふと「遂に決戦に及び候ほかこれ無きこと」という文句を入れた。中味は防衛的な同盟であったが、この中では場合によっては倒幕もあり得ることを初めて示した。
- ^ 一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷から出すべきこと。 一、上下議政局を設け、議院を置き、万機を参賛せしめ、万機よろしく公論に決すべきこと。 一、有材の公卿、諸侯および天下の人材を顧問に備え、官爵を賜い、よろしく従来有名無実の官を除くべきこと。 一、外国の交際、広く公議をとり、新たに至当の規約を立つべきこと。 一、古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を選定すべきこと。 一、海軍よろしく拡張すべきこと。 一、御親兵を置き、帝都を守護せしむべきこと。 一、金銀物価、よろしく外国と平均の法を設くべきこと。
- ^ 金持ちの家に上がり込んで飲食したりするなどの行動を起こした。この行動については幕府への行動として行われていた一揆や打ち毀しなどの過激な行動が激減し、代わりに弱い「ええじゃないか」行動が行われたとする見解、また、世直し運動の変型とみる見解、討幕派の政治活動を隠蔽する役割を果たしたという見方もある
- ^ 1868年正月、越前藩の由利公正が原案を起草した。村田氏寿や毛受洪(めんじゅひろし)に案を見せ、ついで福岡孝弟に見せたら賞賛された。清書をし、岩倉公に差し出す約束をしてくれた。由利家に残っている草案は次のものであった。「議事の体大意 一、庶民志をとげ人心をして倦まざらしむるを欲す。一、士民心をいつにしてさかんに経綸をおこなうを要す。一、知識を世界に求め、広く皇基を振起すべし。一、貢士期限をもって賢才に譲るべし。一、万機公論に決し、私に論ずる勿れ。」此の草案は、最後に政府によって採用された案とはかなり異なっている。由利の草案は、福岡孝弟によって、次のように訂正された。「会盟 一、列侯会議を起こし、万機公論に決すべし。一、官武一途、庶民にいたるまでおのおのその志をとげ、人心をして倦まざらしむるを欲す。一、上下心を一にし、さかんに経綸をおこなうべし。一、知識を世界に求め、大いに皇紀を振起すべし。一、微士期限をもって賢才に譲るべし。」、福岡は、土佐藩の公武合体説に基づいて、由利案を変えた。
- ^ 1868年(慶応4年)3月14日、明治天皇は、京都御所の紫宸殿に於いて、神前で五つのことを誓った。このとき御誓文とともに、明治天皇自らの信念の発表があった。これは[宸翰」(しんかん)と呼ばれた。(天皇このとき数えで16歳、満で15歳)書いたのは木戸孝允孝允と言われている 「宸翰 朕幼弱をもってにわかに大統(たいとう)を紹(つ)ぎ爾来何をもって万国に対立し、列祖につかえ奉らんやと朝夕恐懼にたえざるなり。 ひそかに考えるに中葉朝政衰えてより武家権をもっぱらにし、表は朝廷を推尊して実は敬いしてこれを遠ざけ、億兆の父母として絶えて赤子(せきし)の情を知ることあたわざるより計りなし、ついに億兆の君たるもただ名のみになり果て、それがために今日朝廷の尊重は古に倍せしがごとくして朝威は倍衰え、上下(しょうか)相離るること霄譲(しょうじょう)のごとし。かかる形勢にて何をもって天下に君臨せんや。 今般朝政一新の時にあたり天下億兆一人もその所を得ざる時は、皆朕が罪なれば今日の事朕自身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、古え列祖の尽きさせ給いしあとをふみ、治蹟をすすめてこそ、はじめて天職を奉じて億兆の君たる所にそむかざるべし。 往昔列祖万機を親(みずか)らし不臣(ふしん)のものあればみずから将としてこれを征したまい、朝廷の政すべて簡易にしてかくのごとく尊重ならざるゆえ、君臣相したしみて上下相愛し徳沢(とくたく)天下にあまねく国威海外に耀きしなり。 しかるに近来宇内大いに開け各国四方に相雄飛するの時にあたり、ひとり我国のみ世界の形勢にうとく、旧習を固守し、一新の効を計らず、朕いたずらに九重中に安居し、一日の安きをぬすみ、百年の憂いを忘るるときはついに各国の凌侮を受け、上に列祖をはずかしめ奉り、下は億兆を苦しめんことをおそる。ゆえに朕ここに百巻諸侯と広く相誓い列祖の御偉業を継述し、一身の艱難辛苦を問わず、みずから四方を経営し汝億兆を安撫し、ついには万里の波濤を開拓し、国威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置かんことを欲す。汝億兆旧来の陋習になれ、尊重のみを朝廷のこととなし、神州の危急を知らず。朕一たび足を挙げれば非常に驚き、種々の疑惑を生じ、万口紛紜として朕が志をなさざらしむる時は、これ朕をして君たる道を失わしむるのみならず、従って列祖の天下を失わしむるなり。 汝億兆よくよく朕が志を体認し、相率いて私見を去り、公議をとり、朕が業を助けて神州を保全し、列祖の神霊を慰し奉らしめば生前の幸甚ならん。」
- ^ 『近世日本の展開』2頁~3頁著者は蔵並省自
- ^ 大石慎三郎「江戸幕府の行政機構」
- ^ 大石慎三郎は「全世界の歴史を見渡してみても、日本の江戸時代ほど都市が計画的に、しかも大量に作られ、その新しく作った都市が社会構造の中で中心になった例は、ほかに見られない」と述べている。林・大石『流通列島の誕生』(1995年)。
- ^ 佐藤・岡崎(2000年)。
- ^ 丸山真男著 『 丸山真男講義録 第一冊 日本政治思想史 1948 』 東京大学出版会 1998年 151ページ
- ^ 藤沢周平著 『藤沢周平全集 第17巻』 文藝春秋 1993年 420ページ
- ^ しかし、1814年(天保15年)6月、忠邦、再び老中となった
- ^ 藤田覚 『泰平のしくみ-江戸の行政と社会』 岩波書店 2012年 202ページ
- ^ 源了圓は、「『海国図志』の日中韓の読み方の違い」において、後に洋務派と変法派を生みつつも刊行当時は正しく評価されなかった清国、『海国図志』への反応が鈍かった朝鮮、翻刻本23種(うち和訳本16種)が刊行され、国民一般に公開されて、きわめて関心が高かった日本を比較している。源(1999年)『地球日本史3』西尾幹二責任編集
- ^ 半藤一利 『 幕末史 』 新潮社 2008年 50-51ページ
- ^ 第1位の生糸が輸出額の50~80%、第2位の茶が5~17%を占めていた
- ^ 宮地正人監修、大日方純夫・山田朗・山田敬男・吉田裕著 『日本近現代史を読む』 新日本出版社 2010年 17ページ
- ^ 1863年(文久3年)11月、薩摩藩、英公使に10万ドルを交付して生麦事件解決している
- ^ 宮地正人著 『幕末維新変革史 下』 岩波書店 2012年 321ページ
- ^ 半藤一利 『 幕末史 』 新潮社 2008年 157ページ
- ^ 全大名に命じたが、実行した版はほとんどなかった。
- ^ 田中彰著 『近代天皇制への道程』 吉川弘文館 1979年初版 2007年復刻 46ページ
- ^ 田中彰著 『近代天皇制への道程』 吉川弘文館 1979年初版 2007年復刻 46-47ページ
- ^ 宮地正人著 『幕末維新変革史 下』 岩波書店 2012年 423ページ
- ^ 宮地正人著 『幕末維新変革史 下』 岩波書店 2012年 39-40ページ
- ^ 宮地正人著 『幕末維新変革史 下』 岩波書店 2012年 40ページ
- ^ 藤沢周平著 『藤沢周平全集 第7巻』 文藝春秋 1993年 77ページ
- ^ 藤沢周平著 『藤沢周平全集 第7巻』 文藝春秋 1993年 78ページ
- ^ 宮地正人監修、大日方純夫・山田朗・山田敬男・吉田裕著 『日本近現代史を読む』 新日本出版社 2010年 18ページ
- ^ 鶴見俊輔著 『 御一新の嵐 』 <鶴見俊輔集・続-2> 筑摩書房 2001年 149-151ページ
- ^ 鶴見俊輔著 『 御一新の嵐 』 <鶴見俊輔集・続-2> 筑摩書房 2001年 152-153ページ
- ^ a b 大塚英樹 1999, p. 74.
- ^ 大塚英樹 1999, p. 73.
- ^ 大塚英樹 1999, p. 83.
- ^ 大塚英樹 1999, p. 84-85.
- ^ 大塚英樹 1999, p. 86.
- ^ 大塚英樹 1999, p. 87.
- ^ 大塚英樹 1999, p. 87-88.
- ^ 大塚英樹 1999, p. 89.
- ^ 大塚英樹 1999, p. 91.
- ^ 「人口構成の正確な状況を把握するために、いくつかの村の膨大な古い記録を調べてみたことがある」として。松原久子『驕れる白人と闘うための日本近代史』( 育てるのは二人か三人、下百姓は二人あるいは一人(児玉幸多『近世農民生活史』)
- ^ a b 北原糸子『日本災害史』吉川弘文館、2016年
- ^ 久光重平『日本貨幣物語』毎日新聞社、1976年
- ^ a b 磯田道史『NHKさかのぼり日本史〈6〉江戸“天下泰平”の礎』日本放送協会出版、2012年
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