日蘭関係
日蘭関係
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オランダは鎖国中も出島での交易を許されており、またオランダ風説書にて海外事情を幕府に報告していた。さらにアヘン戦争が始まると、以降は別段風説書を作成してイギリスの武力による中国進出を詳しく報告した。1844年8月14日(弘化元年7月2日)に長崎に入港した軍艦パレンバン号は、オランダ国王ウィレム2世の親書を携えており、武力によって強制される前に平和的に開国することを薦めてきた。老中に再任していた水野忠邦は開国を主張したが他の幕閣の同意を得られず、また将軍徳川家慶の反対もあって、幕府はこれを拒否した。1852年7月(嘉永5年6月)、ヤン・ドンケル・クルティウスが到着、出島のオランダ商館長となったが、これは開国を見越した人事であり、クルティウスは外交官として活動できる資格を有していた。クルティウスは別段風説書でペリーの来航を予告するとともに、東インド総督・バン・トゥイストの通商条約素案を提出したが、交渉には至らなかった。 1853年7月8日(嘉永6年6月3日)にペリーが来航、翌年の再訪を告げて立ち去ったが、幕府は開国に備えクルティウスを通じ、軍艦の発注と乗員の訓練の申し出を行った。この申し出は、翌年3月(嘉永7年2月)に来航したスムービング号のファヴィウス艦長と長崎奉行水野忠徳の間でより具体化し、1854年11月11日(嘉永7年9月21日)、オランダにコルベット2隻(咸臨丸及び朝陽丸)が発注された。さらに、1855年12月3日(安政2年10月24日10月24日)には長崎海軍伝習所が設立され、オランダは練習船としてスムービング号を寄贈した(後の観光丸)。ヘルハルト・ペルス・ライケン(第一次)、ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ(第二次)を団長とする教官団が派遣された。この功績が認められ、1856年1月30日(安政2年12月23日)には日蘭和親条約が調印され、クルティウスは駐日オランダ理事官となった。1857年10月16日(安政4年8月29日)には日蘭追加条約が調印され、自由貿易ではないものの、貿易の大幅な拡大が認められた。 1858年(安政5年)春、クルティウスと補佐官のディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックは江戸に出て、通商条約の交渉を開始し、日米修好通商条約には1ヶ月程遅れたが、1858年8月18日(安政5年7月10日)日蘭修好通商条約調印にこぎつけた。ポルスブルックは1863年7月(文久3年6月)に公使(外交事務官)となったが、下関戦争や兵庫開港要求事件の際は、英仏米と共同歩調をとった。また、ポルスブルックは、スイス・ベルギー・デンマークなどのヨーロッパ諸国と幕府の条約締結に 積極的に関与した。 長崎海軍伝習所は、1859年(安政6年)に資金不足を理由に閉鎖されてしまったが、1862年(文久2年)には幕府海軍最大の軍艦となる開陽丸をオランダが受注。軍艦引受をかねて、榎本武揚ら15人の留学生がオランダに派遣された。1867年5月20日(慶応3年4月17日)、開陽丸は幕府へと引き渡された。 海軍伝習所から派生した長崎英語伝習所や長崎養生所は、名前を変えて現在も存続している。そこでは、フルベッキ、ポンペ、ボードウィン、ハラタマらが教育に尽力し、幕末・明治初期の人材育成に貢献した。
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