堀田正睦とは? わかりやすく解説

ほった‐まさよし【堀田正睦】

読み方:ほったまさよし

[1810〜1864]江戸末期幕府老中下総(しもうさ)佐倉藩主。ハリス日米通商交渉に当たり、また、将軍継嗣問題一橋慶喜支持したが、井伊直弼大老就任罷免された。


堀田正睦

読み方ほった まさよし

下総佐倉城主。初名正篤。号見山。称左源太相模守・備中守。紀姓。正時の男、兄正愛の嗣。大阪城代天保12年老中進み開港説を唱え将軍継嗣として一橋慶喜推し任す紀文明公和歌墨蹟がある。元治元年(1864)歿、55才。

堀田正睦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/03 06:20 UTC 版)

堀田 正睦(ほった まさよし)は、江戸時代後期の大名老中首座。下総国佐倉藩5代藩主。官位従四位下侍従従三位正俊系堀田家9代。


注釈

  1. ^ 正睦が才能器量に恵まれていたことと、正敦は伊達家の出身で、その息子を養子にしたら堀田氏の血が断絶するとして反対した[4]
  2. ^ 『正睦伝』では「温厚の君子である正睦が口角泡を飛ばして忠邦のやり方を批判したとある[10]
  3. ^ この事がかえって、正睦と直弼が結んだという憶測を招いたとされる。

出典

  1. ^ a b c 『評伝 堀田正睦』20頁。
  2. ^ 堀田正久の『堀田正睦の幼少年期、御厄介様時代』『評伝 堀田正睦』21頁・22頁。
  3. ^ a b 『評伝 堀田正睦』22頁。
  4. ^ 『評伝 堀田正睦』23頁・24頁。
  5. ^ 針谷武志 「佐倉藩と房総の海防」(吉田伸之・渡辺尚志 編『近世房総地域史研究』(東京大学出版会、1993年) ISBN 4130260561)P159-160
  6. ^ 『評伝 堀田正睦』23頁。
  7. ^ a b c 『評伝 堀田正睦』249頁。
  8. ^ 『評伝 堀田正睦』41頁。
  9. ^ a b 『評伝 堀田正睦』250頁。
  10. ^ 『評伝 堀田正睦』43頁。
  11. ^ 『評伝 堀田正睦』43頁・44頁。
  12. ^ 『評伝 堀田正睦』44頁・45頁。
  13. ^ 『評伝 堀田正睦』65頁。
  14. ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日). https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4d57ba83d5e41aac42e5017f84dc3147e53dc0ff 2020年12月2日閲覧。 
  15. ^ 『評伝 堀田正睦』250頁。
  16. ^ 『評伝 堀田正睦』67頁。
  17. ^ 『評伝 堀田正睦』67頁・68頁。
  18. ^ 『評伝 堀田正睦』68頁。
  19. ^ 『評伝 堀田正睦』68頁・69頁。
  20. ^ a b 『評伝 堀田正睦』237頁・252頁。
  21. ^ 『評伝 堀田正睦』239頁・252頁。
  22. ^ 『評伝 堀田正睦』239頁。
  23. ^ 『評伝 堀田正睦』239頁・240頁。
  24. ^ a b 『評伝 堀田正睦』240頁・252頁。
  25. ^ 『評伝 堀田正睦』240頁。
  26. ^ 佐倉市の文化財-史跡(2)「墓・碑 など」”. 佐倉市. 2020年3月15日閲覧。
  27. ^ 『評伝 堀田正睦』46頁。


「堀田正睦」の続きの解説一覧

堀田正睦(ほった まさよし)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 04:11 UTC 版)

龍馬伝」の記事における「堀田正睦(ほった まさよし)」の解説

老中首座

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堀田正睦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 22:30 UTC 版)

陽だまりの樹」の記事における「堀田正睦」の解説

幕府老中首座蘭癖あだ名されるほどの蘭学好き。

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堀田正睦

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佐倉藩」の記事における「堀田正睦」の解説

文政8年1825年)に第5代藩主となった堀田正睦は、2度わたって幕府老中務めた人物として知られる1度目水野忠邦とともに天保の改革推進安政2年老中再任され、ペリー来航以降外国事務取扱老中となり、ハリスとの日米修好通商条約締結などで奔走した。しかし将軍継嗣問題などで井伊直弼対立し安政5年1858年)に老中罷免され蟄居した。 佐倉藩の上では「天保の改革」を実施家中扶持政策・学改革勧農政策行った。正睦は蘭学奨励した人物として知られており、天保7年には藩校成徳書院として拡充し儒学武芸のほかに蘭学医学取り入れたまた、医師佐藤泰然招いて佐倉城下の本町(現・佐倉市本町もとまち))に順天堂を開かせた。蘭方医学に関しては「西の長崎、東の佐倉」と並び称され、また佐倉は「南総学都」と謳われたという。 安政6年1859年)に正睦は家督を子の堀田正倫譲った(正倫が佐倉藩最後藩主となる)が、若年のために正睦が後見として佐倉藩の「万延改革」を実施した側用人依田貞幹を勝手元締に任命して財政改善試みた。正睦は元治元年1864年)に死去した

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