さくらだもんがい‐の‐へん〔さくらだモングワイ‐〕【桜田門外の変】
桜田門外の変
読み方:サクラダモンガイノヘン(sakuradamongainohen)
桜田門外の変
桜田門外の変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/25 15:47 UTC 版)
桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件。「桜田事変」とも言う。
注釈
- ^ ただし、本画像では両端が一部しか掲載されていない。
- ^ 中国(清)では既に阿片戦争が1840年から2年後まで行われ、不平等条約を欧米列強と結ばされていた。
- ^ 徳川斉昭の七男。御三卿・一橋家へ養子、当主となっていた。慶喜自身は将軍家襲封に乗り気ではなかったとされ、「骨が折れるので、天下を取ってから失敗するよりは取らないほうが大きく勝っている」という内容の手紙を父・斉昭へ送っていた(彰考館徳川博物館蔵))。徳川慶喜の項を参照。
- ^ 家定は病弱で知能障害の説もあるが、松平春嶽が家定を酷評しているのに対し、井伊直弼は「世上の風説と違い、中々御聡明に渉らせられ候」としており、将軍継嗣問題の煽りで暗愚と評されたとの説もある[1]。
- ^ 関白を辞めさせるには幕府の了解が必要とされる。江戸時代の関白職は禁中並公家諸法度によった。
- ^ 千葉県松戸市小金。
- ^ 茨城町長岡。
- ^ その後、桜田門外の変が起きて密勅は水戸藩領内に留まった。
- ^ 後に、この約のもと上京した水戸浪士らは孤立した形となった。さらに、事件後の水戸浪士・関鉄之助が薩摩藩へ向かった折、薩摩入藩を拒否された。薩摩藩・精忠組の一部はこれに一時反発した。
- ^ この水戸藩士単独決行の考えは、『斬奸趣意書』の中にも見られる。
- ^ 茨城県水戸市紺屋町。
- ^ これら数名は後から江戸に出て襲撃に加わる手筈であり、道路梗塞もあって江戸へやって来た者が少数となったという[9]。
- ^ 安藤信正は直弼の側近として安政の大獄の片棒を担いでいたので、攘夷志士から奸賊と見做されていた。安藤は水戸藩士から後に坂下門外の変で襲撃された。
- ^ a b 高松松平家は彦根井伊家と共に江戸城溜間詰の大名であり、頼胤は直弼と思想的な親交もあったため、条約調印問題や将軍継嗣問題ではどちらも南紀派についた。一方で、高松松平家は水戸徳川家の御連枝であり、加えて前藩主・松平頼恕は徳川斉昭の異母兄、頼胤の養嗣子・頼聰はその頼恕の実子であった。頼聰は直弼の娘・弥千代と結婚し、水戸藩士らの不評を買っていた。なお、安政の大獄の際、頼胤は本家(水戸家)を監督できなかったとして譴責を受けている。
- ^ ただし、前述の様、薩摩藩による京都義挙計画は破綻していた。
- ^ 現在の憲政記念館辺り。
- ^ 現在の警視庁辺り。
- ^ 十八士に、水戸藩士・畑弥平を含む19名。但し一説に、金子、有村、増子は欠席したとされる[13]。
- ^ 東京都品川区北品川。
- ^ 海後の述懐によれば、雪も早く消え、明治時代の絵草紙で見るような大雪ではなかったと云う[12]。
- ^ 18名の他、水戸脱藩浪士の畑弥平も随行した。畑は品川の旅籠に待機していた水戸藩士・金子孫次郎と、国許の水戸藩庁へ現場の様子を事変後報せた[15]。
- ^ 現在の憲政記念館・国会前庭(北庭)付近。
- ^ 事件当日の朝、老中・脇坂安宅が特に直弼邸へ出向き警告を与えたという[18]。
- ^ 漫画家・みなもと太郎が『風雲児たち 幕末篇』で指摘しているように「刀の柄袋を外させる」「門前に見張りを立てる」位のことは批判されない範囲で可能であり、要するに井伊直弼は警告を本気にしてはいなかったとされる。一方で、直弼の戒名は自ら生前考えていたもので[19]、直弼は既に死を覚悟していた可能性がある。
- ^ 現在の桜田門交差点。
- ^ この時使用されたピストルは、ペリー艦隊が1854年、再度来航した際に幕府に贈呈した最新型コルトM1851を、徳川斉昭が入手して藩内で模倣して製造させていた物。十八浪士の一人・杉山弥一郎は鉄砲鍛冶であり、この模倣技術との深い関わりについて、今後の研究結果が待たれる。水戸浪士の多くが襲撃の際にこのピストルを携帯していた。2010年1月16日の報道によると、実際に発砲したものかは定かではないが、このピストルは現物が出現し、そこには高度な施条が刻まれていた。この銃はGHQによって没収された後アメリカに渡り、日本に里帰りしている。コルトM1851の項を参照。
- ^ 井伊家中間が、後に語った事によれば、中間は彦根藩の大名行列60名の駕籠後方で馬を引いていたが、「殿様の駕籠へ何者かが、刀を抜き数人斬りかかって、その勢いの烈しく怖ろしい事は言い様もない。駕籠の内か外かは分からないが大音声が一声して、警護の者は八方へさっと逃げ去って、抜き合う士もいないように見えた」ため、馬を引いて直弼邸へ戻ったとしている[23]。
- ^ その時の永田の刀が、子孫の永田茂(鈴木貫太郎の末弟)によって彦根城博物館に、赤備え甲冑等と共に寄贈されている。斬りこみ傷が多数あり、激しい戦闘の生々しさを物語っている。河西忠左衛門の刃こぼれした刀も同博物館に保存されている。
- ^ 水戸浪士・黒澤の刀は奮闘により鋸状になり、その記録を自訴後にとったが[25]、岩崎英重は、黒澤が先に発砲していたため、特に彦根藩士から狙われ悪戦したのではないか、としている[26]。
- ^ 一連の事件の経過と克明な様子は、伝狩野芳崖作『桜田事変絵巻』(彦根城博物館蔵)に描かれている。
- ^ 2014年現在の警視庁辺り。
- ^ 城門のすぐそばを血で汚したままにはできない上に、登城のため通過待ちをしている大名家がいたため。
- ^ 山川菊栄は、この遠藤家の皮肉な仕打ちは平生から癪に障っていた譜代大名筆頭25万石の大老が道端で首をかかれた醜態に溜飲を下げ、旗本8万騎の誇りを全うしたつもりだったろう、としている[29]。
- ^ この時点では公式には「井伊直弼は負傷して治療中で且つ存命」ということになっており、首を渡すとなると「直弼は既に死んでいる」ということになってしまうため。
- ^ 和田倉濠(和田倉噴水記念公園)辺り。
- ^ 現在の皇居(旧江戸城)・大手門交差点辺り。
- ^ 東京都千代田区丸の内2丁目、丸の内二丁目ビル際辺り。
- ^ 織田家からの届けによると、山口は「左の後ろから首が落ちかかり、左腕も切れかかり、二の腕も落ちかかり、そのほか数か所の傷」があった[31]。
- ^ 東京都千代田区丸の内1丁目3辺り。
- ^ 東京都千代田区丸の内1丁目6辺り。
- ^ 佐渡から能登へ、後に越後ともいう[33]。
- ^ 現在の新潟県岩船郡関川村。南魚沼郡湯沢町の越後湯沢温泉とは異なる。
- ^ 現在の城里町。
- ^ 昭和10年、増子の孫によって『桜田烈士増子金八事大畠誠三郎略伝』が出版された。
- ^ 現在の常陸大宮市。
- ^ この薬用人参は松江藩が朝鮮から密輸入し、同藩が専売していたものだろうという[17]。
- ^ なお、生麦事件がこの時の久光の帰途に起こっている。
- ^ 靖国神社には幕末維新に関係した祭神約4200柱が祀られているが、このうち1420柱、約3割を水戸藩士のものが占めている[40]。
- ^ 水戸市と敦賀市が、天狗党の縁で姉妹都市提携を結んだのは、水戸と彦根の和解から約4年前の1965年(昭和40年)4月30日だった[41]。
- ^ 彦根市と高松市は、水戸と高松を仲介した日から約8年前の1966年(昭和41年)8月15日に親善都市提携があった[42]。
- ^ 直弼狙撃の実行犯である新説あり[44]。
- ^ 市五郎は誤記とされる[45]。
出典
- ^ 畑尚子『幕末の大奥ー天璋院と薩摩藩』(岩波新書、2007年)
- ^ a b c 岡村 2012, p.122
- ^ 一説に3,000人[2]。
- ^ “井伊直弼と開国150年祭公式サイト 幕末の政局と井伊直弼”. 井伊直弼と開国150年祭実行委員会. 2014年4月。閲覧。
- ^ 岩崎 1911, p.55
- ^ 吉田 1985, p.381
- ^ 岡村 2012, p.121
- ^ 岩崎 1911, p.39
- ^ 岩崎 1911, p.42
- ^ 岩崎 1911, pp.46-47
- ^ a b c d e f 岡村 2012, p.123
- ^ a b 山川 1991, p.264
- ^ a b c d 岡村 2012, p.124
- ^ 岡村 2012, pp.124-125
- ^ a b c 岡村 2012, pp.126-127
- ^ 岡村 2012, pp.125-127
- ^ a b 岩崎 1911, p.179
- ^ 山川 1991, p.267
- ^ 吉田 1985, [要ページ番号]
- ^ 吉田 1984, p. 386.
- ^ 吉田 1984, p. 387.
- ^ a b 岡村 2012, p.126
- ^ 広島県立歴史博物館所蔵『骨董録』より。
- ^ 「井伊大老警護の武士逃げ散った」…桜田門外の変 奉公人証言録‐読売新聞関西版2010年7月11日付(同日閲覧)
- ^ 岩崎 1911, p.270
- ^ 岩崎 1911, p.317
- ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、稲田重蔵、2014年4月閲覧。
- ^ 菊地明『幕末証言 史談会速記録を読む』(2017年)
- ^ a b 山川 1991, p.265
- ^ 宮澤 1993, [要ページ番号]
- ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、山口辰之介、2014年5月閲覧。
- ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、岡部三十郎。2014年5月閲覧
- ^ 岩崎 1911, p.322
- ^ 岩崎 1911, p.323
- ^ 岡村 2012, p.128
- ^ 岩崎 1911, p.301
- ^ 岩崎 1911, pp.310-315
- ^ 山川 1991, p.263
- ^ 岡村 2012, p.127
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- ^ 水戸市、都市交流、2021年4月19日閲覧。水戸市、敦賀市、姉妹都市交流50周年、2021年4月19日閲覧。
- ^ 水戸市、都市交流、2013年3月20日閲覧。彦根市、彦根市について、2013年3月20日閲覧。
- ^ 桜田門外の変が争点?…襲撃の子孫が市長選に
- ^ NHK『歴史秘話ヒストリア』2015年3月4日放送「銃声とともに 桜は散った〜「桜田門外の変」の謎〜」より。
- ^ 岩崎 1911, p.123
- ^ 慵斎野処士墓碑銘『近世土浦小史』柳沢鶴吉 著 (常南通信社, 1906)
- ^ 『タウンニュース「桜田門外」裏面史刻む廣福寺・畑権助の辞世碑
- ^ 山本秋広『水戸徳川家と幕末の烈公』紀山文集 第三巻(1968年)
- ^ 網代茂『水戸綺談』新いばらきタイムス社、1992年。
- ^ 『これが水戸黄門だ!』日之出出版、2003年11月19日。久野勝弥「井伊大老首級始末異聞」(『郷土文化』第45号、2004年3月31日)。大老井伊掃部頭直弼台霊塔について、2014年5月閲覧。
- ^ 滋賀彦根新聞、2012年6月8日付け、豪徳寺の墓に井伊直弼埋葬されず? 地下3㍍に石室なく、滋賀彦根新聞社、2014年5月閲覧。
桜田門外の変
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「桜田門外の変」も参照 こうした政策は尊王攘夷派など反対勢力から強い反感を買った。安政6年(1860年)12月15日、直弼は若年寄の安藤信睦とともに江戸城において徳川慶篤に3日以内に戊午の密勅を返上するよう申し渡した。この催促は数度にわたって続けられ、遂に慶篤は父の斉昭と相談の上、勅を幕府に返納することにした。12月20日に水戸城で大評定が開かれ、勅諚の幕府への返納は已む無し、と決した。ところが水戸藩士民は勅書の返納を阻止、あるいは朝廷に直接返納すべきとし、尊攘激派は勅書の江戸降下を阻止しようと、小金宿、長岡宿といった水戸街道上の江戸への要路に駐屯して気勢を上げた。 安政7年(1860年)1月15日、直弼は安藤信睦を老中に昇進させ、この日に登城した慶篤に対して重ねて勅の返納を催促した。そして1月25日を期限として、もし遅延したら違勅の罪を斉昭に問い、水戸藩を改易するとまで述べたという。 これが水戸藩の藩士を憤激させるのに決定的となり、水戸を脱藩した高橋多一郎や関鉄之介らによって直弼襲撃の謀議が繰り返された。水戸藩脱藩浪士らの不穏な動きは幕府も察知はしており、2月28日にはかつて水戸藩邸に上使として赴いたことがある吉井藩主・松平信和が直弼を外桜田邸に訪ね、脱藩者による襲撃の虞があるため、大老を辞職して彦根に帰り、政情が落ち着いてから出仕すべきと勧めた。また辞職・帰国が嫌ならば従士を増やして万一に備えるように述べるも、直弼は受け入れなかった。 万延元年(1860年)3月3日5ツ半(午前9時)、直弼を乗せた駕籠は雪の中を、外桜田の藩邸を出て江戸城に向かった。供廻りの徒士、足軽、草履取りなど60余名の行列が桜田門外の杵築藩邸の門前を通り過ぎようとしていた時、関鉄之介を中心とする水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士・有村次左衛門の計18名による襲撃を受けた。最初に短銃で撃たれて重傷を負った直弼は駕籠から動けず、供回りの一部は狼狽して遁走し、駕籠を守ろうとした彦根藩士たちの多くは、折から降り始めた雪を避けるために鞘に取り付けていた柄袋に邪魔をされ、抜刀する間も無く刺客たちに切り伏せられた。刺客は駕籠に何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねた。享年46(満44歳没)。この事件を桜田門外の変と呼ぶ。 この日、彦根藩側役の宇津木左近は、直弼の駕籠を見送った後、机上に開封された書状を発見した。それには、水戸脱藩の浪士らが襲撃を企てている旨の警告が記されており、宇津木が護衛を増派しようとした時、凶報がもたらされた。 直弼の首級は現場から有村次左衛門によって持ち去られたが、戦闘で重傷を負っていた有村は若年寄・遠藤胤統邸門前で自刃したため、首は遠藤家に引き取られた。事件後、井伊家はこれを供侍の首と称して取り戻し、胴と縫い合わせた。 事件直後から直弼の死を秘匿するための工作が行われた。同日中に直弼名義で幕府に提出された届書には「負傷したので、一先ず帰邸した」とある。将軍・家茂からは見舞いとして高麗人参、氷砂糖、鮮魚が届けられた。この間、幕府は彦根藩に対し水戸藩への報復など過激な行動に走らないよう何度も慰留している。3月晦日、直弼は大老職を正式に免じられ、閏3月晦日にその死を公表された。 墓所は井伊家の菩提寺である豪徳寺(東京都世田谷区)。前述のようにその死が暫く秘されたため、墓碑に記された没日も実際の3月3日とは異なり、表向きの3月28日となっている。戒名「宗観院柳暁覚翁」は生前の直弼が考えていたものである。 また直弼が襲われた場所でその血が染み込んだ土を家臣たちが俵に詰めて彦根に運び、天寧寺に納め、後世そこに供養塔が建てられた。他に当時彦根藩の飛地であった下野国佐野(現在の栃木県佐野市)の天応寺でも祀られている。 跡を次男・井伊直憲が継いだが、これも3月10日に幕府に嫡子とする旨を届けながら4月28日に至ってようやく家督相続を許されるほどであった。その後、文久の改革で反直弼派であった旧一橋派が政権をとると、彼らは直弼の政治を咎め、文久2年(1862年)11月20日、幕命により彦根藩は10万石減封され預かり地5万石も没収されている。
※この「桜田門外の変」の解説は、「井伊直弼」の解説の一部です。
「桜田門外の変」を含む「井伊直弼」の記事については、「井伊直弼」の概要を参照ください。
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