さぬき【讃岐】
さぬき【讃岐】
さぬき
讃岐
姓 | 読み方 |
---|---|
讃岐 | さき |
讃岐 | さぬき |
讃岐 | さんき |
讃岐 | さんぎ |
讃岐 | たたき |
讃岐国
讃岐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/15 19:20 UTC 版)
夢乃の女房。綺羅君の元服を聞きつけた夢乃が、綺羅姫の裳着を実現させる(夢乃いわく「勝ち取るために」)ために始めた、不寝(ねず)の読経会に参加。
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讃岐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 16:37 UTC 版)
宇喜多秀家率いる備前・美作の兵に加えて播磨から蜂須賀正勝・黒田孝高、さらに仙石秀久が加わり計2万3000(1万5000とも)の軍が屋島に上陸した。秀家等はまず200の長宗我部軍が守る喜岡城(当時の高松城)を攻略して高松頼邑を討ち取り、香西城・牟礼城を攻略した。しかし、戸波親武の守る植田城の守りの堅さを見てとった孝高はこれを放置して阿波攻撃を優先することを主張したため、他の諸将もこれに同意して大坂越えより阿波に入り、秀長軍との合流を図った。この転進について山本は「元親の防衛策は早くも失敗したのである」と述べている。
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讃岐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 17:02 UTC 版)
秀吉最古参の家臣で洲本城(兵庫県洲本市)の城主であった仙石秀久は淡路5万石の大名であったが、戦功により讃岐10万石に加増のうえ転封された。秀久は高松城(香川県高松市)に居城を構えた。 阿波国守護代を世襲した三好氏出身の十河存保(孫六郎)は、「三好義堅」を名乗って四国地方東部における三好勢力の拡大に努めていたが、天正10年(1582年)に阿波北東部で戦われた中富川の戦いで長宗我部元親に敗北して阿波を放棄、さらに讃岐十河城(高松市)や虎丸城(東かがわ市)なども元親軍により陥落させられたため大坂の羽柴秀吉を頼った。四国戦では秀吉軍に従軍し、その軍功により讃岐十河3万石を復された。ただし、「十河孫六郎」としての安堵であり、存保の三好氏継承は否定される形となった。
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讃岐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 17:02 UTC 版)
天正13年、四国国分によって讃岐の大半が仙石秀久に与えられたが、秀久は約1年半後に、また、その後に入国した尾藤知宣は半年も経過しないうちに、いずれも九州征伐での軍事的失敗の責を問われて讃岐を取り上げられた。また、九州征伐の際に戦死した十河存保の所領も没収された。こののち、天正15年(1587年)に播磨国赤穂(兵庫県赤穂市)6万石の領主であった生駒親正が加増のうえ讃岐に転封となって以後、讃岐の近世が本格的に幕を切ることとなる。なお、親正入部のころの讃岐の石高は15万石内外と推定されるが、慶長6年(1601年)には17万1800石余に増加している。親正は、天正16年(1588年)、香東郡野原庄(高松市)において新高松城(現在の高松城)の築城を開始し、慶長2年(1597年)には讃岐西部の拠点として丸亀城(丸亀市)築城に着手した。
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讃岐
讚岐
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