こくぶ‐じ【国分寺】
読み方:こくぶじ
⇒こくぶんじ(国分寺)
こくぶん‐じ【国分寺】
読み方:こくぶんじ
天平13年(741)聖武天皇の勅願により、国分尼寺とともに国ごとに建立された官寺。正式には金光明四天王護国之寺という。国内の僧尼の監督に当たり、また朝廷の特別の保護があった。奈良の東大寺を総国分寺とする。こくぶじ。
こくぶんじ【国分寺】
国分寺 (こくぶんじ)
国分寺
国分寺
国分寺
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国分寺
国分寺
国分寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/24 14:45 UTC 版)
国分寺(こくぶんじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院。国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。
注釈
- ^ 国分尼寺は国家が認めた尼を置く規定であったが、奈良時代中期に戒律が伝わると、朝廷は正式な僧侶の要件に授戒を受けるという条件を追加しながら、女性の授戒を禁止するという矛盾した方針を採ったために、国分尼寺に止住出来る尼がいなくなってしまい、結果的には国分尼寺そのものの存在意義が否定されてしまった。
- ^ 特に鎌倉時代後期以後に、荒廃・衰微した各地の国分寺を保護・再建して末寺化した大和国西大寺及び同末寺の鎌倉極楽寺の影響は大きいとされている(両寺は真言律宗の本山。明治時代初期に、真言律宗が真言宗に一時的に強制統合された影響で、真言宗に改宗した寺院もある)。
- ^ 大和国分寺は一般に総国分寺の東大寺とされるが、『大和志』では橿原市の国分寺に比定する(「国分寺」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』 平凡社、1981年)。
出典
国分寺 (曖昧さ回避)
(国分寺 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/18 19:05 UTC 版)
国分寺(こくぶんじ)は、741年(天平13年)に日本の各地に置かれた寺院。
- 1 国分寺 (曖昧さ回避)とは
- 2 国分寺 (曖昧さ回避)の概要
国分寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:13 UTC 版)
護国山柏山寺 - 山形市薬師町。天台宗で本尊は薬師如来。 国分尼寺は現存しない。平安時代の国分寺は城輪柵の外郭東辺から1.2キロ真東にある堂の前遺跡を、国分尼寺は堂の前遺跡よりも4キロ南にある高阿弥陀遺跡を比定する説が有力である。
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国分寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:17 UTC 版)
安房国分寺跡(館山市国分、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度59分36.71秒 東経139度53分22.38秒 / 北緯34.9935306度 東経139.8895500度 / 34.9935306; 139.8895500 (安房国分寺跡))千葉県指定史跡および館山市指定史跡。安房国は天平13年(741年:国分寺建立の詔の年)に上総国に併合、天平宝字元年(757年)に再分立という変遷を経ているため、他国から遅れての創建とされる(出土品によれば奈良時代後半か)。金堂跡と見られる基壇のほか、瓦・獣脚などが出土しているが、他国の国分寺のような複数の建物跡は認められていない。跡地上の日色山国分寺(本尊:薬師如来)が法燈を伝承する。 安房国分尼寺跡未詳。僧寺の北方約900メートルの萱野地区に残る「アマンボウ」という地名が「尼坊」にあたるとして、尼寺跡の推定地に挙げられている。
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国分寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 18:36 UTC 版)
隠岐国分寺跡(所在未詳)後継寺院の禅尾山国分寺(隠岐郡隠岐の島町池田、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度13分27.65秒 東経133度18分26.52秒 / 北緯36.2243472度 東経133.3073667度 / 36.2243472; 133.3073667 (禅尾山国分寺(隠岐国分寺後継寺院)))境内に位置すると推測されるが、詳らかではない。2009年度(平成21年度)からの発掘調査で根巻き瓦を有する柱穴列が検出されており、これが旧国分寺の遺構になる可能性がある。また現国分寺境内には旧国分寺のものという礎石が伝世される。法燈は禅尾山国分寺が伝承し、禅尾山国分寺の境内域は「隠岐国分寺境内」として国の史跡に指定されている。 隠岐国分尼寺跡(隠岐郡隠岐の島町有木、北緯36度13分16.76秒 東経133度18分37.98秒 / 北緯36.2213222度 東経133.3105500度 / 36.2213222; 133.3105500 (隠岐国分尼寺跡))島根県指定史跡。現国分寺の南東方約500メートルに位置する。寺域は1町(約109メートル)四方と推定される。金堂・講堂・中門と見られる建物跡などが検出されているが、金堂・講堂が東西に並ぶという通常とは異なる伽藍配置であり、国分尼寺ではないとする説もある。後継寺院はない。
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国分寺(こくぶんじ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/28 08:09 UTC 版)
「ヨイコノミライ!」の記事における「国分寺(こくぶんじ)」の解説
おまけ版にのみ登場。文芸部のライトノベル好き少女で、桂坂が書いた小説を自分達が書いているものと同じ「気取った文体のBL」と呼び、桂坂と対立した。
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国分寺(こくぶんじ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 07:49 UTC 版)
「おしゃべり階段」の記事における「国分寺(こくぶんじ)」の解説
線の中学、高校時代の友達。蛙の解剖で気絶するほどの小心者。加南と声が似ている。一時期、加南の面影を追い求めた線と、付き合っていた。
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国分寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 16:34 UTC 版)
伯耆国分寺跡 国衙跡の東へ約300メートルほど離れたところにあり、尼寺跡は、僧寺と尼寺は離れて建立するように定められているが、北へ約50メートルと近接している。
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「国分寺」の例文・使い方・用例・文例
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