尾張国分尼寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 14:40 UTC 版)
古代の国分尼寺の遺構は未詳。所在は、国分寺跡から北西約1.5キロメートルの稲沢市法花寺町の法華寺(北緯35度14分42.16秒 東経136度45分57.47秒 / 北緯35.2450444度 東経136.7659639度 / 35.2450444; 136.7659639 (法華寺(尾張国分尼寺推定地)))付近と推定される。これは、江戸時代中期に天野信景が『塩尻』において、国分尼寺の名残が法花寺村の法華寺にあたると記して以来の説である。しかし現在までに発掘調査は行われていないため、詳細は明らかでない。付近の民家において、礎石と見られる庭石4個が認められている。 史料では、永延2年(988年)の『尾張国郡司百姓等解文』において尾張守の藤原元命が尼寺修理料を下行しない旨が見えるほか、大江匡房の寛弘6年(1009年)奏状において長保3年(1001年)から寛弘元年(1004年)の間に尼寺修造の旨が記される。このように国分寺より長い11世紀までの存続が確認されるが、その後の経緯は不詳。上記の法華寺は、寺伝では永正年間(1504年-1521年)に無味禅公が才赦桂林を招き、尼寺跡地に一宇を建てて「大鈴山国鎮寺」と号したことに始まるといい、織田氏の兵火に遭ったが残った小堂を現在地に移したという。近世の一時期は「大齢山谷椿寺」と改称したが再び「国鎮寺」に戻し、のち明治20年(1887年)に「法華寺」と改称して現在に至っている。この法華寺では、平安時代末期作の木造薬師如来坐像(国の重要文化財)が伝わっている。
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