きん‐せい【近世】
近世
近世(16〜18世紀)
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「フランス料理」の記事における「近世(16〜18世紀)」の解説
16世紀のフランス料理は、イタリア料理の大きな影響を受けてほとんど一体化していたほどだったとも伝えられている。これはフィレンツェ出身のカトリーヌ・ド・メディシスが、ヴァロワ朝のアンリ2世に輿入れした際に連れてきたイタリア料理人に起因すると言われているが、ルネサンス期の両国の文化交流の中で自然にもたらされていたという見方も存在する。イタリア料理文化の影響によってフランスでもナイフとフォークを用いる食事作法が一般的になっている。 17世紀になるとフランス主義の復興が重んじられて、イタリア料理の影響から離れる方向性でのフランス料理の改革運動が始められた。その結果誕生した「オートキュイジーヌ(至高料理)」はフランス宮廷料理のフォーマルな様式として定着し、現代ではフランスの伝統的な高級料理モデルとして認識されている。ワインとチーズ文化およびパティスリーの世界も本格的な開明を迎えた。17世紀の高名なシェフであるラ・ヴァレンヌ(フランス語版)が1651年に上梓した「Le cuisinier françois」は、フランス初の正式なレシピ書として当時の宮廷料理事情を現代に伝えている。フランス料理はヴァロワ朝からブルボン朝時代を通して豪華絢爛な発展を遂げたが、依然王侯貴族のための宮廷内の専売特許であった。当時はギルド(同業組合)の統制によって食材業者と調理師の商業活動が制限されていたので、フランス料理文化の一般市民への普及は封建制度の消滅まで待たねばならなかった。
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近世(1430-1789)
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「ヨアニナ」の記事における「近世(1430-1789)」の解説
1430年にトッコが死亡すると、オスマン帝国はヨアニナの数々の特権を認める代わりにヨアニナを支配下に置いた。この出来事は「シナン・パシャの規定」として知られ、カラシナン・パシャがこの条約に署名したことによる。1611年のラリッサ主教ディオニシオス・オ・フィロソフォスによる農民反乱で、ヨアニナはかなり衰退した。この反乱によって、キリスト教徒住民に認められていた特権は全て無くなった。そして、キリスト教徒住民は城から離れた地域に移住させられ、代わってトルコ人やユダヤ人が城壁内に移住した。この逆風にもかかわらずヨアニナの町は元に戻った。ヨアニナの住民は商業や生産活動を続けたために、ヴェネツィアやリヴォルノといった、ヨーロッパの重要な中心地と貿易することができたのだった。それらの町には、ヨアニナの商人が商店や銀行を設立したりもした。また、同時にヨアニナと緊密な経済的・知識的関係を維持し、寄付を行い、教育を確立した。つまり、彼らはヨアニナに大きな恩恵を施したのであった。ヨアニナの経済の発展によって、町は文化的活動も盛んとなった。17・18世紀の間に、エピファニオス(Epiphanios)や、グマス(Goumas)、ヴァレネロス(Valenelos)、マルツェア(Maroutsea)、ゾシメア(Zosimea)といった多くの重要な学校が設立され、ビザンツ帝国の長い伝統を引き継いだ。17世紀には、ヨアニナはその人口と商業活動に関して繁栄した町だと、フランス人旅行者ジャック・スポンやオスマン帝国人エヴリヤ・チェレビはそれぞれ伝えている。エヴリア・チェルビはヨアニナを訪れた1670年に、町には1,900の商店・工場および、4,000の家があった。
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近世(14世紀から17世紀)
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「ガラス年表」の記事における「近世(14世紀から17世紀)」の解説
1551年:フランシスコ・ザビエルが大内義隆にガラス器・鏡・眼鏡などのガラス製品を贈る。 1608年:アメリカで初めてガラス工場が設立されるが失敗する。 1609年:オランダ商館長が家康にガラス器を贈る。 1612年:フィレンツェでアントニオ・ネリの「ガラス製造法」が出版される。 1674年:イギリスでラベンズクロフトが鉛クリスタルガラスの特許を得る。 1679年:ネリの「ガラス製造法」のドイツ語訳に一部加えたヨハン・クンケル著「実践的ガラス製造法」が出版される。 1670年〜1690年頃:ボヘミアでカリグラスが開発される。
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近世(江戸時代末期まで)
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古代から平安時代にかけて信濃川の河口部には蒲原津(かんばらのつ)という港が栄え、物資の集散、旅人の往来が多く見られた。 1616年には長岡城主・堀直寄によって、港町としての基礎が構築。1671年、西廻り航路の寄港地として指定を受け、国内交易上重要な地位を確立した。加えて、1633年9月に発生した洪水によって信濃川と阿賀野川が合流し、河口部の土砂が押し流されたことで港の水深が深まり、大型船が入港できる良港として栄華を極めた。17世紀末期には、出入港した船舶は年間約3,500隻にも及んだという。
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近世(11世紀 - 16世紀)
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「商人」の記事における「近世(11世紀 - 16世紀)」の解説
銀行は、資金調達や財政管理の能力によって権力者への影響力を強めた。イタリア商人の北ヨーロッパに対する債権は、商品の形をとりシャンパーニュの大市などで取引をされた(債権売買)。イタリア商人は、教皇庁の財政とも結びつき、教会の収入を送金する金融業を行うようになる。フィレンツェのバルディ家やペルッツィ家などの銀行家は、王侯貴族に貸付をし、彼らの財政収入を担保とした。取り分けメディチ家は、隆盛を極めた。北ヨーロッパでは、ハンザと呼ばれる遠隔地商人が都市の有力市民となり、都市間の商業同盟を結んでドイツを中心にハンザ同盟が成立した。これらの経済的繁栄は、文芸復興に結びつき華やかな文化を育てることになる。しかしオスマン帝国の伸長と16世紀の大航海時代が始まると大量の銀、金がヨーロッパに流れ込み通貨の価値が下落する価格革命が起こる。 13世紀から14世紀まで中国の元朝では、モンゴル人は、交易に加わらず、特権ムスリム商人(オルトク)によって帝国内の財政や交易を担当させた。またモンゴル帝国は、金朝の制度を継承して紙幣(交鈔)を発行させた。やがてモンゴル帝国が零落するとシルクロードやムスリム商人の活動圏は、オスマン帝国が継承し、その莫大な収益を独占した。またオスマン帝国は、地中海にも進出したためイタリア商人を排斥し、代わってイスラム教圏に住むユダヤ人セファルディムが活躍した。さらに欧州から移住するユダヤ人も国内に住まわせた。同じく滅びた元朝に代わって明朝が中国に興るとモンゴル人によって荒廃した華北に代わって経済の中心も江南に移った。江南の農業生産量は、華北を凌ぐまでになり蘇州・松江の収穫のみで食料が賄えるとして「蘇松熟すれば天下足る」という言葉が作られ、農作物を各地に転売する農本思想が重用された。 13世紀にイスラム商人は、東アフリカ、ペルシア湾からインド洋、東南アジアのマラッカ海峡に至るまでの海路上で活躍した。またこれによって東南アジアでイスラム教が広がった。マレーシア半島に興ったマラッカ王国は、代表的なイスラム国家であり交易ルートの中心的役割を果たし、南シナ海との中継貿易で繁栄した。東アフリカでは、アイユーブ朝、マムルーク朝エジプトが興り、ここでは、カーリミー商人と呼ばれ、イタリア商人と貿易した。 メキシコ高地では、特権商人のポチテカが遠隔地交易によってアステカの征服に貢献していた。 日本では、有力権門や寺社の雑色・神人・供御人が、その権威を背景に諸国と京都を往復して交易を行うようになる。彼らは、荘園制度の崩壊により権門や寺社を本所(名目上の領主)として仰ぎ、自分たちは、奉仕の義務と引き換えに諸国通行自由・関銭免除・治外法権などの特権を保障された集団「座」を組織した。特に大山崎油座は、畿内一円に大きな勢力を誇った。金融は、神に捧げられた上分米や上分銭を資本として神人たちによって行われ、13世紀以降は、利銭も行われた。鎌倉時代から室町時代にかけて活躍した貸金業者は、土倉、酒屋と呼ばれた。彼らは、次第に本所から実権を奪い取って自治を始める町衆まで現れた。堺は、町衆によって自治され「東洋のベニス」と呼ばれる栄華を誇った。豪商たちは、高価な輸入品や権門や寺社の所有する宝物を手に入れると、これらを鑑賞する茶の湯を起こした。室町期の日本商人の発明として、「見世棚(みせだな)」があり、15世紀当時の朝鮮では魚肉でも地べたにおいて、売っていたため、この見世棚商法は当時の東アジアでは衛生面で画期的な商法であり、日本語における店の語源ともなり、以降、日本では、店を「たな(棚)」「みせ(見世)」と読むようになった(詳細は棚の日本における見世棚商法、および店も参照)。
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近世(江戸時代)
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関ヶ原の戦いの論功行賞により福知山城に入城したのは有馬豊氏で、現在のような城郭や城下町はこの時代に完成した。はじめ6万石で入国したが間もなく2万石(飛び地で三田・父の遺領の継承が許される)の加増を受け8万石の領主となった。 山陰道を押える要衝地にあるこの城を、豊氏は近世城郭として改修を行い、現在に残る姿とした。 しかし元和6年(1620年)12月、武功を重ねた豊氏は久留米藩に加増転封され、翌元和7年(1621年)8月岡部長盛が亀山城から移る。3年後その岡部長盛も大垣藩に転封すると、稲葉紀通が摂津国中島藩より移る。その稲葉紀通も福知山城の城主となった24年目の1648年(慶安元年)、宮津藩の京極高広と争いとなり、乱心し自殺したのではないかと伝わっている。翌慶安2年(1649年)2月刈谷藩から松平忠房が入部したきた。20年程統治したが島原藩へ転封する。 寛文9年(1669年)6月、土浦城の朽木稙昌が入部、1869年(明治2年)まで約200年に亘り朽木氏が13代世襲し当地域を統治した。
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近世(960年代 - 1830年代)
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「九龍城砦」の記事における「近世(960年代 - 1830年代)」の解説
始まりは宋(960年 - 1279年)時代に遡る。かつて香港や九龍半島にはたくさんの香木が生えていたほか、塩を産出しており、これらを輸出するための港が香港島南部の香港仔に開かれた。今日の「香港」という地名も「香木が集まる港」という意味合いから命名されたという説が最も有力である。 しかし香港付近の海域には当時しばしば海賊が現れ、周囲の治安を脅かしていた。このため現在の九龍城地区に軍事要塞が作られ、ここを拠点に香港の安全の確保を図っていた。砦として1668年に九龍烽火台が設置された。
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近世(江戸時代)
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1664年(寛文4年) - 信夫郡が上杉領から福島20万石の天領となる。 1679年(延宝7年) - 本多忠国、大和郡山藩から福島15万石で入封となり、福島藩が成立した。 1686年(延宝7年) - 堀田正仲、出羽山形藩から福島10万石で入封。 1702年(元禄15年) - 板倉重寛、信濃坂木藩から福島3万石へ入封。 1749年(寛延2年) - 寛延の惣百姓一揆。 1787年(天明7年) - 下村藩1万石が立藩される。 1823年(文政6年) - 下村藩が廃藩する。 1830年(天保元年) - 中合が現在の荒町に創業する。 1868年6月10日(慶応4年9月2日) - 北町の金沢屋にて長州藩士世良修蔵を含む数人が襲われ、阿武隈川で斬首される事件。奥羽越列藩同盟結成の契機となった歴史的事件である。 1868年10月17日(慶応4年4月20日) - 福島藩主板倉勝己が薩長軍に降伏し、福島城を渡辺清左衛門に引き渡す。
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近世 (デンマーク=ノルウェー)
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「ノルウェーの歴史」の記事における「近世 (デンマーク=ノルウェー)」の解説
詳細は「宗教改革」、「クリスチャン2世 (デンマーク王)」、「フレゼリク1世 (デンマーク王)」、「クリスチャン3世 (デンマーク王)」、「伯爵戦争」、「デンマーク=ノルウェーの宗教改革」、および「デンマーク=ノルウェー」を参照 1523年、スウェーデンが、カルマル同盟を離脱すると、デンマーク=ノルウェーは、コペンハーゲンにいるデンマーク王の統治下となった。フレゼリク1世はマルティン・ルターの思想を好んだものの、ルターの思想はノルウェーでは受け入れられなかった。当初、フレゼリク1世はプロテスタントをノルウェーに導入しないことを決めていたが、1529年に心変わりし、ノルウェーにも導入することとした。ニーダロスの大司教であるオーラヴ・エンゲルブレクトソン(英語版)がプロテスタントの導入に抵抗し、先年退位させられたクリスチャン2世を亡命先のオランダから招聘した。クリスチャン2世はその後、フレゼリク1世に捕えられ、残りの人生は牢屋で幽閉されることとなった。 フレゼリク1世没後、1534年に伯爵戦争が起こり、最終的にはルター派のクリスチャン3世が勝利すると、オーラヴ・エンゲルブレクトソンは再び抵抗を試みたものの失敗に終わり追放された。ノルウェーはデンマークの1属州に降格され、1537年には上からの宗教改革が押し付けられデンマーク王権が強化された。教会にある価値の高い品々全てがコペンハーゲンに運ばれ、ノルウェーの国土の40%を占める教会が所有していた土地がデンマーク王の支配下に入った。デンマーク語が書き言葉として採用される一方、ノルウェー語は別個の方言として残存した。専門行政職が必要とされ、権力が地方の貴族からデンマーク国王の行政組織に移った。地方の俸給の執政官が裁判官として採用され、行政長官が地方の貴族というよりも国王の従僕となった。1572年には、ノルウェーに総督が派遣され、オスロのアーケシュフース城に居住した。1620年代には、職業軍人が採用されることとなった。 デンマーク=ノルウェーは、17世紀以降に強大化したスウェーデン(バルト帝国)の侵攻と圧力により、度々危機に陥った。1655年の北方戦争ではトロンハイム地方を占領され(1660年に返還)、18世紀の大北方戦争では、一時クリスチャニアが占領された。しかし大北方戦争でのスウェーデンの最終的な敗北により、デンマーク=ノルウェーの直接的な脅威ではなくなった。そして18世紀後半に入ると、ノルウェー人も海運業に参画するようになった。ノルウェーの商船隊の大規模な発展は、19世紀の海運立国としてのノルウェーの下地を築く事となった。
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近世(江戸時代)
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詳細は古河城・古河藩参照 古河藩が設置され古河城が藩庁となった。現在の市域西部を日光街道(日光道中)が南北に貫き、古河城下(元の古河)に古河宿、中田に中田宿が設けられた。一方、市域東部では日光東往還(日光東街道)が縦断し、谷貝宿・仁連宿・諸川宿が設けられた。 古河藩領は、現在の市域を含む下総国北西部、および隣接する下野国南部、武蔵国北東部にまたがって形成され、当時の古河城下(現在の市域西部)は古河藩領の中心にあった。しかし近代以降に旧藩領は県境によって分断され、三方を他県域に囲まれた県最西端の町になる。なお現在の市域東部には、古河藩に含まれなかった地域も多かった。例えば、諸川宿・仁連宿は壬生藩領から天領(幕府直轄地)、谷貝宿は関宿藩領である。 歴代古河藩主においては、大老2人(土井利勝、堀田正俊)のほか、老中や京都所司代などにつくものも多い、有力譜代藩であった。 1832年:古河藩第十一代藩主である土井利位が、日本初の雪の結晶に関する観察図鑑『雪華図説』を出版した。
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近世(オスマン帝国統治時代)
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「ボスニア・ヘルツェゴビナ」の記事における「近世(オスマン帝国統治時代)」の解説
15世紀後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域がオスマン帝国の支配下に入る。正統派のキリスト教勢力から弾圧を受けていたボゴミル教徒たちの多くはこのときイスラム教に改宗した。またこのほかにもイスラム教に改宗した現地のスラヴ人、トルコなどから移り住んでボスニア・ヘルツェゴビナに定着したイスラム教徒などによって、この地方ではイスラム教徒の人口比率が高まった。首都であるサラエボはオスマン帝国のボスニア州(英語版)(1580–1867、Bosnia Eyalet)やボスニア州(英語版)(1867–1908、Bosnia Vilayet)の中心となり、宮殿が築かれ、帝国の州知事たちによってオスマン風の都市建設が進められた。多くの住民がイスラム教を受容していたことや、その戦略的重要性のために、ボスニア・ヘルツェゴビナでは他のバルカン諸国に例がないほど文化のトルコ化が進行した。16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国がハプスブルク帝国、及びヴェネツィア共和国と戦争を行った際に、ボスニアはオスマン帝国にとって重要な前哨基地としての役目を果たしている。
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近世(江戸時代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:57 UTC 版)
江戸時代に置かれた藩には伊勢国には、桑名藩、長島藩、伊勢亀山藩、神戸藩、菰野藩、久居藩、津藩、志摩国の鳥羽藩、津藩の支城の伊賀上野城、津藩の一族の名張陣屋、紀州藩の支城の田丸城、松阪城がある。
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近世(江戸時代)
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天正18年 (1590年) 豊臣秀吉が小田原征伐の後に城の破却令を出した。 天正18年 (1590年) 徳川家康に従っていた小笠原秀政が入部し、城を修復・拡張した。なお、秀政は城の修復の間、栗橋城に滞在。 慶長7年 (1602年) 松平(戸田)康長が城主となる。康長は観音寺曲輪と百間堀を築き、追手門を設けた。 慶長17年 (1612年) 小笠原信之が城主となる。のち、慶長19年に政信が継ぐ。 元和3年 (1617年) 徳川秀忠が日光社参の際、古河城に宿泊し、政信が接待。 元和5年 (1619年) 奥平忠昌が城主となる。忠昌は立崎曲輪と諏訪曲輪(長谷曲輪)を拡張したほか、城下でも侍屋敷の拡張、町屋敷の移転を行い、現在の古河市(旧市街)の町割のもとになった。 元和8年 (1622年) 徳川秀忠が日光社参の際、城に宿泊し、忠昌が接待。 元和8年 (1622年) 永井直勝が城主となる。直勝は御成門を築いた。のち、寛永3 年 (1626年) に尚政が継ぐ。 寛永6年 (1629年) 徳川家光が日光社参の際、城に宿泊し、尚政が接待。 寛永9年 (1632年) 徳川家光が日光社参(遥拝)の際、城に立ち寄り、尚政が饗応。 寛永10年 (1633年) 土井利勝が城主となる。利勝は、前任地の佐倉城にならって、本丸に御三階楼を造営したほか、本丸御殿、二の丸御殿を造営した。のち、寛永21年に利隆、万治元年 (1657年) に利重、延宝元年 (1673年) に利久、延宝3 年に利益が継ぐ。 寛永11年 (1634年) 徳川家光が日光社参の際、城に立ち寄り、利勝が饗応。 寛永13年 (1636年) 徳川家光が日光社参の際、城に立ち寄り、利勝が饗応。 寛永17年 (1640年) 徳川家光が日光社参の際、城に立ち寄り、利隆が父の代理で饗応。 寛永19年 (1642年) 徳川家光が日光社参の際、城に立ち寄り、利勝が饗応。 天和元年 (1681年) 堀田正俊が城主となる。貞享元年 (1684年) に正仲が継ぐ。 貞享2年 (1685年) 松平(藤井)信之が城主となる。次の年に忠之が継ぐ。 貞享4年には、幕府を批判した熊沢蕃山が預けられ、城内の立崎曲輪に幽閉される。 元禄7年 (1694年) 松平(大河内)信輝が城主となる。信輝は城内の頼政神社を整備。のち、宝永6年に信祝が継ぐ。 正徳2年 (1712年) 本多忠良が城主となる。のち、宝暦元年 (1751年) に忠敞が継ぐ。 宝暦9年 (1759年) 松平(松井)康福が城主となる。 宝暦12年 (1762年) 土井利里が城主となる。のち、安永6年(1777年) に利見、同年に利厚、文政5年(1822年)に利位、嘉永元年(1848年)に利亨、同年に利則、慶応3年(1867年)に利与が継ぐ。 安永5年 (1776年) 徳川家治が日光社参の際、城に宿泊し、利見が接待。 天保3 年 (1832年) 城主の利位が雪華図説を著した。 天保14 年 (1843年) 徳川家慶が日光社参の際、城に宿泊し、利位が接待。将軍による最後の社参。 慶応4 年 (1868年) 勤皇派と佐幕派の対立があったが、城内の意見を勤皇派に集約し、土井利与が京都で天皇に勤皇の意思を表明。
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近世(江戸時代)
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ほぼ北から南に向かって流れる渡良瀬川の東岸に位置した。古河城が築かれた台地は、川とその東側に広がる沼地にはさまれ、北から南に伸びる半島状になっていた。 江戸時代の城域は、水堀を含むとおおむね東西約0.45 - 0.55km、南北約1.8km 程度の広さであり、関東有数の規模であった。城域の西側は川に接し、残りの三方を水堀に囲まれていた。城域の東南から南側は、通行が困難な沼地であり、これらの沼地と渡良瀬川を生かした水に守られた要害であった。 構造は、土塁に囲まれた複数の曲輪が、直線状に配置された連郭式である。主な曲輪は、北から順に、観音寺曲輪、桜町曲輪(丸の内)、三の丸、二の丸(西側)/本丸(東側)、頼政曲輪、立崎曲輪である。そのほかに、桜町曲輪の東側には、水堀(百間堀)の先に「出城」と呼びならわされる諏訪曲輪があった。 このうち、観音寺曲輪・桜町曲輪・諏訪曲輪には重臣たちの武家屋敷、二の丸には藩主の御殿が置かれた。頼政曲輪には源頼政を祀った頼政神社があった。三の丸には馬場が設けられた。観音寺曲輪の北側に追手門、桜町曲輪の東側に御成門など、多数の門が置かれた。御成門は日光社参時に立ち寄る将軍が入城する門であり、外枡形門形式で虎口を開き、周辺には石垣も築かれた。 天守は建てられなかったが、土井利勝によって、本丸の西北出隅に建てられた「御三階櫓」と呼ばれた3層4階の櫓が、実質上の天守となった。高さは約22メートルあり、同様の構造で建てられた水戸城や佐倉城の御三階櫓、松江城の天守(約22.4メートル)もほぼ同じ高さである。 他にも、桜町曲輪にあった茂平河岸は、城内との物資輸送や人員の移動を担った。また、水掘の周囲に配置された寺社(永井寺・正定寺など)は出城としても機能し、城の防衛拠点となっていた。 なお、古河歴史博物館内には精密な古河城下模型が展示されており、城全体の構造が再現されている。
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近世(江戸時代)
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江戸時代は男木島、女木島と合わせて「直島3島」と総称され、直島諸島の全域は本土における村(藩政村あるいは自然村)に相当する包括的単位としての「直島」、郡に相当する広域単位としての「小豆島」に属する。当初は旗本・高原氏の領地であったが、寛文12年(1672年頃)から幕府領となり幕末を迎える。幕府領時代は、寛文12年(1672年頃)から倉敷代官所支配、宝永5年(1708年頃)から高松藩預地、元文4年(1739年頃)から再び倉敷代官所支配であった。 海運の大動脈であった瀬戸内の地の利を生かし、廻船業(北前船)などで活躍する家もあった。天領であったため歌舞伎や人形浄瑠璃などの公演が特別に許可され、琴弾地浜や城山での公演では島内外からの一座や観客で大変にぎわった。とくに人形浄瑠璃の人気が高く淡路島から島内に伝わった。
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近世(江戸時代)
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山崎闇斎儒学者として仏教に対抗し、神道と儒教との融合を積極的に推進、垂加神道を提唱、神と人間の関係を儒教的な君臣関係に捉え直した。 平田篤胤禁書だったキリスト教関係の書を読み、創造神の概念を神道に導入した。『古事記』の解釈にあたり、「造化」(創造)の神として天之御中主神を重視し、同時にスサノオが黄泉の国に行った際に遭った大国主命を幽界(黄泉の国)の支配者と解釈した。世界はこの「幽界」と現実世界とによって構成されていると考え、「顕界」(現実世界)を支配する者としての天皇という概念を創出した。この発想は明治維新の理論的基盤となり、近代初期においては大国主命を祀る出雲派を台頭させた。
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近世(島津氏による支配)
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肝付氏亡き後の肝属は、伊集院忠棟が鹿屋城を拠点に地頭として管理した。忠棟は鹿屋城の修復・城下町の形成を始めとして水田開発などによる農業生産の向上、市(いち)の開催を手掛けた。後述する定期市はこのときに始まったものである。 薩摩藩は外城制(後に○○郷と改称)を敷き、現在の鹿屋市域では鹿屋・大姶良・花岡・高隈・串良・姶良・百引・市成の8郷(花岡と市成は私領)がおかれた。外城の成立時期は地域により異なり、鹿屋郷(外城)の場合は、私領を経て1645年に成立した。郷は1889年の町村制施行の際にもほぼそのまま村となるなど、後世まで行政区域として機能した。鹿屋市域では「南部(吾平町)」(『鹿屋市総合計画』による地域区分、姶良郷)、「高隈地区」(『鹿屋市総合計画』による地域区分、高隈郷)がその名残を伝える。 鹿屋郷では定期市が月6回開催され、大隅半島各地を始めとして薩摩半島側の指宿からも集客があった。当時は島津氏御用達の銘酒として「桜川」が存在したが、幕末と1882年頃の火災や時代の推移とともに衰退した。名産品として鹿屋・大姶良で生産された「高須甘藷」(高須港から出荷されたため「高須」といわれた)があった 。 薩摩藩領内の農民は農業以外の職に就くことが許されず、年貢も8公2民(収穫のうち8割が徴収される、他藩は4公6民が一般的)という高率であった。この他にも衣食住全般にわたって制約が課せられており、百姓一揆を起こす余裕すらなかった。逃亡者も数多く発生し、薩摩半島(西目)側から農民を強制移住(人配、「にんべ」と読む)させることもあった。このような壊滅的ともされる 経済状況は、明治期になってから改善されることとなる。 この時期の困窮具合を証明する資料として人口の比較が挙げられる。鹿屋郷には1801年時点では6,224人いたのに対し、1824年時点では6,180人に減少しており、逃亡や間引きが横行していたことが推測される。
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近世
「近世」の例文・使い方・用例・文例
- 近世史
- 近世語
- 近世の戦争には冬ごもりは無くなった
- 現在、あるいは近世に属す
- 近世における赤本という絵本
- 近世の獄門台で,さらし首を載せる台
- 中世と近世に,土民や信徒などが団結して支配者に対して起こした暴動
- 糸脈という,近世の脈拍のはかり方
- 近世の縁占いの遊び
- 近世上方の挿絵本
- 中世および近世において,いやしいとして差別された身分
- 罪人を特定の人に預けて監禁する,中世や近世の刑
- 近世における高額貨幣
- 近世において,女性が盛装時に用いた裳の紐
- 累物という,近世演劇における系統の演目
- 近世において,加地子という小作料
- 近世に出版された版本
- 近世に米の運搬時に生ずる欠損米を補充するために徴収された米
- 機会詩という,近世のドイツで発達した詩
近世と同じ種類の言葉
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