近世とは? わかりやすく解説

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きん‐せい【近世】

読み方:きんせい

現代に近い時代また、近ごろ世の中

歴史時代区分の一。近代区別していうときに使う。

日本史では安土桃山時代・江戸時代をさす。

西洋史ではルネサンスから市民革命産業革命のころまでをさす。

中国史では明(みん)の末から20世紀初めの辛亥(しんがい)革命までをさす。


近世 (きんせい)


近世

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近世(きんせい、英語: early modern period)とは、歴史学における時代区分のひとつ。中世よりも後で、近代よりも前の時期を指す。


  1. ^ 内藤虎次郎 (湖南)『近世文学史論』政教社、1897年。doi:10.11501/871814 
  2. ^ 蔵並省自 編『近世日本の展開』八千代出版、1977年、2-3頁。 NCID BN15099062 


「近世」の続きの解説一覧

近世(16〜18世紀)

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フランス料理」の記事における「近世(1618世紀)」の解説

16世紀フランス料理は、イタリア料理大きな影響受けてほとんど一体化していたほどだったとも伝えられている。これはフィレンツェ出身カトリーヌ・ド・メディシスが、ヴァロワ朝アンリ2世輿入れしたに連れてきたイタリア料理人に起因すると言われているが、ルネサンス期両国文化交流の中で自然にもたらされていたという見方存在するイタリア料理文化の影響によってフランスでナイフフォーク用い食事作法一般的になっている。 17世紀になるとフランス主義復興重んじられて、イタリア料理影響から離れる方向性でのフランス料理改革運動始められた。その結果誕生したオートキュイジーヌ至高料理)」はフランス宮廷料理フォーマルな様式として定着し現代ではフランス伝統的な高級料理モデルとして認識されている。ワインチーズ文化およびパティスリー世界も本格的な開明迎えた17世紀高名なシェフであるラ・ヴァレンヌ(フランス語版)が1651年上梓した「Le cuisinier françois」は、フランス初の正式なレシピ書として当時宮廷料理事情現代伝えている。フランス料理ヴァロワ朝からブルボン朝時代通して豪華絢爛発展遂げたが、依然王侯貴族のための宮廷内の専売特許であった当時ギルド同業組合)の統制によって食材業者調理師商業活動制限されていたので、フランス料理文化一般市民への普及封建制度消滅まで待たねばならなかった。

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近世(1430-1789)

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ヨアニナ」の記事における「近世(1430-1789)」の解説

1430年トッコ死亡すると、オスマン帝国ヨアニナ数々特権認め代わりにヨアニナ支配下置いた。この出来事は「シナン・パシャの規定」として知られ、カラシナン・パシャがこの条約署名したことによる1611年ラリッサ主教ディオニシオス・オ・フィロソフォスによる農民反乱で、ヨアニナはかなり衰退した。この反乱によって、キリスト教徒住民認められていた特権全て無くなった。そして、キリスト教徒住民は城から離れた地域移住させられ、代わってトルコ人ユダヤ人城壁内に移住した。この逆風にもかかわらずヨアニナの町は元に戻ったヨアニナ住民商業生産活動続けたために、ヴェネツィアリヴォルノといった、ヨーロッパ重要な中心地貿易することができたのだった。それらの町には、ヨアニナ商人商店銀行設立したりもした。また、同時にヨアニナ緊密な経済的知識的関係を維持し寄付行い教育確立した。つまり、彼らはヨアニナ大きな恩恵施したであったヨアニナ経済の発展によって、町は文化的活動も盛んとなった17・18世紀の間に、エピファニオス(Epiphanios)や、グマス(Goumas)、ヴァレネロス(Valenelos)、マルツェア(Maroutsea)、ゾシメア(Zosimea)といった多く重要な学校設立されビザンツ帝国長い伝統引き継いだ17世紀には、ヨアニナその人口と商業活動に関して繁栄した町だと、フランス人旅行者ジャック・スポンやオスマン帝国エヴリヤ・チェレビそれぞれ伝えている。エヴリア・チェルビはヨアニナ訪れた1670年に、町には1,900商店工場および、4,000の家があった。

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近世(14世紀から17世紀)

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ガラス年表」の記事における「近世(14世紀から17世紀)」の解説

1551年フランシスコ・ザビエル大内義隆ガラス器・鏡・眼鏡などのガラス製品を贈る。 1608年アメリカで初めガラス工場設立される失敗する1609年オランダ商館長家康ガラス器を贈る。 1612年フィレンツェでアントニオ・ネリの「ガラス製造法」が出版される1674年イギリスでラベンズクロフトが鉛クリスタルガラス特許を得る。 1679年ネリの「ガラス製造法」のドイツ語訳一部加えたヨハン・クンケル著「実践的ガラス製造法」が出版される1670年1690年頃:ボヘミアでカリグラスが開発される

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近世(江戸時代末期まで)

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新潟港」の記事における「近世(江戸時代末期まで)」の解説

古代から平安時代にかけて信濃川河口部には蒲原津かんばらのつ)という港が栄え物資集散旅人往来多く見られた。 1616年には長岡城主・堀直寄によって、港町としての基礎構築1671年西廻り航路寄港地として指定を受け、国内交易上重要な地位確立した加えて1633年9月発生した洪水によって信濃川阿賀野川合流し河口部土砂押し流されたことで港の水深深まり大型船入港できる良港として栄華極めた17世紀末期には、出入港した船舶年間約3,500隻にも及んだという。

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近世(11世紀 - 16世紀)

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商人」の記事における「近世(11世紀 - 16世紀)」の解説

銀行は、資金調達財政管理能力によって権力者への影響力強めたイタリア商人北ヨーロッパ対す債権は、商品の形をとりシャンパーニュの大市などで取引をされた(債権売買)。イタリア商人は、教皇庁財政とも結びつき教会収入送金する金融業を行うようになるフィレンツェバルディ家ペルッツィ家などの銀行家は、王侯貴族貸付をし、彼らの財政収入担保とした。取り分けメディチ家は、隆盛極めた北ヨーロッパでは、ハンザ呼ばれる遠隔地商人都市の有力市民となり、都市間の商業同盟結んでドイツ中心にハンザ同盟成立した。これらの経済的繁栄は、文芸復興結びつき華やかな文化育てることになる。しかしオスマン帝国伸長16世紀大航海時代が始まると大量の銀、金がヨーロッパ流れ込み通貨価値下落する価格革命が起こる。 13世紀から14世紀まで中国元朝では、モンゴル人は、交易加わらず特権ムスリム商人オルトク)によって帝国内の財政交易担当させた。またモンゴル帝国は、金朝制度継承して紙幣交鈔)を発行させた。やがてモンゴル帝国零落するシルクロードムスリム商人活動圏は、オスマン帝国継承し、その莫大な収益独占した。またオスマン帝国は、地中海にも進出したためイタリア商人排斥し、代わってイスラム教圏に住むユダヤ人セファルディム活躍した。さらに欧州から移住するユダヤ人国内に住まわせた。同じく滅びた元朝に代わって明朝中国興るモンゴル人によって荒廃した華北に代わって経済中心江南移った江南農業生産量は、華北凌ぐまでになり蘇州松江収穫のみで食料賄えるとして「熟すれば天下足る」という言葉作られ農作物各地転売する農本思想重用された。 13世紀イスラム商人は、東アフリカペルシア湾からインド洋東南アジアマラッカ海峡に至るまでの海路上で活躍した。またこれによって東南アジアイスラム教広がったマレーシア半島興ったマラッカ王国は、代表的なイスラム国家であり交易ルート中心的役割果たし南シナ海との中継貿易繁栄した東アフリカでは、アイユーブ朝マムルーク朝エジプト興り、ここでは、カーリミー商人呼ばれイタリア商人貿易したメキシコ高地では、特権商人ポチテカ遠隔地交易によってアステカ征服貢献していた。 日本では、有力権門寺社雑色神人供御人が、その権威背景諸国京都往復して交易を行うようになる。彼らは、荘園制度崩壊により権門寺社本所名目上領主)として仰ぎ自分たちは、奉仕義務引き換え諸国通行自由・関銭免除治外法権などの特権保障され集団「座」を組織した。特に大山崎油座は、畿内一円大きな勢力誇った金融は、神に捧げられ上分米上分銭を資本として神人たちによって行われ13世紀以降は、利銭行われた鎌倉時代から室町時代にかけて活躍した貸金業者は、土倉酒屋呼ばれた。彼らは、次第本所から実権奪い取って自治始め町衆まで現れた。堺は、町衆によって自治され「東洋のベニス」と呼ばれる栄華誇った豪商たちは、高価な輸入品権門寺社所有する宝物手に入れると、これらを鑑賞する茶の湯起こした室町期日本商人発明として、「見世棚みせだな)」があり、15世紀当時朝鮮では魚肉でも地べたにおいて、売っていたため、この見世棚商法当時東アジアでは衛生面画期的な商法であり、日本語における店の語源ともなり以降日本では、店を「たな()」「みせ(見世)」と読むようになった(詳細日本における見世棚商法、および店も参照)。

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近世(江戸時代)

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福知山城」の記事における「近世(江戸時代)」の解説

関ヶ原の戦い論功行賞により福知山城入城したのは有馬豊氏で、現在のような城郭城下町はこの時代完成した。はじめ6万石入国した間もなく2万石飛び地三田・父の遺領継承許される)の加増を受け8万石領主となった山陰道押える要衝地にあるこの城を、豊氏は近世城郭として改修行い、現在に残る姿とした。 しかし元和6年1620年12月武功重ねた豊氏は久留米藩加増転封され、翌元和7年1621年8月岡部長盛亀山城から移る。3年後その岡部長盛大垣藩転封すると、稲葉紀通摂津国中島藩より移る。その稲葉紀通福知山城城主となった24年目の1648年慶安元年)、宮津藩京極高広争いとなり、乱心し自殺したではないか伝わっている。翌慶安2年1649年2月刈谷藩から松平忠房入部したきた。20年統治した島原藩転封する。 寛文9年1669年6月土浦城朽木稙昌入部1869年明治2年)まで約200年に亘り朽木氏13世襲当地域を統治した

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近世(960年代 - 1830年代)

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九龍城砦」の記事における「近世(960年代 - 1830年代)」の解説

始まりは宋(960年 - 1279年時代遡る。かつて香港九龍半島にはたくさんの香木生えていたほか、塩を産出しており、これらを輸出するための港が香港島南部香港仔開かれた今日の「香港」という地名も「香木が集まる港」という意味合いから命名されたという説が最も有力である。 しかし香港付近海域には当時しばしば海賊現れ周囲の治安脅かしていた。このため現在の九龍城地区軍事要塞作られ、ここを拠点香港安全の確保図っていた。砦として1668年九龍烽火台設置された。

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近世(江戸時代)

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福島市」の記事における「近世(江戸時代)」の解説

1664年寛文4年) - 信夫郡上杉領から福島20万石天領となる。 1679年延宝7年) - 本多忠国大和郡山藩から福島15万石で入封となり、福島藩成立した1686年延宝7年) - 堀田正仲出羽山形藩から福島10万石で入封。 1702年元禄15年) - 板倉重寛信濃坂木藩から福島3万石へ入封。 1749年寛延2年) - 寛延惣百姓一揆1787年天明7年) - 下村藩1万石が立藩される。 1823年文政6年) - 下村藩廃藩する。 1830年天保元年) - 中合現在の荒町創業する。 1868年6月10日慶応4年9月2日) - 北町金沢屋にて長州藩士世良修蔵を含む数人襲われ阿武隈川斬首される事件奥羽越列藩同盟結成契機となった歴史的事件である。 1868年10月17日慶応4年4月20日) - 福島藩板倉勝己薩長軍に降伏し福島城渡辺清左衛門引き渡す

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近世 (デンマーク=ノルウェー)

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ノルウェーの歴史」の記事における「近世 (デンマーク=ノルウェー)」の解説

詳細「宗教改革」、「クリスチャン2世 (デンマーク王)」、「フレゼリク1世 (デンマーク王)」、「クリスチャン3世 (デンマーク王)」、「伯爵戦争」、「デンマーク=ノルウェーの宗教改革」、および「デンマーク=ノルウェー」を参照 1523年スウェーデンが、カルマル同盟離脱すると、デンマーク=ノルウェーは、コペンハーゲンにいるデンマーク王統治となったフレゼリク1世マルティン・ルター思想好んだものの、ルターの思想ノルウェーでは受け入れられなかった。当初フレゼリク1世プロテスタントノルウェー導入しないことを決めていたが、1529年心変わりしノルウェーにも導入することとした。ニーダロスの大司教であるオーラヴ・エンゲルブレクトソン(英語版)がプロテスタント導入抵抗し先年退位させられクリスチャン2世亡命先オランダから招聘した。クリスチャン2世その後フレゼリク1世に捕えられ、残り人生牢屋幽閉されることとなったフレゼリク1世没後1534年伯爵戦争起こり最終的にルター派クリスチャン3世勝利すると、オーラヴ・エンゲルブレクトソンは再び抵抗試みたものの失敗終わり追放された。ノルウェーデンマークの1属州降格され1537年には上からの宗教改革押し付けられデンマーク王強化された。教会にある価値の高い品々全てコペンハーゲン運ばれノルウェー国土40%を占め教会所有していた土地デンマーク王支配下入ったデンマーク語書き言葉として採用される一方ノルウェー語別個の方言として残存した。専門行政職が必要とされ、権力地方貴族からデンマーク国王行政組織移った地方俸給執政官裁判官として採用され行政長官地方貴族というよりも国王従僕となった1572年には、ノルウェー総督派遣されオスロアーケシュフース城居住した1620年代には、職業軍人採用されることとなったデンマーク=ノルウェーは、17世紀以降強大化したスウェーデンバルト帝国)の侵攻圧力により、度々危機陥った1655年北方戦争ではトロンハイム地方占領され1660年返還)、18世紀大北方戦争では、一時クリスチャニア占領された。しかし大北方戦争でのスウェーデン最終的な敗北により、デンマーク=ノルウェー直接的な脅威ではなくなった。そして18世紀後半に入ると、ノルウェー人海運業参画するようになったノルウェー商船隊大規模な発展は、19世紀海運立国としてのノルウェー下地を築く事となった。

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近世(江戸時代)

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古河市」の記事における「近世(江戸時代)」の解説

詳細古河城古河藩参照 古河藩設置され古河城藩庁となった現在の市域西部日光街道日光道中)が南北貫き古河城下(元の古河)に古河宿中田中田宿設けられた。一方市域東部では日光東往還日光街道)が縦断し、谷貝宿仁連宿諸川宿設けられた。 古河藩領は、現在の市域を含む下総国北西部、および隣接する下野国南部武蔵国北東部またがって形成され当時古河城下(現在の市域西部)は古河藩領の中心にあった。しかし近代以降旧藩領は県境によって分断され三方他県域に囲まれた県最西端の町になる。なお現在の市域東部には、古河藩含まれなかった地域多かった例えば、諸川宿仁連宿壬生藩領から天領幕府直轄地)、谷貝宿関宿藩領である。 歴代古河藩においては大老2人土井利勝堀田正俊)のほか、老中京都所司代などにつくものも多い、有力譜代であった1832年古河藩第十一代藩主である土井利位が、日本初雪の結晶に関する観察図鑑雪華図説』を出版した

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近世(オスマン帝国統治時代)

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ボスニア・ヘルツェゴビナ」の記事における「近世(オスマン帝国統治時代)」の解説

15世紀後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナ全域オスマン帝国の支配下に入る。正統派キリスト教勢力から弾圧受けていたボゴミル教徒たちの多くはこのときイスラム教改宗した。またこのほかにもイスラム教改宗した現地スラヴ人トルコなどから移り住んでボスニア・ヘルツェゴビナ定着したイスラム教徒などによって、この地方ではイスラム教徒人口比率高まった首都であるサラエボオスマン帝国ボスニア州(英語版)(1580–1867、Bosnia Eyalet)やボスニア州(英語版)(1867–1908、Bosnia Vilayet)の中心となり、宮殿築かれ帝国州知事たちによってオスマン風の都市建設進められた。多く住民イスラム教受容していたことや、その戦略的重要性のために、ボスニア・ヘルツェゴビナでは他のバルカン諸国に例がないほど文化トルコ化が進行した16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国ハプスブルク帝国、及びヴェネツィア共和国戦争行った際に、ボスニアオスマン帝国にとって重要な前哨基地としての役目果たしている。

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近世(江戸時代)

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三重県」の記事における「近世(江戸時代)」の解説

江戸時代に置かれた藩には伊勢国には、桑名藩長島藩伊勢亀山藩神戸藩菰野藩久居藩津藩志摩国鳥羽藩津藩支城伊賀上野城津藩一族名張陣屋紀州藩支城田丸城松阪城がある。

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近世(江戸時代)

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古河城」の記事における「近世(江戸時代)」の解説

天正18年 (1590年) 豊臣秀吉小田原征伐の後に城の破却令を出した天正18年 (1590年) 徳川家康に従っていた小笠原秀政入部し、城を修復拡張した。なお、秀政は城の修復の間、栗橋城滞在慶長7年 (1602年) 松平戸田)康長が城主となる。康長は観音寺曲輪百間堀を築き追手門設けた慶長17年 (1612年) 小笠原信之城主となる。のち、慶長19年に政信が継ぐ。 元和3年 (1617年) 徳川秀忠日光社参の際、古河城宿泊し、政信が接待元和5年 (1619年) 奥平忠昌城主となる。忠昌は立崎曲輪諏訪曲輪長谷曲輪)を拡張したほか、城下でも侍屋敷拡張町屋敷移転行い現在の古河市旧市街)の町割のもとになった元和8年 (1622年) 徳川秀忠日光社参の際、城に宿泊し、忠昌が接待元和8年 (1622年) 永井直勝城主となる。直勝は御成門築いた。のち、寛永3 年 (1626年) に尚政が継ぐ。 寛永6年 (1629年) 徳川家光日光社参の際、城に宿泊し、尚政が接待寛永9年 (1632年) 徳川家光日光社参遥拝)の際、城に立ち寄り、尚政が饗応寛永10年 (1633年) 土井利勝城主となる。利勝は、前任地の佐倉城ならって本丸御三階造営したほか、本丸御殿二の丸御殿造営した。のち、寛永21年に利隆、万治元年 (1657年) に利重延宝元年 (1673年) に利久延宝3 年利益が継ぐ。 寛永11年 (1634年) 徳川家光日光社参の際、城に立ち寄り、利勝が饗応寛永13年 (1636年) 徳川家光日光社参の際、城に立ち寄り、利勝が饗応寛永17年 (1640年) 徳川家光日光社参の際、城に立ち寄り、利隆が父の代理饗応寛永19年 (1642年) 徳川家光日光社参の際、城に立ち寄り、利勝が饗応天和元年 (1681年) 堀田正俊城主となる。貞享元年 (1684年) に正仲が継ぐ。 貞享2年 (1685年) 松平藤井)信之が城主となる。次の年に忠之が継ぐ。 貞享4年には、幕府批判した熊沢蕃山預けられ城内立崎曲輪幽閉される。 元禄7年 (1694年) 松平大河内信輝城主となる。信輝城内頼政神社整備。のち、宝永6年に信祝が継ぐ。 正徳2年 (1712年) 本多忠良城主となる。のち、宝暦元年 (1751年) に忠敞が継ぐ。 宝暦9年 (1759年) 松平松井)康福が城主となる。 宝暦12年 (1762年) 土井利里城主となる。のち、安永6年(1777年) に利見、同年に利厚、文政5年(1822年)に利位、嘉永元年(1848年)に利亨、同年に利則、慶応3年(1867年)に利与が継ぐ。 安永5年 (1776年) 徳川家治日光社参の際、城に宿泊し、利見が接待天保3 年 (1832年) 城主の利位が雪華図説著した天保14 年 (1843年) 徳川家慶日光社参の際、城に宿泊し、利位が接待将軍による最後社参慶応4 年 (1868年) 勤皇派佐幕派対立があったが、城内意見勤皇派集約し土井利与京都天皇勤皇意思表明

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近世(江戸時代)

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古河城」の記事における「近世(江戸時代)」の解説

ほぼ北から南に向かって流れ渡良瀬川東岸位置した古河城築かれ台地は、川とその東側広がる沼地はさまれ北から南に伸びる半島になっていた。 江戸時代城域は、水堀を含むとおおむね東西約0.45 - 0.55km、南北約1.8km 程度広さであり、関東有数規模であった城域西側は川に接し残り三方水堀囲まれていた。城域東南から南側は、通行困難な沼地であり、これらの沼地渡良瀬川生かした守られ要害であった構造は、土塁囲まれ複数曲輪が、直線状に配置され連郭式である。主な曲輪は、北から順に、観音寺曲輪桜町曲輪丸の内)、三の丸二の丸西側)/本丸東側)、頼政曲輪立崎曲輪である。そのほかに桜町曲輪東側には、水堀百間堀)の先に出城」と呼びならわされる諏訪曲輪があった。 このうち観音寺曲輪桜町曲輪諏訪曲輪には重臣たちの武家屋敷二の丸には藩主御殿置かれた。頼政曲輪には源頼政祀った頼政神社があった。三の丸には馬場設けられた。観音寺曲輪北側追手門桜町曲輪東側御成門など、多数の門が置かれた。御成門日光社参時に立ち寄る将軍入城する門であり、外枡形形式虎口開き周辺には石垣築かれた。 天守建てられなかったが、土井利勝によって、本丸西北出隅建てられた「御三階櫓」と呼ばれた3層4階が、実質上の天守となった。高さは約22メートルあり、同様の構造建てられ水戸城佐倉城御三階櫓松江城天守(約22.4メートル)もほぼ同じ高さである。 他にも、桜町曲輪にあった茂平河岸は、城内との物資輸送人員移動担ったまた、掘の周囲配置され寺社永井寺正定寺など)は出城としても機能し、城の防衛拠点となっていた。 なお、古河歴史博物館内には精密な古河城模型展示されており、城全体の構造再現されている。

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近世(江戸時代)

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直島町」の記事における「近世(江戸時代)」の解説

江戸時代男木島女木島合わせて直島3島」と総称され直島諸島全域本土における藩政あるいは自然村)に相当する包括的単位としての直島」、郡に相当する広域単位としての小豆島」に属する。当初旗本高原氏の領地であったが、寛文12年1672年頃)から幕府領となり幕末迎える。幕府領時代は、寛文12年1672年頃)から倉敷代官所支配宝永5年1708年頃)から高松藩預地元文4年1739年頃)から再び倉敷代官所支配であった海運大動脈であった瀬戸内地の利生かし廻船業(北前船)などで活躍する家もあった。天領であったため歌舞伎人形浄瑠璃などの公演特別に許可され、琴弾地浜や城山での公演では島内外からの一座観客大変にぎわった。とくに人形浄瑠璃人気高く淡路島から島内伝わった

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近世(江戸時代)

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言挙げ」の記事における「近世(江戸時代)」の解説

山崎闇斎儒学者として仏教対抗し神道儒教との融合積極的に推進垂加神道提唱、神と人間の関係を儒教的君臣関係に捉え直した平田篤胤禁書だったキリスト教関係の書を読み創造神概念神道導入した『古事記』解釈にあたり、「造化」(創造)の神として天之御中主神重視し同時にスサノオ黄泉の国行った際に遭った大国主命幽界黄泉の国)の支配者解釈した世界はこの「幽界」と現実世界とによって構成されていると考え、「顕界」(現実世界)を支配するとしての天皇という概念創出した。この発想明治維新理論的基盤となり、近代初期においては大国主命祀る出雲派台頭させた。

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近世(島津氏による支配)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 15:00 UTC 版)

鹿屋市」の記事における「近世(島津氏による支配)」の解説

肝付氏亡き後の肝属は、伊集院忠棟鹿屋城を拠点地頭として管理した。忠棟は鹿屋城の修復城下町形成始めとして水田開発などによる農業生産の向上、市(いち)の開催手掛けた後述する定期市はこのときに始まったのである薩摩藩外城制(後に○○郷と改称)を敷き現在の鹿屋市域では鹿屋大姶良花岡・高隈・串良・姶良・百引・市成の8郷(花岡と市成は私領)がおかれた。外城成立時期は地域により異なり鹿屋郷(外城)の場合は、私領経て1645年成立した。郷は1889年町村制施行の際にもほぼそのままとなるなど、後世まで行政区域として機能した鹿屋市域では「南部吾平町)」(『鹿屋市総合計画』による地域区分姶良郷)、「高隈地区」(『鹿屋市総合計画』による地域区分、高隈郷)がその名残伝える。 鹿屋郷では定期市が月6回開催され大隅半島各地始めとして薩摩半島側の指宿からも集客があった。当時島津氏御用達銘酒として「桜川」が存在したが、幕末1882年頃の火災時代推移とともに衰退した名産品として鹿屋大姶良生産された「高須甘藷」(高須港から出荷されたため「高須」といわれた)があった 。 薩摩藩領内農民農業以外の職に就くことが許されず、年貢も8公2民(収穫のうち8割が徴収される、他藩は4公6民が一般的)という高率であったこの他にも衣食住全般にわたって制約課せられており、百姓一揆起こす余裕すらなかった。逃亡者数多く発生し薩摩半島西目側から農民強制移住人配、「にんべ」と読む)させることもあった。このような壊滅的ともされる 経済状況は、明治期になってから改善されることとなる。 この時期困窮具合証明する資料として人口比較挙げられる鹿屋郷には1801年時点では6,224人いたのに対し1824年時点では6,180人に減少しており、逃亡間引き横行していたことが推測される

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近世

出典:『Wiktionary』 (2021/08/16 02:10 UTC 版)

名詞

 きんせい

  1. 歴史時代区分で、中世近代日本では安土桃山時代から江戸時代終わりごろまでを指す。

発音(?)

き↘んせー

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