じょう‐かく〔ジヤウクワク〕【城郭/城×廓】
城郭
城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 23:59 UTC 版)
舌状台地の先端部に城郭を設ける事例は各地に見られ、平山城として言及される。 舌状台地の先端部に城郭を構える場合、台地面につながる部分には空堀を設けるのが一般的であった。例えば、青森県中泊町の中里城遺跡では、もともと古代の集落があった場所に、空堀などが施されて中世の城館となった。東京都調布市の深大寺城は、野川と沼地を三方にもち、西側の台地につながる部分に空堀を設けた連郭式縄張の中世城郭であった。また、現在の千葉県市原市にあった椎津城は、台地側に3条の空堀を設けていた。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/17 02:15 UTC 版)
城郭は基本的に元城と外城に区分されるが、元城は一つに繋がれた本城であり、外城として東側に蜂巖城と漢峰城、南側に新南城があり、東西2つの高台が構築されている。元城は1624年(仁祖2年)から1626年(同4年)の間に増改築、当時(ママ)築城されて周囲7,545mになる。 元城内部は約67万余坪と測量されている。現在元城は南側と北側一部が破損された状態である。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 13:50 UTC 版)
山形城は、本丸、二の丸、三の丸が、同心円状に配置された輪郭式平城である。二の丸には5つ、三の丸には11の出入り門が作られた。中世の居館を拡張して城郭とし、本丸は御殿のみで天守は造られなかったが二ノ丸に代用の三重櫓が建てられていた。ただこの三重櫓は元禄期(1688~1704)までに取り壊されている。二の丸は一辺500メートルほどの方形、三の丸は1.5キロメートルから2キロメートルほどの楕円形であった。本丸には御殿、二の丸には藩の政庁と御三階櫓が、三の丸には534人の上級、中級の最上家家臣の屋敷、城外には1,326人の家臣の屋敷と寺院が町方を取り囲むように置かれた。 霞城公園を取り囲む水堀は、二の丸の濠であり、良く保存されている。三の丸の水堀は江戸期の終わりごろには埋没し、湿地化していたところが多かった。多くは現在、住宅地などの地下に埋没しているが、発掘調査の結果、良く保存されていることが確かめられた。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 08:28 UTC 版)
中世までこの地は太田川河口の干潟であった。応安4年(1371年)今川了俊の紀行文『道ゆきぶり』には「しほひ(潮干)の浜」として登場する。広島県教育委員会の資料によると、中世以前の遺跡・埋蔵文化財は発見されていない。 戦国時代末期、毛利輝元は平野部に城と城下町を一体化して築き領国の政治・経済の中心とすること(近世城郭)を決める。当時「五箇」(ごか、五ヶ村とも)と呼ばれた寒村であったこの地に天正17年(1589年)築城を開始、慶長4年(1599年)落成した。「広島」が名付けられたのはこのときである。のち城は福島正則、次いで浅野長晟が入場し、幕末まで浅野氏が統治した。 「広島城」も参照 Clip 『正保城絵図安芸国広島城所絵図』 つまり近世においては広島城の城郭内に当たり、幕末まで機能し続けた。現在の基町の範囲内では、本丸・二の丸・三の丸(内大手郭)・外郭の大手郭と西の郭に当たる(大手郭の一部・北の郭・北の丸は現在の白島と上八丁堀)。外堀つまり現在の町境には二重櫓が築かれ、特に太田川(現旧太田川)を外堀に位置づけ隣接する西側沿岸にも築かれていた。川には防衛上の観点から架橋制限が行われていた。 中枢部であった本丸・二の丸には厳重な警備がしかれ誰でも簡単には立ち入ることができなかった。三の丸には一族の大名や重臣が住んでおり外郭で城下町と隔離していたものの、日中であれば藩士でなくても入ることができた。 明治時代の初め、本丸・二の丸・三の丸と大手郭を「南町」、白島側の北の丸・北の郭を「北町」、川側の西の郭(小姓町)を「西町」と称していた。1887年(明治20年)南町・北町・西町が一緒になり広島開基の地に因んで「基町」と名付けられた。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 01:00 UTC 版)
片倉城跡 - 片倉町。空堀・土塁等が残り、15世紀後半の中世城郭の形態を今に伝える。東京都指定史跡。 滝山城跡 - 高月町。大石定重築城。その後北条氏照の居城。規模の大きさや保存状態の良さでは日本でも有数の城跡。東京都立滝山自然公園の一画。丘陵斜面を覆う約5千本の桜が有名。国指定の史跡。 高月城跡 - 高月町。 八王子城跡 - 元八王子町。北条氏照居城であり、関東屈指の山城である。国指定の史跡。日本100名城。 ■右列に画像あり 初沢城跡 - 初沢町。東京都指定史跡。 浄福寺城跡 - 下恩方町。 小田野城跡 - 西寺方町。国指定の史跡。
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城郭(日本の城)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 11:42 UTC 版)
最後に完成した、完全な(天守が現存する)城郭建築:松山城(天守本壇が1854年2月落成) 最後に完成した、天守を有する日本式城郭:松前城(1849年幕府が築城許可。1854年9月完成) 最後に完成した、幕藩体制下の藩による日本式城郭:石田城(1849年幕府が築城許可、1863年6月完成) 最後に完成した日本式城郭:園部城(1868年に明治政府が築城許可、1869年8月に完成) 最後に完成した、藩が建築した城(稜堡式城郭):松尾城(1869年9月着工、1870年藩庁などが完成) 個人所有であった最後の城:犬山城(現存天守。旧城主の成瀬家所有であったが2004年より財団法人所有となる)
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 05:37 UTC 版)
「城#日本」も参照 戦国時代から安土桃山時代にかけて鉱山技術・建築技術・築城技術・造船技術などが進歩して、軍事色が強い山城から平山城へ移行した。城下町の発展の商業化で城主の政治統治や商人への経済支配を重視する平城へ移行した。織豊系城郭と呼ばれ、野面積み石垣が用いられるようになり、天守を持つ城郭建築が主流となる。 犬山城:現存(国宝) 安土城:本能寺の変後に焼失 松本城:現存(国宝) 大坂城:大坂の陣で焼失、現在の遺構は江戸時代に造られたもの 丸岡城:現存(国の重要文化財) 伏見城:江戸時代初期に廃城。御香宮神社表門が遺構として伝えられている。 聚楽第:豊臣秀次失脚時に破棄。大徳寺唐門、西本願寺飛雲閣が遺構として伝えられる。 佐和山城 竹田城 名護屋城 姫路城:現存(国宝・世界遺産) 倭城:文禄・慶長の役で朝鮮半島に築かれた城 蔚山城 西生浦城 順天城
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「城郭」の例文・使い方・用例・文例
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