じょう‐かく〔ジヤウクワク〕【城郭/城×廓】
城郭
城郭
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舌状台地の先端部に城郭を設ける事例は各地に見られ、平山城として言及される。 舌状台地の先端部に城郭を構える場合、台地面につながる部分には空堀を設けるのが一般的であった。例えば、青森県中泊町の中里城遺跡では、もともと古代の集落があった場所に、空堀などが施されて中世の城館となった。東京都調布市の深大寺城は、野川と沼地を三方にもち、西側の台地につながる部分に空堀を設けた連郭式縄張の中世城郭であった。また、現在の千葉県市原市にあった椎津城は、台地側に3条の空堀を設けていた。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 10:16 UTC 版)
石垣、櫓台、虎口、土塁、郭、堀が残る。大鍋山に本丸、小鍋山に二の丸、下鍋山に出丸が築かれている。現在城跡の管理は鍋山城跡史跡保存会が行っている。
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城郭
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貝吹山古墳は全長約130m、最長部は標高44m、比高8mで前方が北西に向けている前方後円墳である。この城は、南東に熊野街道があり約500mの地点に位置する。紀伊国の繋がる熊野街道を押さえ、また約3km西には岸和田城があり、後詰とする最適な場所となる。貝吹山古墳の後円部は三段構成となっており、最上段が主郭と考えられている。貝吹山古墳の傾斜面の裾の近くに断面がV字をした溝が四カ所検出され、これが主郭部分を防備する横堀と考えられている。横堀が段築の平坦地ではなく傾斜面に作られているという点も注目されている。前方部は横堀と土塁の組み合わせで防御していた事が報告されており、後円部も同様の普請であったと考えられている。前方部は削平されており、陣城に伴う削平し曲輪として活用していたと考えられるが、築城以前に阿弥陀堂が建っていたとう伝承があり、築城前にもすでに削平されていた可能性がある。また主郭部分と前方部は堀切で分断されている。 後円部の周囲には、土橋で区切られた濠が廻っている。土橋と濠は古墳時代からの形状であったと考えられるが、城郭の防御ラインとしても使用されていた。しかし、土橋部分の防御施設や土橋から主郭までの動線については現状では不明である。発掘調査は部分的なトレンチ調査だけとなっており、城郭の全容を明らかにするまでには至っていない。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 14:18 UTC 版)
一宮城は本丸を中心に、東西800m、南北500mの範囲で才蔵丸や明神丸、小倉丸などの曲輪が配置されている他、倉庫跡、畑跡、貯水池跡や、尾根筋には堀切、横堀、竪堀、小曲輪を配し、強固な防御としている。蜂須賀家政時代と思われる本丸部分の石垣は、徳島には産出例が多い結晶片岩の野面積みで、角石には立石を用いるなど近世城郭の初期時代と思われる。これらの石垣は、徳島県下では、池田城と同規模で、徳島城に次ぐ大規模なものとなっている。1817年(文化14年)に編纂された『一宮城古城跡書』によると、主要曲輪は6ヵ所、小規模なものを含めると13ヵ所の丸と呼ばれる曲輪があったと記載されている。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/28 22:14 UTC 版)
多賀郡助川の大平山の古城跡に建てられた。本丸の標高約110m、海岸までの直線距離約2kmであり海防を指揮するに好適地であった。軍奉行山国喜八郎が設計監督に当たり、幕府に進達した設計書に記された建造物は、屋敷構、土蔵、穀蔵、長屋、表門、居宅入口門、柵門(裏口)、武器庫2棟、二階付遠見番所、居宅二階付物見、柵矢来。更に、義観が養正館、鉄砲教練場などを設けて城郭として整えた。なお、ほとんどが天狗党の乱で失われてしまい、遺構として現存しているのは本丸表門の礎石と鳩石のみである。現在、本丸跡は城跡公園等、二の丸跡は日立市鳩が丘さくら福祉センター等、三の丸跡は日立総合病院、日立市立助川小学校等になっている。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 03:20 UTC 版)
当時の船上城の様子は天理図書館が所蔵している『慶長播磨国絵図』に「明石古城」として記載があり、また『小笠原忠真一代覚書』によれば大坂の役までの遺構として、門、塀、殿主(天守)がある。『ひょうごの城紀行』は船上城の天守は「二層の建物の上に望楼を取り付けた三層のものだったのではないか」と推測している。 現在の船上城跡はほとんどが宅地や農地になっており、高さ3mの小さい台地にある本丸跡、古城大明神の祠、船上城の説明看板があるのみである。戦前はこの台地もかなり広かったようであるが開発により急速に削られている。近くの船上西公園から本丸跡を眺めることができる。 明石城築城の際には、建築部材に船上城の部材を使用した(明石城の巽櫓は船上城の天守か櫓を移築したものと伝える)と言われている。また明石市指定文化財の織田家長屋門は、もと船上城の侍屋敷の長屋門であったと伝えられる。 船上城と地名と推定遺構旧地名古城門田獅子投丁田町屋敷推定遺構本丸跡と思われる 城門跡と思われる 城の大手門跡と思われる 侍屋敷跡と思われる 旧地名寺田町山王神社宝蔵寺古波場推定遺構寺町跡と思われる 現在は林神社に合祀されている キリスト教会に転用された 水門、港跡と思われる
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 19:54 UTC 版)
城郭は南北に約350メートル、東西に約70メートルで、丹波では大形に属する。山稜線の主軸に根幹をなし、そこから派生した2つの支脈の稜線に曲輪が配され、下部の曲輪で横に繋がっている。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 20:17 UTC 版)
丸山城は、後世の開墾等で改変を受けた箇所が若干あるものの、三重県でも非常に保存状態の良い中世城郭である。丸山の最高所に位置する天守台周辺が本丸と考えられ、ここから派生する西、南、北の尾根と丘陵斜面などの地形を利用し、大小の平坦地を設けた城郭となっている。本丸周辺は防御がかなり意識された縄張りとなっているが、本丸周辺外では単調な縄張りとなっている。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 20:13 UTC 版)
大和田城の場所については、都市化が進んで遺構はなく、現在特定できていない。ただ、『西成郡史』によると大字で「垣内と呼ばれた地域であろう」と記載されている。大阪市の解説でも城跡は「城垣内(しろかいと)」と呼ばれた地とされ、現在の大和田5丁目の全域と一部4丁目を含む地域である。城垣内の北西地域には少し高い場所があり、移設前の石碑があった周辺では「城の町」と呼ばれており、この周辺が城の中心ではなかったかと考えられている。大和田の地は京都と西国を結ぶ交通上の要衝であり、石山本願寺軍や毛利水軍に備える軍事上の重要な箇所となっていた。 なお、大阪府の大阪府の行政地図情報システムによる埋蔵文化財包蔵地範囲の表示では、大和田5丁目の住吉神社と大和田北公園付近を「大和田城跡伝承地」として設定している。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 20:21 UTC 版)
山頂に本曲輪を設け、その東側に10m以上の堀切を配し、本曲輪の西と北に出曲輪、更に西の山麓の傾斜添いに3段にわたる4つの曲輪を設けている。 西三段目曲輪 西出曲輪 北出曲輪 野崎城からの眺望
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 20:25 UTC 版)
安威城の城郭は外郭と内郭(100メートル×70メートル)からなる縄張りと思われている。 安威城はかつて大手門があった場所より進入し、ここから城内の中心部へ進入していく。この大手門の両脇に、農業用の水路が確保されているが、これが外郭と城外を隔てる堀のような役割を果たしていたのではないかと指摘されているが詳細については不明である。 城内は完全に宅地化されており、城跡をしのばされるものは少ないが、北東に150メートルの土塁跡、また南側にも見受けられるが北東の土塁ほど保存状態はよくない。それ以外に南東に円形の城井戸と伝わるものがあり、現在も用水として使用されている。 茨木市立安威小学校は外郭の一部に建ち、西限ではないかと思われている。 「安威城跡」として周知の埋蔵文化財包蔵地になっている範囲では、大阪府や茨木市により2002年(平成14年)以来数回の発掘調査が行われているが、調査範囲では近世や古墳時代の集落遺跡や遺物が多量に検出されているものの、中世城郭に明確に関連する遺構や遺物は発見されていない。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/17 02:15 UTC 版)
城郭は基本的に元城と外城に区分されるが、元城は一つに繋がれた本城であり、外城として東側に蜂巖城と漢峰城、南側に新南城があり、東西2つの高台が構築されている。元城は1624年(仁祖2年)から1626年(同4年)の間に増改築、当時(ママ)築城されて周囲7,545mになる。 元城内部は約67万余坪と測量されている。現在元城は南側と北側一部が破損された状態である。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 21:59 UTC 版)
山下城は二山一城で城郭も2箇所存在している。城山の方が遺構が多数残っている、面積が大きい、という点から中心は城山の方で、向山は補完する存在と思われる。 城山と向山の間には城郭施設が見受けられず、連絡路のみ見受けられる。このような城郭を築いた理由として、谷を挟んで両翼から防御できる、片方の城が落城しても、もう片方に敵が押し寄せるのは時間がかかり反撃できる、などが考えられる。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/29 04:37 UTC 版)
愛宕山の南西山腹に築かれた山城。城跡は現在飯盛神社が鎮座する境内からその裏手の山林一帯とされている。飯盛城のものと確定されている遺構は2009年現在発見されていない。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/16 09:35 UTC 版)
野田城がどの程度の城郭であったのか現在も不明な点が多い。城跡は都市化され、築城当時とは大きく地形が変化しているからである。ただ少ない資料の中からおおまかな概要は把握されている。この地域は平安時代以前には「難波八十島」と呼ばれる島々が点在していたが、淀川の堆積土砂によって段々と島が陸続きになり、平安時代より今日に至るまで大きく変化してきた。野田城も当時は島のような場所に築城されていたと考えられている。 野田城は砦であったという指摘もあるが、『細川両家記』には、 野田、福島に猶似て堀をほり、壁を付け、櫓を上げさせ、河浅き所に乱株、逆茂木引き、当所へ楯籠らるるなり — 『細川両家記』 とあることから、浦上村宗時代には砦のような施設であったが、三好三人衆時代には「紛れもない城郭であろう」と『幻の野田城を探る』では記しており、近隣にある大坂城のような近世城郭ではないものの戦国時代の城郭であったと思われている。 明治時代初めまでは、同地域に「野田村」が存在していた。この野田村は奥ノ町、東ノ町、城ノ内町、弓場町、堤町、北ノ町の6町から成り立っていた。明治時代初期の地図によると、この野田村周辺が他の地域と比べて若干高い場所にあり、地の利を活かし築城されたのではないかと思われている。また『幻の野田城を探る』によると、城郭は旧町名の城ノ内町、奥ノ町にあたるのではないかとしており、現在の地名では、石碑1や極楽寺付近が中心部、野田恵美須神社や春日神社が城郭の東側とされる。福島区野田3丁目の野田診療所の南東には馬洗池があったと言われており、この馬洗池が野田城と関係があるとなれば、この辺りが城郭の西側になると思われている。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/24 15:39 UTC 版)
城山の山頂部分を削って本丸が作られ、南側に物見台、北側に二の丸が置かれた。遺構としては櫓台や井戸の跡、野面積みの石垣等がある。山の西麓には「千人枡」と称される居館跡があり、石壁・石塁・門等が残されている。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 15:25 UTC 版)
豊島清光館:隅田川の岸辺に建つ清光寺が豊島清光の館跡と言われる。 平塚城:現在の平塚神社が城跡といわれている。清光とその子の朝経の時の居城。居城が石神井城に移ると、支城となった。 石神井城:現在の石神井公園の一角にあり、三宝寺池と石神井川に挟まれた台地上に築かれた。三宝寺池のほとりに城址碑がある。
※この「城郭」の解説は、「豊島清元」の解説の一部です。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/06 17:10 UTC 版)
この城は新城と古城とよばる2か所の遺構からなっている。東側の遺構、古城は尾根上の小突起に築かれ、徳島県下の中世城郭によく見られる占地に無理なく築城されている。一方、西の遺構、新城は南方から北に向かっている尾根に無理に築城されており、南と北を防御するように築かれており、古城の弱点を補完する防御のために後に新たに築城されたと考えられている。山麓には居館があったと思われるが、現在は跡形もなく「馬場屋敷」という地名のみが残っている。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 22:37 UTC 版)
城跡は1881年(明治14年)に旧郡山中学校の校舎が二ノ丸に、旧郡山園芸高校が麒麟曲輪に建設されるなど、大きく姿をかえた。長らく荒廃していた郡山城であったが、1960年(昭和35年)7月28日、本丸と毘沙門曲輪が奈良県指定史跡となり、1983年(昭和58年)に追手門が、翌1984年(昭和59年)追手東隅櫓が、1987年(昭和62年)には追手向櫓が市民の寄付などにより復元された。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 22:37 UTC 版)
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/10 13:34 UTC 版)
千石堀城は、2重の塹壕を巡らし、四周に大小多数の池が散在し天然の備えをしていた。東西32間、南北12間、東堀、西堀、南堀、北堀がそれぞれ二重としていたと記されている(『根来戦記』)。現在遺構が確認出来るのが三ノ丞山と呼ばれる一画だけだが、南側の丘稜とため池は自然の地形を利用した要害となっていたと見られている。 千石堀城の主郭部分は、40×70メートルで周囲には横掘を巡らし、北側には本丸へ続く食い違い虎口を設けている。横堀の更に外側には土塁、帯曲輪を巡らしている。主郭下の横堀には堀内部に低いながらも仕切りがあり、防御の分担が行われるようになっている。横堀に仕切りを設ける城郭技術は、紀伊国の高野山系城郭の一部に認められ、戦国時代後期から広く共有した築城技術となっている。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/12 15:28 UTC 版)
「二上山城 (大和国)」の記事における「城郭」の解説
二上山城の主郭にある葛木坐二上神社の拝殿 本丸の西側にある空堀跡 二上山は雄岳と雌岳の両峰からなりなっており、二上山城は北の雄岳の山上にある。山頂は東西170mの西高東低の二段からなる長大な曲輪で、二の丸と呼ばれている場所に大津皇子の墓がある(但し、大津皇子の墓ではないとする説もある)。陵墓は後世に整備させたようであるが、二上山城時代にはこの周辺に櫓台か土塁があったと思われている。陵墓は石垣が補修され公園化されているので、城の面影は少ないが登り道の斜面には三段の帯曲輪が東西に走っている。本丸と呼ばれる曲輪の東側には葛木坐二上神社の拝殿がある。本丸から更に西側に向うと、帯曲輪、空堀、土塁と続き六段の曲輪がある。この部分は公園化されていないので、曲輪の形が現在でも確認できる。二上山の雌岳側にも腰曲輪の城郭があったと言われているが、全体の崩れがあり城郭部分が明確に判断出来にくい状態になっている。 二上山城の山続きの北1kmには岡氏の居城であった岡城、南に900mには万歳山城があり二上山城は両城を抑えることが可能な位置にある。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 13:50 UTC 版)
山形城は、本丸、二の丸、三の丸が、同心円状に配置された輪郭式平城である。二の丸には5つ、三の丸には11の出入り門が作られた。中世の居館を拡張して城郭とし、本丸は御殿のみで天守は造られなかったが二ノ丸に代用の三重櫓が建てられていた。ただこの三重櫓は元禄期(1688~1704)までに取り壊されている。二の丸は一辺500メートルほどの方形、三の丸は1.5キロメートルから2キロメートルほどの楕円形であった。本丸には御殿、二の丸には藩の政庁と御三階櫓が、三の丸には534人の上級、中級の最上家家臣の屋敷、城外には1,326人の家臣の屋敷と寺院が町方を取り囲むように置かれた。 霞城公園を取り囲む水堀は、二の丸の濠であり、良く保存されている。三の丸の水堀は江戸期の終わりごろには埋没し、湿地化していたところが多かった。多くは現在、住宅地などの地下に埋没しているが、発掘調査の結果、良く保存されていることが確かめられた。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 16:49 UTC 版)
飯盛山城の縄張りとして、最高地点315.9mに高櫓曲輪が築かれ、南北一直線上の尾根伝いに主要な曲輪群、東西の尾根の先端部にはそれぞれ曲輪を築いている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 07:57 UTC 版)
現在は全域が民有地になっており主郭一部以外は杉が植林されているが、台風による倒木が多くみられ保存状態の悪化が心配される。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 06:12 UTC 版)
現在の城郭は、最後の城主となった豊臣秀吉時代のものが多くあらわれている。山崎城の最大幅は、東西約250メートル、南北約200メートルで本丸北側には東西35メートル、南北20メートルの小曲輪があり天守台と考えられている。本丸を中心に、東側、南側、南西側に曲輪を配置し、北側は断崖の要害となっている。 縄張りの基本は四角形で築城されており、「倭城の長大な登り石垣と空堀と第一戦に捉えた天守台のパターンに近いものが萌芽しており、織田・豊臣系の築城パターンの中でも、秀吉の個性が強く出たものと考えられる」とし、山崎城の築城パターンはその後の倭城に多く出てきており、豊臣系のものが色濃く出ているとされている。豊臣秀吉が山崎城に在城中は、天王山から宝積寺一帯にかけて布陣していることから、寺を含めて城郭として機能し、寺から山頂にかけての防御はそれほど重要でなく、「山頂のこの城郭は、全体の詰の城といった存在であったと考えられ」、山頂部分の縄張りは最後の砦として機能したといえる。 また山頂の城郭(詰の城)は本丸に向かうまで、虎口、枡形、土塁、堀、土橋と連続した防御システムがある。これについて「山麓の宝積寺より山頂の詰の城を一体とするパターンと、詰の城の細かい防御施設に後の秀吉系の城郭パターンの原型と言える二大要素を持った縄張の城郭である」と指摘されている。 遺構としては、本丸の礎石跡、石垣、井戸、門柱礎石が散見できる。歴史がある山崎城だが、発掘調査は進展していない模様である。 本丸への虎口跡 天王山山頂の標札 本丸南下への曲輪跡 井戸跡
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 22:26 UTC 版)
本丸を中心に配し、東側に二の丸、その東に東の丸が配され、南側に三の丸、西側には稲荷郭が設けられた。本丸、二の丸、東の丸は明石城の主郭部分で、この部分の石垣、土塁、堀などの作事は徳川幕府が担当し、三の丸と町屋に関しては、小笠原氏と徳川幕府の共同事業として進められた。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 02:30 UTC 版)
三田城は、武庫川の右岸に張り出した、三田丘陵に張り出した舌状を利用して建てられ、北、東、南側が約20mの崖になっており、天然の要害の地であった。 主郭部分は100m×150mの長方形で、東に1ヵ所、西に2ヵ所をそれぞれ空堀で区画して配置している。空堀の規模は埋め立てられて明確ではないが、幅10m、深さ5-10mを測る。主郭の両側の空堀は屈曲しており、横矢がかかるような防御施設ではなかったかと思われている。周辺には堀跡があり、家老屋敷、武家屋敷、歴代藩主の墓碑も残り、城下町の姿を現在につたえている。三田城は兵庫県立有馬高等学校の体育館の改装工事に伴う発掘調査で、3面にわたる火災面と整地層が確認され、3段階の改修が行われたと考えられている。 中世三田城時代 近世三田城時代 三田藩陣屋時代 各それぞれの遺構、遺物が検出されている。中世三田城時代とは「車瀬城」時代ではないかと考えられ、兵庫県立有馬高等学校辺りに「古城」という名が残っている。遺物などから16世紀後半と考えられ、遺構としては、堀、礎石建物、井戸、鍛冶炉、池状遺構、石組遺構が検出され、遺物としては、丹波焼、備前焼、瀬戸焼の他に、青磁碗、青花碗、皿などの輸入陶磁器が出土している。近世三田城時代の遺構としては石組み井戸が検出され、遺物としては山崎氏の家紋入り軒瓦が大量に出土した。三田藩陣屋の遺構としては、建物跡とゴミ穴のみが検出された。 兵庫県三田市立三田小学校の校舎・体育館などの建て替えに伴う数度の発掘調査では、建物跡(「三田御館指図」と位置的に一致しない)を示す礎石遺構や池状遺構・竈石組(現在も校長室床下に保存)、さらに九鬼氏以前のものと推定される小堀跡が検出されている。如上の検出から、旧三田城の城域に新たな知見を与えるとともに、陣屋「御館」が数度の増築・改築・立て替えが行われたとも推定される。 九鬼氏は「無城」であったため築城こそ許されなかったが、九鬼氏以前の旧三田城を取り込んで更に拡張し堀を廻らすなど、大規模な陣屋を構築している。藩内の人々からは「三田城」と呼称されていたとも伝えられている。10代藩主九鬼隆国は城主格に昇進するが、幕府の規定では城主格には築城が認められていないため、引き続き「三田陣屋」と公称される。 『三田町図』(油谷氏旧蔵・三田市蔵)や『三田古地図』『摂州三田図絵』によると、三田城陣屋は、まず本町通突き当たりを虎口にし釘抜門を設け、さらに進むと桜ノ馬場(サクランバンバ)がある。馬場沿いには舟蔵・御下屋敷・藩校(家老九鬼図書屋敷→国光館→造士館)・大手門があり、門内には内馬場と馬屋・番所がある。ちなみに御下屋敷は、藩主やその配偶者の隠居所、また藩主の子女・側室の生活の場であったようである。史料によれば、歴代藩主のなかで92歳という長寿を遂げた8代藩主九鬼隆邑(松翁)や11代藩主九鬼隆徳(松山)が隠居後の余生を御下屋敷で送ったことが確認できる。現在、御下屋敷の遺構として、築山・灯籠が元の場所に、黒門が三田市天神に所在する金心寺の山門として(移築に際して改変されている)、それぞれ遺存している。 大手門より緩やかな坂道を進むと堀があり、堀にかかる橋を渡ると陣屋表御門へと至る。陣屋は、四方を水堀(南は大池)で囲まれ、藩庁である御館や長屋・番所・大工小屋などで構成されていた。御館は、「三田御館指図」(「三田屋敷図」油谷氏旧蔵・三田市蔵)によると、御式台・御玄関・内玄関・御広間(上間・下間・次間の3間)・御小書院(上間・下間・溜之間の3間)・御大書院(上間・下間の2間)・御居間(上間・次間の2間)・御納戸・御兵法場・御風呂場・御時計間・御焚火間・広間・右筆部屋・御茶所部屋・御料理所・台所・御椀部屋・御勘定所・御茶所・御上台所(庭あり)・御下台所(庭あり)・御肴部屋・御茶間・御三ノ間・物置・御局・御守殿(上間・次間の2間)などの諸部屋が設けられている。しかし、御館には藩政にかかる実務を執り行う御用部屋・家老詰所などが見当たらない。これらの評定機関は内堀を挟んだ陣屋北側の二ノ丸に存在し、二ノ丸は長屋で囲まれた中に3棟の建物で構成されていた。2階建てであったとも伝えられている。さらに、元文4年(1739年)10月には二ノ丸内にあった藩士の越賀弥六郎の屋敷を召し上げて郷会所を設けている。史料には「代屋敷大名町明屋敷下され、……是迄居屋敷建具下置かれる、長屋は其侭差置く様仰付かる」とあるので、郷会所の設置に際して長屋の他は新築されたようである。その他の施設として、二ノ丸には竹小屋があった。二ノ丸の東には空堀を挟んで御茶屋が設けられている。御茶屋の東西南は堀に囲まれ、北は断崖状となっており、その崖上端に茶屋の建物がある。さらに御茶屋内には、門や矢来・内堀があり、非常に堅固な様相を見せ、単なる御茶屋としての性格には止まらず、一朝事あった際には本丸の役割を果たすようになっていたのではないかと考えられる。大分県玖珠郡玖珠町の森陣屋の「紅葉の御茶屋」や天守に見立てたとされる「栖鳳楼」と性格を一にするものかもしれない。御茶屋の東には、空堀を隔てた郭内に武器庫と土蔵があり、郭内北西角には「天守跡」(『摂州三田図絵』)・「古城」(『三田町図』)と、九鬼氏以前には天守が存在したことを示唆している。「天守跡」とある辺りには、昭和10年代から20年代まで土壇のような形状が遺存していたとのことである。さらに空堀を挟んだ郭内には焔硝蔵と古城稲荷社・姫高稲荷社(三田城の鬼門に当たるため)があった。 『三田古地図』には、現在の有馬高校グラウンド付近に、赤門長屋を備えた御下屋敷に準ずる御用屋敷が示されている。 大池の南側には武家屋敷が整然と並んでいた。三田城陣屋の東側には武庫川があり、城陣屋との間には町屋が造られていた。なお、武家地と町屋の境には木戸が設けられていた。武庫川を外堀として総構えの形式をとっていたと思われる。 三田の城下町・陣屋町の形成は、寛永10年(1633年)の九鬼久隆の三田入封により市街地の形態を整え始めたとも伝えられているが、九鬼氏以前の松平氏・有馬氏・山崎氏時代から徐々に形成されたとも考えられる。万治元年(1658年)には三田村より「三田町」として分離され、桶屋町・新町(福井町)・北町西組(鍛冶屋町)・北町東組・本町西組・本町東組・南町西組(裏町)・南町東組(裏町・戎町)・足軽町・湯山町の十丁町として発展する。さらに、その周縁が町場化し、四ツ町・河合町・新地の三丁が形成されていく。城下の入口(三田村口・京口・寺村口・狭間口・天神村口・三輪村口・田中村口)には、それぞれ木戸が設けられていた。 「三田御館指図」については、その史料的性格について検討の余地があり、当該指図に示されるものが実在したものであったかについても検証が必要である。 近世三田城時代の石組み井戸跡 兵庫県立有馬高等学校の南側にある内堀跡 兵庫県立有馬高等学校のサッカー場/北側の崖 空堀近くにあるもう一つの井戸跡
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城郭
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近世城郭としての鷹取城は、南北約100メートル、東西約80メートルほどであり、小規模なものである。しかし城郭は上下2段の曲輪で構成され、虎口は四ヶ所に設けられ、全周を石垣と櫓で囲い、その規模の小ささの割には異例というほどの防御設備で固めており、さながらトーチカを思わせるような鉄壁の要塞であった。
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城郭
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数々の歴史がある太田城であるが、城郭に関して和歌山駅から徒歩7分という位置にあり、都市化が急速にすすみ今はみる影もない。来迎寺から北東に200mのところに大門川にかかる大門橋がある。ここに和歌山市指定文化財に指定されている大門があった。そこからさらに北東100mの所に「夢の浮橋」があったと言われているが、現在は埋もれてしまったのかその跡すら不明である。この「夢の浮橋」は太田左近が橋が浮いた夢をみたので、羽柴秀吉軍が水攻めで来ることを悟ったという伝説にちなんで付けられた橋名であった。 また「太田・黒田弥生遺跡発掘調査」で太田城の堀跡と思われる遺構が五カ所発見され、室町時代の皿やすり鉢、また鉛製鉄砲玉3個も見つかっている。しかし、多くは住宅地下の遺構の為、全体像の把握は困難である。来迎寺には太田左近の奥方との指摘もある「砂の墓」もある。昭和初期には、第二次太田城の戦いの堤防跡が約20ヵ所残されていたが、今はほとんどが消滅し出水付近に残っているのみである。
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城郭
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飯野平城(大館城) 長友館:四ツ倉駅から山側に位置。 白土城 岩城四十八館
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城郭
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城郭そのものは土の中に埋もれ見た目には姿を消したが、宮津市立宮津小学校に馬場先御門の太鼓門が残されている。 2004年(平成16年)の平成16年台風第23号による大手川の河川改修をきっかけに城壁復元に取り組み、2010年(平成22年)に完成した。併せて宮津城の太鼓門も宮津小学校裏門から正門に移築された。また、京都府与謝郡与謝野町の愛宕神社拝殿は、宮津城内にあった殿舎の玄関を移築した唐破風の建物である。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 23:33 UTC 版)
一の曲輪・二の曲輪・三の曲輪・北の曲輪・大手曲輪・出丸曲輪・池曲輪・長尾丸があった。また平段丘の城周りには池が多くあった。 堂洞掻上城の名の通り、土を掘り、盛り上げた地形を活かした城である。 本丸には「天守構え」があったと軍記物『信長公記』に記述がある。天守に類似した建物の存在を推測する必要があるとも指摘されている。 堂洞城は、北の加治田城に開けており、加治田城を見張り、攻撃の付城として臨時に築城された城であるとされる。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 08:28 UTC 版)
中世までこの地は太田川河口の干潟であった。応安4年(1371年)今川了俊の紀行文『道ゆきぶり』には「しほひ(潮干)の浜」として登場する。広島県教育委員会の資料によると、中世以前の遺跡・埋蔵文化財は発見されていない。 戦国時代末期、毛利輝元は平野部に城と城下町を一体化して築き領国の政治・経済の中心とすること(近世城郭)を決める。当時「五箇」(ごか、五ヶ村とも)と呼ばれた寒村であったこの地に天正17年(1589年)築城を開始、慶長4年(1599年)落成した。「広島」が名付けられたのはこのときである。のち城は福島正則、次いで浅野長晟が入場し、幕末まで浅野氏が統治した。 「広島城」も参照 Clip 『正保城絵図安芸国広島城所絵図』 つまり近世においては広島城の城郭内に当たり、幕末まで機能し続けた。現在の基町の範囲内では、本丸・二の丸・三の丸(内大手郭)・外郭の大手郭と西の郭に当たる(大手郭の一部・北の郭・北の丸は現在の白島と上八丁堀)。外堀つまり現在の町境には二重櫓が築かれ、特に太田川(現旧太田川)を外堀に位置づけ隣接する西側沿岸にも築かれていた。川には防衛上の観点から架橋制限が行われていた。 中枢部であった本丸・二の丸には厳重な警備がしかれ誰でも簡単には立ち入ることができなかった。三の丸には一族の大名や重臣が住んでおり外郭で城下町と隔離していたものの、日中であれば藩士でなくても入ることができた。 明治時代の初め、本丸・二の丸・三の丸と大手郭を「南町」、白島側の北の丸・北の郭を「北町」、川側の西の郭(小姓町)を「西町」と称していた。1887年(明治20年)南町・北町・西町が一緒になり広島開基の地に因んで「基町」と名付けられた。
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城郭
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城跡は瓜巣川の北岸にある標高778メートルの山頂にある。主郭は山頂にあり、西、北、東の三方向に伸びる尾根にも曲輪がある。四面は断崖の山で囲まれている。東尾根を降った所には馬止場がある。主郭の西側から南へ伸びた尾根の南端に堀切があり、尾根を降った辺りには広瀬氏の居館がある。 城の総長が南の出丸より北宇津江まで1キロメートルにも及ぶ広大な縄張りの城である。高堂城と広瀬城を合わせると大城郭である。石垣(石積)・郭(曲輪)・堀・切岸・土塁・狼煙台・物見台跡が遺っている。 岐阜県指定史跡であり、石碑、説明板が設置されている。城址標柱が建てられ、ステンレス製の碑の裏に、説明文とQRコードが記されている。 高堂城の峰続きに、寺洞砦Ⅰ・寺洞砦Ⅱ・蓬ヶ洞砦Ⅰ・蓬ヶ洞砦Ⅱ・オトシ砦が続き、出城として広瀬城がある。
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城郭
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城郭の形式は輪郭式平城で、本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸、東の丸、桜の馬場、西の丸が時計回りに配置され、3重に堀が廻らされていた。かつては城壁が瀬戸内海に直接面し、外濠・中濠・内濠のすべてに海水が引き込まれ、城内に直接軍船が出入りできるようになっており、水軍の運用も視野に入れ設計されていた日本初の本格的な海城である。縄張りは黒田孝高(よしたか)が手掛けたといわれ、細川忠興、小早川隆景、藤堂高虎などによるとも言われている。高松城をはじめとする海城は海上封鎖が難しく、水攻めや水断ちといった攻城手段が使えないため戦争時の篭城や物資の搬入、脱出ができ、近世の縄張りとしては有利であった。 しかし、版籍奉還以後廃城になった高松城は明治以降の都市化の波に呑まれ、現在では海側に新しい道路(水城通り)が通り、ほとんどの建物が取り壊され、内堀と中堀の一部を除いて埋め立てられている。最盛期には66万m2(約20万坪)あった城の総面積も、現在では約1/8の7万9587m2(約2万4千坪)にまで減少した。しかし現在でも外堀と内堀には海水が引き込まれており、往時の名残を残している。そのため、堀には牡蠣などの貝が生息し、養殖の鯛も放流されている。 高松城と城下町 絵屏風 高松城・城下町 模型 青線が現存する縄張りで、赤線が現存しない縄張り 高松城周辺
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城郭
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養宜館の存在期間は南北朝時代-戦国時代ということになっており、中世城館としては後期に属するが、現存している遺構から手が加えられないとすると、養宜館は中世初期の平地単濠単郭方形館をそのまま使用されていることになる。しかし、ここが細川氏代々の守護館とすると、長方形の平地単濠単郭方形館だけではなかったと思われている。土塁上には櫓台らしきものが描かれた絵図もあり、曲輪内の各所にも改良が加えられ、それでも防備が不十分の面は他の場所と連携をはかり、戦国時代に適応した配備がなされたものと考えられている。 館内にある水田間にはいくつかの段差が確認でき、これに伴いいくつかに区分、分割されていた可能性が高い。ただ、現在の公民館周辺から北側、50m×100mほどの広がりがありこちらには段差がない。北側には祠が祀られていたことなどにより、この区域に居館の中心地があった可能性が指摘されている。土塁は東辺が完存し、北辺の大半、西辺北隅の一部が残されている。土塁の規模は高さ3m、基底辺幅は7-8m、上端部は1-1.5mになる。ただ、基底辺幅は両側から切り崩しがあるため、旧状は少し広いものと考えられている。堀に関しては1977年(昭和52年)まで東堀が完存し、高さ2m以上、幅7-8mという規模であったが、農道建設に伴い破壊されてしまった。その他には、城内には井戸、南側には竜神が祭られている湧水があり、養宜館周辺は豊富に水が湧くことが知られている。 現在養宜館の遺構としては土塁だけである。しかし、北側には「武田土居」、「中野土居」、「弥五郎土居」等、西側には「奥野土居」、「喜兵衛土居」、「上野土居」等の小字名が集まっており、養宜館を中心に500mの範囲に点在しており屋敷町の構成を想像できる。侍屋敷や町家も取り入れた惣構えが完成されていたと推察されている。 江戸時代に書かれた史料によると、「中八木館構にて堅固ならず故に事有ん時柿の木谷、上田の両峯に物見狼煙を置守護職は成相に本陣を構へんとの企也」(『味地草』)とあり、養宜館は防備面で不備があり、館構え不完全さを補うために詰めの丸があったと記されており、馬廻りの地や他の城郭を紹介している。養宜館の南側には三つの山が壁を作っており、成相川の右岸東側には前山城が、その奥、川を挟むように西側に上田城が、東側に柿の木谷城がある。上田城は山頂部に数段の曲輪台があり、北方からの侵入に備えていた。柿の木谷城は、山頂東端部に主郭があり、西方向に曲輪が連続している。これら山城を養宜館の別峰城郭群として位置付けるならば、大規模な城郭配備であったと考えられている。 居館内部は、江戸時代には阿波藩の直轄地となり立ち入りが禁じられ良好に景観が保存されていたが、近代になると民地となり開発があり破壊が進んでしまった。 東側土塁 東側虎口跡 北側土塁 竜神が祭られている湧水
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城郭
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山科本願寺がどのような寺院、城郭であったかについて、天文元年(1532年)8月24日『二木水』の条では 「 四、五代に及び富貴、栄華を誇る。寺中は広大無辺、荘厳ただ仏の国の如しと云々、在家また洛中に異ならざるなり、居住の者おのおの富貴、よつて家々随分の美麗を嗜む 」 —二木水 と記載されており、「仏の国」と言わしめる程の壮大なものであった。 山科本願寺やその周辺では各年代の遺構が発掘されていたが、築城直前は荒野になっており、京に近く広い敷地を欲していた蓮如にとっては山科はうってつけの場所であった。規模は南北に1km、東西に0.8kmに及ぶと推定されている。
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城郭
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城郭に関しては、「東面七拾八間二重堀・西面九拾三間三重堀・南面百弐拾間三重堀、外に横二十五間、長百五十間貯池有、北面百三拾二間三重堀、外に大川有、本丸三拾五間四面云々」(『春生随筆』)とあり、本丸は約53m四方で、周りには濠をめぐらしていた。また同書に秀吉の紀州攻めの配置として、 秀吉の紀州攻め積善寺城の配置配置本丸大将本丸矢倉東矢倉西矢倉北矢倉南矢倉武将名出原右京 山田蓮池坊野原大部 知明院 長橋正知坊出田長寿院山下南ノ坊 西蔵院寿宝院 近木忠次郎熊取寿命院熊取大納言 とあり、5つの櫓にそれぞれの武将が配置され、常詰衆として360兵、増援軍として9140兵が城内にいたと記されている。1843年(天保14年)の『日根郡寺社覚』には安楽寺境内やその一帯が城跡と記されている。
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城郭
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本丸跡には現在NHKと民間放送のアンテナ施設が建っている。山頂の平坦地は南北に細長くやや「く」の字形の地形をとっている。また本丸の南側には、現在の山道とは違う城下につづく大手道があっと考えられ、本丸への虎口には櫓門があったと推定される、幅約4m、長さ約5mの石段が残っている。石段の両翼には櫓を構えたと推定される高みが確認でき、位置関係により単独の櫓台と考えられる。本丸は長さ30m、幅115mあり、北東部には石垣が比較的よく残っている。二の丸は本丸より3m低く、本丸の南に位置する。二の丸は南北2つから成り立っており、北側は南北13m×東西15m、南側は南北16m×東西9mの平坦部から構成されている。また二の丸には東西6.5m×南北3.4m×深さ1mの貯水槽が本丸櫓台下に確認できる。二の丸西側には約18mの石垣が残っている。三の丸は山頂の最北部にあり、約25mのほぼ方形の平坦地があり、東側斜面に石垣がある。本丸から三の丸までは広い城域があるとはいえず、森可成以下、複数の城将、城兵が駐屯していたとなると狭いと考えられている。 『図説近畿中世城郭事典』では、「この城は、主郭全体に建物が建て込む縄張りであったかもしれない」としており、曲輪の内部に建物があったのではなく、曲輪の端まで建物があった可能性を示唆している。また三の丸の北側に、櫓台と帯曲輪からなる小さな曲輪群があり、この曲輪群が『信長公記』に記されている「端城」と考えられている。宇佐山城は、放送施設建設に伴う発掘調査が1968年(昭和43年)と1971年(昭和46年)の2回実施され、本丸から「瓦」が出土している。
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城郭
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福住中定城は、主郭と主郭から南東部に付属する2つの曲輪が基本構造となっている。自然の地形を最大限利用して防御性を高めるならば、福住中定城付近に適当な場所は沢山存在している。それでもリスクを背負いながら、当地を選地したのは、防御性以外の理由が高かったものと推察されている。 主郭の北側には高さ3m、幅約7mの土塁をめぐらしている。この土塁の西側先端部分に北側へ約3mの張り出しがある。この張り出しは「折」と呼ばれ、北側から攻め登ってくる敵軍に対して櫓を建て横矢を意識したものと考えられている。「折」は室町時代ではなく、戦国時代以後の遺構と考えられている。この張り出しの下部は堀切となっており、この堀切の西側は、張り出し構造と合せて屈折している。東側はそのまま竪堀となっており、現在は埋没しているが、当時は主郭東側の防備を固めるために横堀があったようで、現在も断片的にその痕跡が伺える事ができる。 主郭部分の北側半分は平坦地で、方形館の様相となっており福住中定城の中枢部であった。主郭の虎口は南西方向にあり、その内部側が武者溜となり方形館より一段高くなっている。主郭の南西部にも張り出しがあるが、こちらは削平が不十分となっている。主郭虎口の前面には城門があり土塁が狭まった部分で、そこから城外に出ると道は左右にわかれる。主郭と南東部に付属する曲輪は、現在道がつけられているが、これは破壊道で当時は道が無く、堀底道を隔てて木橋などで連結されていた。南東部の付属曲輪は、主郭の虎口の前面にあり、かつ大手、搦め手を監視する位置にある。主郭を防御する前衛的な曲輪と考えられている。 このような城郭の特徴から、丘頂を削平し、方形館を中心としたが周囲が十分でない応仁の乱期の城郭と、後に周辺を空堀で囲み、曲輪緑辺の土塁をつけた戦国期の普請と、二段階から成り立っている。また福住井之市城も、応仁の乱期と戦国期の二段階の改修が認められている。
※この「城郭」の解説は、「福住中定城」の解説の一部です。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 07:18 UTC 版)
周囲は耕地に囲まれ、東西の川に挟まれた立地にあり、伝承では東西八十五間(約155m)、南北百二十間(約218m)の規模で、単郭ではなく、御城(主郭)・中城(二の郭)がある複郭の城で、現在も小字孫字名として残っている。 但し遺構については、ほとんどが宅地化されてしまい、現在は一部土塁と横堀となる空堀が残っているのみである。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/26 16:59 UTC 版)
本丸部分は南北66m×東西46mで、ここから信貴山城の眺望がよい。この本丸曲輪の北のコーナー部分には、信長公記に記載されている天守に想定するような櫓が建設されていた可能性が指摘されているが、「安土城以後の新しい城郭の所見をもとに類推した記載であるかもしれず、類似のものがあったとしても、その実態は簡単な隅櫓の類に止まるのではないか」と指摘されている。本丸部分とその周辺の帯曲輪が水平に削平されている。 本丸とその東側にある出曲輪の間には、大堀切(空堀)がありこの片岡城の特徴にもなっている。箱掘になっており上幅17m、底幅11mで、途中土橋などがあり判別できにくいが南北に180m以上に渡ってある。規模と形態から見て、片岡城でもっとも新しい防御施設であると見てよい、とされている。大規模な遮断性の高い防御ラインとなっている。 本丸曲輪の南側にも曲輪がある。東側は削平が不十分であるが、西側は明確に削平している。傾斜部分も含めると東西、南北とも50m以上あり本丸曲輪と同じ規模になる。西縁には土塁がありこの内側に溝状に掘られている。これは後世の畑地開発に伴うものでなければ、不可解な構造となっている。この土塁近くには小さな竪穴があるが、この南曲輪は、以前畑で竪穴は戦時中に掘られたもので、片岡城の遺構ではないと思われている。この南曲輪にも尾根続きを遮断する堀切がある。上幅が14m、底幅6mの箱掘で、本丸東の大堀切と同時期に作られたのではないかと思われている。 階段曲輪がある北側、本丸曲輪の東側にも曲輪がある。この曲輪の土塁が切れていた部分があるが、これは簡易水道を建設した時に崩したものである。この尾根伝いに曲輪があるが、こちらも落差1.5mの堀切、その先にはこの曲輪の虎口がある。また周辺にも曲輪があり、一部は櫓台として機能していた可能性が指摘されている曲輪も存在している。 片岡城があった城山、丘陵 戦時中に掘られた南側曲輪の竪穴 南側曲輪の堀切(登頂部より撮影) 階段曲輪(現在は宅地化されている) 本丸と本丸周辺の帯曲輪が片岡時代のもので、大堀切や他の堀切、その他の曲輪は松永久秀時代に築城されたのではないかとされる。堀切と土塁の直線的な組み合わせ、大堀切など戦国時代末期にならなければ現れそうにない手法であると指摘されている。松永久秀は信貴山城、多聞山城の天守等「城名人」と言われ、また織田信長の家臣となってからは織田方の築城技術の交換が行われ、さらに複雑な曲輪の配置が実施されたと思われている。片岡城では、大堀切を改修したことで、本丸と南側曲輪を一帯となって防御することで、多様な作戦展開が可能になったと考えられている。
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城郭
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城郭は北東から南西へ延びる尾根の最先端部に位置する。尾根の最長部を中心に曲輪は3つあり、これを取り囲むように小規模な曲輪が配され、それらを繋ぐ通路があった。斜面には、堀切と石垣が検出された。石垣は砦斜面を全周するものではなく、曲輪の平坦面の高さまで積み上げたものではない。曲輪留め程度の石垣であったと思われるが、「心理的な防御の機能も果たしていたと思われます」と曲輪留め以外の役割も果たしていたと解説されている。主要3曲輪の一つに礎石建物とそれを囲む土塁が出土した。建物の礎石は火熱をうけ、火災を被ったことが確認された。また土壁が大量出土し、礎石は建物に伴うものと考えられている。中央の曲輪が一段高く、両側にある曲輪が一段低くなっている。建物があった曲輪は一段低い部分にあたる。発掘調査により、礎石建物があった曲輪が最初にできた曲輪で単郭構造の砦から、2つの曲輪が並列して改築された変遷をもつ。最長部の曲輪と礎石建物があった曲輪からの出土物が多く、住居を伴う建物が両曲輪であったと考えられている。
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城郭
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片倉城跡 - 片倉町。空堀・土塁等が残り、15世紀後半の中世城郭の形態を今に伝える。東京都指定史跡。 滝山城跡 - 高月町。大石定重築城。その後北条氏照の居城。規模の大きさや保存状態の良さでは日本でも有数の城跡。東京都立滝山自然公園の一画。丘陵斜面を覆う約5千本の桜が有名。国指定の史跡。 高月城跡 - 高月町。 八王子城跡 - 元八王子町。北条氏照居城であり、関東屈指の山城である。国指定の史跡。日本100名城。 ■右列に画像あり 初沢城跡 - 初沢町。東京都指定史跡。 浄福寺城跡 - 下恩方町。 小田野城跡 - 西寺方町。国指定の史跡。
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城郭
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龍王山城は、龍王山に築かれており、規模は南北に1.2kmに及んでいる。南城の最高所の標高は585.9m、北城の最高所は60mほど低い位置にある。どちらも戦国期末期の改修が認められるが、全般に北城の方が新しい。1540年(天文9年)の前後の十市遠忠の居城時代と、永禄時代-天正初年の松永方の支城時代の2つのピークが想定される。松永時代には、信貴山城、多聞山城、鹿背山城、そして龍王山城の四城が拠点城郭となっていた。登城ルートは、萱生道の2道、中山道、そして釜口道の計4ルートがある。
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城郭
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国宝姫路城が播磨平野の中心にあるが、黒田如水や羽柴秀吉(豊臣秀吉)の時代は規模の小さな城であった。他にも明石城、龍野城、三木城、御着城などの城跡がある。
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城郭
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兵庫城は、湊川の支流が縦横に走り天然の堀の役目を果たし、前面は港を持つ防御の拠点となった「海城」として整備したものと考えられている。「(一五八一)に花熊城の石材などの一部を用いて天守閣を備えた城を築いた」とあり、天守が備わっていた可能性を指摘している。 兵庫城の入り口柳原総門は兵庫の町の北部、扇の要と言える場所にあり、柳原総門を包み込むように、福海寺が配置され枡形を構成している。 『摂州八部郡福原庄兵庫津絵図』によると絵図の中央に堀で囲まれた「御屋敷」があり、本丸跡ではないかと考えられ140m2の広さがあった。堀の幅は3mで、野面積みの石垣と土塁で防備していたと推定されていたが、2012年8月の遺構発掘で場所によって9-18mの幅があったと確認された。城の北側には城下町が形成されており、御同筋には多くの社寺が配置され寺町となっていた。兵庫津の全体として南北2.7km、東西700mからなる城塞都市であった。
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城郭
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この城は、西隣にある東山新城の城郭部分と将軍山城の城郭部分がどの範囲なのか、議論になっている。また幾度も焼失と修築を繰り返しており、当初の東山新城の城郭部分が修築後には将軍山城に組み込まれ一体化したり、東山新城の曲輪の一部では修築の痕跡がなく放置され複雑にしている。遺構の年代別新旧の判断基準は土塁や空堀の構造をあげ、「単なる遮断・防御用」、「防御の土塁・攻撃の土塁」、「攻撃ポイントが確定している」等の視点で一定の評価ができるとしている。これらに基づき、山頂部分の曲輪群について「東側の長大な空堀を設けている。この空堀と主郭との間には数段の削平地があるが、防御的色彩に欠け、居住的な空間と考えられる。また主郭の南方尾根にも数段の削平地が認められるが、土塁も認められず、削平の配置にも規則性に欠け、切岸も甘い。これらのことより、この瓜生山山頂部は時代がやや古いものと考えられ、天文十五~六年の義晴・義輝の普請であろう」としている。 しかし『図説近畿中世城郭事典』では、『図説中世城郭事典』の見方と別の見方をしている。山頂部分の曲輪群について「東側に長大な箱状横堀・坪堀を設け、さらに二本の横堀・馬出機能を果たす小曲輪・土橋・二ヶ所の長枡形虎口と連係した一連の複合防御パーツの配置から、むしろ「強固な防御装置群を構築している」と評価する」とし複雑な曲輪をしており、結論として「連係した防御パーツ群を評価すると、元亀元年の織豊系普請であると判断する」とし、山頂部の居住空間は義晴・義輝時代のままとしながらも、周辺の曲輪群については明智光秀時代に修築された可能性を示唆している。 また瓜生山の南方600メートル、標高212メートルの地点を中心に曲輪群が4つある。このうち3つの曲輪群は東山新城と呼ばれ、若狭国の武田氏が築いたとしているが、1531年(享禄4年)以降の記録には表れてこない。この3つの曲輪群は「瓜生山以前の享禄の城とは考えられない。現存遺構は享禄の東山新城をある時期に大幅改修したものか、東山新城を別のところに求めるかであろう」としている。しかし、この3つの曲輪群の中にも「土橋と大竪堀」による複合パーツ、枡形パーツなどの分析から、織豊系普請の遺構が確認できるとし、東山新城と呼ばれているかなりの部分が明智光秀時代に改修されたとしている。但し部分的な曲輪には足利義輝、六角義賢の改修遺構も存在している。 「現存遺構には時期差が認められ、天文~元亀に登場する北白川城、将軍山城は一定の場所ではなく、京北郊の北白川山地に随時築かれたものだったのであろう」と結論付けられている。
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城郭
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城郭
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城郭
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淀古城は水陸交通の要街として槇島城と並ぶ山城国洛南の二大軍事拠点の一つであった。また西国方面の海産物の集荷市場、魚市場があり、対岸の山崎城と並んで京都の要害で、淀古城の東側には現在は存在していない巨椋池が広がっていたと思われている。 1890年(明治23年)の『測量の仮製図』によると、堀跡と納所集落の東側に土塁が記載されていたが、現在跡地には、宅地化、耕作地、京都市立納所小学校が建っており、唯一妙教寺に石碑が建つのみで、北城堀や小字城堀という地名が僅かにその面影を留めている。淀古城については数多い歴史があるが、近隣の淀城と違って城郭は不明な点が多い。天守に関しても詳細は不明であるが、『駒井日記』には淀古城の天守が存在していた事が記載されている。淀古城が廃城の後、多くの資材は伏見城建築に使用されたようである。またその後淀城築城の際にはその伏見城から資材が流用された。
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城郭
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本丸には御殿(三層天守は落雷で焼失)、三の丸には藩の政庁が置かれた。 本丸 設備:御殿、土塁、濠、三層天守(落雷で焼失)、二重櫓3棟 現在は、本丸跡に「新庄城天守台跡」の碑。 二の丸 設備:土塁、濠 三の丸 表御門 現在は、石垣の一部が残り、「表御門跡」の碑(本記事右の写真(囲み概要の画像)も参照)。
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城郭
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田中という地名は、三田市には東本庄田中と下田中の二ヵ所ある。東本庄田中は森鼻氏の拠点であるので、田中城の戦いの記載がある『細川両家記』の田中とは、地形も考慮し下田中であると推定でき、田中城の戦い時点では有馬氏も細川澄元寄りであったと推察されている。江戸時代までは田中という名称だったが、明治時代になると他の田中地区と区別する為、「下田中」に改名された。現在の武庫川は昭和10年(1935年)から始まった河川改修工事でまっすぐに付け替えられていたが、当時は大きく蛇行し神明神社の南側を流れていた。字名に「城の内」「城の前」という地名が残っており、現在の神明神社の北側が推定地で方形居館が建っていたと考えられている。河川改修工事前は、曲輪や水濠も残っていたようだが、現在は完全に破壊され、城の面影が残る遺構は地上面に確認できない。
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城郭
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藤堂高虎が大規模に改修した時は、大坂城の備えとして西側の防備を固めた。これは、徳川家康が不利となった場合、この城で籠城する時に備えて、相当数の兵員を収容できるよう、細部の完備や美観を整えるより実戦本意に配慮した。藤堂高虎は伊賀忍者に命じ、58カ国、148城を密かに忍ばせ要害図を盗写させ、伊賀上野城を改修の参考にしたという伝承が残っている。 筒井定次時代の城を取り込み、大きさも約3倍となり7千坪に拡張した。筒井定次時代の本丸の西を拡張し、旧本丸と合せて新本丸とした。本丸の南には広大な外郭をつくり二ノ丸と呼ばれていたが、次第に名称も変わり東の高台と通称するようになった。東側の外堀は218間、堀幅12間、南側は488間、堀幅15間、西側は254間、堀幅12間、北側が17間、北の山下の土塁と堀は筒井氏時代のものを活用している。丸の内は高い禄の家臣の屋敷地となっていた。 本丸の西、内堀を隔てた台地、現在の三重県立上野高等学校のグランド付近が、藩主の屋敷、御殿と呼ばれている。城下町は外堀の南に置かれ、本町筋、二の町筋、三の町筋があり、三の町筋に家臣や住民の消費にそなえた商人町があった。三の町筋の南側に堀が作られる予定であったが、中止になり外馬場となった。これ以外に馬場の南一帯は外輪と呼ばれる侍町、忍町が置かれ、更にその南に鉄砲組足軽の長屋が置かれ、鉄砲町と呼ばれていた。忍町の南一端はかや町と呼ばれる農家があったが、次第に町が形成され東の枝町と呼ばれていた。 嘉永7年(1854年)6月に、伊賀上野地震があり伊賀上野城をはじめ城下町に大被害があり、城内の建物の多くが壊れ、石垣が所々で破損した。その後御殿、城代役所、武具蔵、米蔵をはじめ、東大手門、西大手門等、城として最小限のものが補修されたが、外郭の櫓は再建されず、倒壊をまぬがれた太鼓櫓と菱櫓が残るものとなった。 古写真 東大手門(現存せず) 西大手門(現存せず)/伊賀市上野図書館蔵 御屋敷(現存せず)/伊賀市上野図書館蔵 武具蔵(現存)/伊賀市上野図書館蔵
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城郭(日本の城)
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最後に完成した、完全な(天守が現存する)城郭建築:松山城(天守本壇が1854年2月落成) 最後に完成した、天守を有する日本式城郭:松前城(1849年幕府が築城許可。1854年9月完成) 最後に完成した、幕藩体制下の藩による日本式城郭:石田城(1849年幕府が築城許可、1863年6月完成) 最後に完成した日本式城郭:園部城(1868年に明治政府が築城許可、1869年8月に完成) 最後に完成した、藩が建築した城(稜堡式城郭):松尾城(1869年9月着工、1870年藩庁などが完成) 個人所有であった最後の城:犬山城(現存天守。旧城主の成瀬家所有であったが2004年より財団法人所有となる)
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城郭
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植村時代は、それぞれ3重の天守と小天守をはじめ、22基の櫓、5基の多門櫓、33棟の門、2900メートルの土塀、3600メートルの石垣、9の橋梁(きょうりょう)、5の堀切からなる山城であった。高取城は『高取町史』によると、近世的な改築は天正9年(1581年)から始まり、本多利久が朝鮮出兵より帰国した文禄2年(1593年)、そして植村氏が入封した寛永17年(1640年)ごろには基礎を築いたと指摘している。この植村氏が統治する約200年以上、大きな焼失や災害にあうことなく、部分的な修築がなされていたであろうが、旧状を保っていたと思われている。また『大和高取城研究』によると、当時は城の石垣を組みなおす場合でも、江戸幕府に報告し許可が必要であったが、高取城に関しては3代将軍家光より直々に、植村氏は三河国居城時の松平氏の古参譜代であり、山上にあることから年々破損も多いと思われるということで「一々言上に及ばず」と特別に許されていたようである。現状を維持する分には、容易に改修ができたと思われている。
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城郭
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『日本城郭大系』によると「吹田城がどこにあったのかは、議論の分かれるところである」としているのは、文献資料が希薄で吹田市では居館の発掘例がなく、ほとんどが字名を頼りに推察され、情報の少なさゆえに諸説ある。 『わが町すいた』によると「吹田村は水陸交通の要衝であり、村内には国人吹田氏のほかにも有力な国人・土豪が居館を構えていたことや、興亡・移転によっても居館跡の数が増したのだ」と記している。指摘されている吹田城は三ヶ所ある。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 16:22 UTC 版)
大手門、搦め手門、堀を設け、西、南、北は石垣を巡らした。東側には空堀があったとも伝わっており、単郭式ながら近世陣屋城として防備している。城内は御殿、官宅、土蔵4棟、御納戸、堂勤室、札引換所、祝日来客室、武術稽古場、馬部屋、弓場、獄屋、取調所などが十数棟配し、北隅には三層の隅櫓もしくは楼閣を備えていた可能性が指摘されている。「新に縄張ありて追手搦手の口を定めて、或は裏手には堀を構へ、四方には石塁を高く築き、追手、搦手に大門を構へ、或は殿舎、楼閣に番匠等人力を尽しければ、大廈の構へ魏魏として美麗を尽し高塁の上には高塀を掛白土を以是を塗、矢間、鉄砲狭間を構へ」(『能勢物語』)と記している。 地黄城が記載されている『陣屋遠屋図』によると、城壁は土塀を巡らし、大手には門があり、城内を塀により4つに区切り、南東部に主要な建物が見られる。上知と共にこれらの建物は破却され、門や土蔵などは民家に移築されたと言われている。また近隣にある清普寺の山門と本堂は、地黄城の武家門と大広間の遺構と言われている。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 16:23 UTC 版)
原田城は、豊中台地の南西部の丘陵にあり、平野を一望できる位置に立地する。北城は南北140m、東西120mあり、[ヨ]字状に外堀が巡らされている。有岡城の戦い時には幅15m、深さ5mの内堀があり、大規模な改修を行い守りを固めた。主郭の内側には1.5m-2.8m、幅5-10mの土塁が現在も残っているほか、東と南側にも土塁の痕跡が確認できる。また発掘調査からは、礎石痕や柱穴が確認できており、土豪の居館にふさわしい屋敷が建てられていた可能性がある。また3度にわたる焼土層が確認できていることから、火災にあったことが考えられる。 原田城の土塁跡 原田城の土塁跡 南城の中心地(原田会館)
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城郭
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茨木市は京阪神地区の衛星都市で、茨木城はその茨木市の中心地にあり、宅地化され遺構らしきものは存在していない。 正確な城郭は、小規模な発掘調査しかできていないため不明で、殿町、旧本丸町、佐助屋敷などの旧町名より推測され、推定地として東西220m、南北330mの範囲で大城ではなかったかと思われている。茨木神社の石垣も茨木城の石垣を移築されたと言われている。
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城郭
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土塁、郭、堀、虎口、櫓台が残る[要出典]。城地図にて櫓台は北櫓台と南櫓台がある[要出典]。 2017年(平成29年)度の飛騨市教育委員会による試掘調査では石垣が検出されている。石垣の構築法が金森氏による織豊時代の石垣と異なることから、姉小路氏による築城か、後の三木氏による改修があった可能性が推定されている。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 16:21 UTC 版)
豊地城の城域は、東西約400m、南北約200mを有している。東側を大畑川、西側の中谷川、北側を東条川の三方を川によって区切られた要害の地であった。東条川の南岸の河岸段丘に位置し、標高は70m、東条川からの比高は8mにある。本主郭(60m×70m)の南側には、基底部幅11m、高さ5m、長さ50mの土塁が残っている。これは東南600mに位置する屋口城から見透かされないための配慮であり、土塁を限りなく高くしたと考えられる。この土塁から東100mの地点にみやみ保育園の東側にため池がある。もともと南側でL字に折れて西に向いていた。外堀を改修したため池で南側の防御ラインとなっていた。昭和55年(1980年)から56年(1981年)の期間、兵庫県教育委員会と小野市教育委員会の共同で2回にわたって発掘調査を行った。この時に溝、柱穴、石敷などの遺構、埋甕、陶器片、軒丸、軒平瓦、丸瓦、平瓦、一石五輪塔などの遺物が出土した。またこの時の発掘調査では弥生土器なども多数出土しており、城郭としてだけではなく複合遺跡と考えられている。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/07 15:45 UTC 版)
福知山城は、明智光秀が築造後、その後多少の修築は行われたが、有馬豊氏時代に完成したものと推定されている。 丘陵の最先端部の一番高い所、標高35m、比高約25mに本丸を置き、その西に二ノ丸、更に西に伯耆丸、内記丸と続く四つの連郭式城郭を形成していた。全体として東西約600m×南北約150-300mとなっている。本来は本丸と二ノ丸は繋がっていたが、明治時代に二の丸が削り取られてしまい、また伯耆丸と内記丸間も繋がっていたが、福知山線の建設に伴いそれぞれ独立丘陵となってしまった。その他曲輪として北側には左門丸、対面丸、侍屋敷、大膳丸、南側には、泉水、蔵屋敷、馬屋、鷹部屋、庭園などを設け、周囲に二重、三重の堀を巡らしていた。城下町としては、北方に鍛冶町、紺屋町、鋳物師町、呉服町、京町などの町家、川沿いには寺町、南方に侍屋敷を配し、東北には斜めに由良川が流れ、西、南に外堀が巡らされている。いわゆる惣構えとなっていた。 稲葉氏時代の絵図には、本丸と二ノ丸の間は「カラホリ」と「橋」を記している。この時代は本丸と二ノ丸は分断されていたと思われているが、稲葉氏時代の絵図以外には見られないので、それ以外は埋められたものと考えられている。二ノ丸から西の伯耆丸は有馬豊氏の弟有馬重頼(有馬伯耆重頼)の館があったところである。 本丸と二ノ丸にはそれぞれ御殿があったが、城の中央に位置し規模の大きい二ノ丸御殿が中心施設であったと思われている。尚、現在の復元天守へ登るための通路は、本丸に移された朝暉神社への参道として後に作られたものあり、本来の城道は現在住宅地として利用されている二の丸側から通じていた。 遺構の調査で転用石材の使用や天守台周辺のIからIII期にわたる改修が確認されており、I期が光秀の支配期と推定されている。
※この「城郭」の解説は、「福知山城」の解説の一部です。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 01:25 UTC 版)
三木城は堅城であるが、三木合戦以前にも幾度か落城の憂き目にあっており、その都度拡張し防備が強化され、日本有数の堅城になったと思われている。現在の三木城跡には当時をしのばせる物は非常に少ない。別所長治公400年を記念してコンクリートの塀が築かれたが、これは近世城郭の塀で、少なくても別所長治時代の塀は土塁と塀を連携したようなものであったと思われている。また本丸の西側の崖には腰曲輪のようなものがあったがコンクリートで固めてしまっている。
※この「城郭」の解説は、「三木城」の解説の一部です。
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城郭
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小泉城は大和小泉駅の西北約600mの台地上の先端部に建っていた。台地の東側は湿田で、更にその東側には富雄川が流れている天然の要害の地にあった。主郭部分は小泉城の西側にあり、150mの長辺で内堀に囲まれており、この内堀は1673年(延宝元年)に銀4貫目で完成したと『旧記』には記されている。この頃になると小泉城はほぼ完成され、外堀、薙刀池、お庭池に取り巻かれ、その中に家中の屋敷があり、内堀の内側には藩主の居館があった。 薙刀池 お庭池 小泉城石碑への入り口(主郭跡:他より一段高い台地にある) 片桐城の石碑(小泉城の別名) 小泉城は小泉陣屋とも呼ばれているが、『ふるさと大和郡山歴史事典』では「城郭としての構えを十分に備えた大規模なもの」として、城下町は富雄川沿いの南北の並びに整然と出来上がっており、調練場も城外につくられた。これらは『小泉城復元地図』に記されており、今日の地割にそのまま残っている。 西側にある外堀跡 南側にある外堀跡 南側に部分的に残っている土壁(この奥が主郭になる) 小泉城の石碑 大手道は金輪院前にある鈎の手から西へ登る道が当時の大手道であった。門は3ヵ所設けられており、北、西北、南にあり、そのうちの1つは小泉神社の表門として残っている。この門は冠木門、高麗門と呼ばれるもので、この門が移築前と変化していないのであれば、その扉は透門形式で、外から見られやすい弱点がある。『ふるさと大和郡山歴史事典』では「内部を桝型形式もしくは通路を屈折させて遮断していたものと思われる」と記載しており、透門をカバーしていたのではないかと解説している。
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城郭
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「城#日本」も参照 戦国時代から安土桃山時代にかけて鉱山技術・建築技術・築城技術・造船技術などが進歩して、軍事色が強い山城から平山城へ移行した。城下町の発展の商業化で城主の政治統治や商人への経済支配を重視する平城へ移行した。織豊系城郭と呼ばれ、野面積み石垣が用いられるようになり、天守を持つ城郭建築が主流となる。 犬山城:現存(国宝) 安土城:本能寺の変後に焼失 松本城:現存(国宝) 大坂城:大坂の陣で焼失、現在の遺構は江戸時代に造られたもの 丸岡城:現存(国の重要文化財) 伏見城:江戸時代初期に廃城。御香宮神社表門が遺構として伝えられている。 聚楽第:豊臣秀次失脚時に破棄。大徳寺唐門、西本願寺飛雲閣が遺構として伝えられる。 佐和山城 竹田城 名護屋城 姫路城:現存(国宝・世界遺産) 倭城:文禄・慶長の役で朝鮮半島に築かれた城 蔚山城 西生浦城 順天城
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城郭
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勝龍寺城の主郭部分は東西120m、南北80mの長方形をしており、東、北側の幅12mの水堀を残している。また東、西、北の三面には土塁が残っている。西側の土塁は高さ10m、幅5mと大規模なものである。南側の土塁、堀は消滅してしまったが大正11年(1922年)の地図には記載されており、主郭部分を堀と土塁が巡っていた。またこの主郭の西側には「沼田丸」という曲輪があった。これは細川藤孝の妻の実家であった沼田氏の屋敷があったのではないかと伝えられている。また大正11年の地図には沼田丸周囲にも堀が描かれていた。現在は勝竜寺城公園の駐車場がある。それ以外の曲輪として、 松井屋敷 米田屋敷 神足屋敷 等があった。主郭部分より北東に200mの地点に神足神社があり、そこから南側に東西に土塁と空堀がある。この空堀の中央部分には土橋が架かっており、この土橋に対して西側土塁が張り出した部分が、横矢がかかる構造となっている。大正11年の地図には、この土塁跡からJR京都線まで続いており、更に北側には並行してもう一本土塁があり、勝龍寺城の北方防御であったと思われる。『米田文章』にある元亀2年に細川藤孝が改修した「外二重堀」とは、この土塁跡の遺構を指すと思われている。主郭部分の南側は現在住宅地が密集しているが、大正11年の地図には堀や土塁らしきものがあり、「城郭の一部であったと推定できる」とされている。勝龍寺城は永正時代までは方形単郭館であったものを、元亀2年に細川藤孝が大幅に改修したと考えられている。 元亀4年(1573年)6月6日付の里村紹巴書状(橋本家文書)に、勝龍寺城の「天主」において細川藤孝・里村紹巴が両吟連歌興行を行ったことが記されており、文献から安土城築城に先行する数少ない天主が存在したことが明らかになった。 また、天正2年(1574年)6月17日には「殿主」において、三条西実澄(実枝)から細川藤孝に、『古今和歌集』の解釈を中心に、歌学や関連する諸説を秘伝として師から弟子へと伝える「古今伝授」が行われるなど、勝龍寺城の天主は文化的な交流の拠点となっていた。 現在石垣は北門の一部に残るのみだが昭和54年(1979年)の発掘調査で石仏二体と石材数個、また大量の栗石が検出され、この発掘調査以外からも勝龍寺城の大半が石垣によって築かれたことが推定されている。また虎口部分が枡形虎口となっていることも明らかにあり、織豊系城郭であることが明確になっている。
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城郭
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坂本城は歴史上重要な役割を果たしていたが、ながらく城の位置や構造については不明となっていた。しかし1979年(昭和54年)に実施された発掘調査によって一定の構造が明確になってきた。
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城郭
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この山城は大きくわけて、雄岳部分とその裾の扇型に派生した部分の2つからなる。曲輪の数は110以上あり、奈良県下最大規模の中世城郭である。 『和州信貴山古城図』では、空鉢堂が建っている部分を本丸、少し下ったところにある細曲輪が二の丸、ハイキングコースがある部分を三の丸と記載されている。 『探訪日本の城』によると、この本丸跡に4層の天守櫓が建っており、伊丹城(1521年)につぐ日本で2番目に建造された天守で、織田信長の安土城もこの天守を参考にしたのではないかと思われ、松永久秀は築城の才覚も備わっていたと記載されている。 信貴山城の天守については、『甲子夜話』に天守の始まりとして登場する。実際の遺構については確認されていないが、文献上の建造年では伊丹城、楽田城(1558年)に次ぐ。この建物の名称については「高殿(たかどの)」や「高櫓(たかやぐら)」と呼んだという。 雄岳部分以外に、扇型に派生した曲輪群がある。 立入殿屋敷曲輪 立入殿屋敷と松永屋敷を区切る壁面を上部から撮影 立入殿屋敷と松永屋敷を区切る壁面を下部から撮影 松永屋敷曲輪 信貴山城の「古城図」において「立入殿屋敷」や「松永屋敷」と呼ばれている曲輪は、その形状からも屋敷地であったと考えられる。『図説中世城郭事典』によれば、城域からは割られた石臼が発見されているが、これは石垣に用いられたもので、破城の際に崩された石垣の残骸であると考えられる。そして、それは「立入殿屋敷」や「松永屋敷」の存在した曲輪の壁面に設けられていたが、破城時に石垣を崩したのではないかと考えられるという。 山城は、多人数で攻め込む敵に対して、少数の人数で守る事ができる利点がある。しかし、信貴山城は山全体に曲輪があり、兵力が散漫になり拠点防衛出来にくい難点がある。『風雲信長記』によると、松永久秀は散漫となっていた防御施設を松永屋敷を中心に、木沢長政時代の曲輪を一部破棄し土塁、東側の階段曲輪、堀切など拠点防衛が可能なように大幅改修したのではないかと指摘している。 更に『風雲信長記』によると、上洛前、織田信長系統の山城築城技術に「横堀」という防御施設はなく「堀切」を使用していた。松永久秀は天理にある豊田城で横堀の防御施設を設けており、信貴山城でも松永屋敷の東側に土塁の防御施設があり、横堀と同様の効果があるとされている。横堀はそのまま鉄砲の射撃陣地となり、鉄砲出現以降重要な防御施設とされていく。織田信長系統でも、松永久秀の築城ノウハウを取り入れ、伊賀国の丸山城以降横堀があらわれてくる。しかし横堀は逆に城から討って出る時に邪魔になる弱点があり、虎口の効果を半減してしまう。そこで、天正時代になると虎口に一定の空間を造るなどして弱点を克服していく。このように織田信長系統の築城技術は、畿内もしくは松永久秀の築城技術を取り込んでいき、その弱点も改良していくが、逆にそのことが松永久秀の織田方での地位を徐々に弱体化していき、謀反の理由とも関係しているのではないか、と解説している。
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城郭
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越水城の跡地は、現在のニテコ池の南東、町名によると城山、桜谷町、満池谷町、清水町にまたがり、その範囲は南北200m、東西100mではないかと思われる。 「瓦林正頼記」によると、 堀 壁 土居[要曖昧さ回避] 矢倉 を備え、小清水の丘に「本城」と「外城」を築城した。外城には息子の六郎四郎春綱や与力、被官を住まわした建物があった。また越水城の南に位置する当時の西宮町とは城下町のような関係にある。
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城郭
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現在城跡は1 - 3m高くなっている本郭、二郭、三郭と呼ばれる曲輪と、光通寺が出曲輪だったと思われる部分が確認できる。それ以外に昭和後期までに東側に1か所、北側に3か所の曲輪があったが、現在は宅地化され破壊されてしまったようである。 本郭 3つある主曲輪のうち、中央の曲輪跡は字「城」と呼ばれており、東西約50m×南北約60mの方形で、北側の半分が1段高くなり、北端の段高は5mを有している。位置的に見て本郭だったと推定される。 二郭 本郭からみて西側に二郭がある。ここは字「天守」と呼ばれており、東西約25m×南北約100mの長方形で、北側は幅10mの道路で分断されているが、当初は繋がっていたと考えられる。西側には土塁跡があったと思われ、東南部には交野城の井戸跡と考えられる野井戸があったようである。 三郭 本郭からみて東側、10mの空堀が間をあけて三郭がある。東西約30m×南北約60mであるが、南側が宅地化されており、当初の姿を判断するのは難しいと思われている。 またこれ以外にも、光通寺の位置する地に堀がめぐらせられ、出丸、出曲輪の備えがあったと推察されている。 この主曲輪から北側には免除川が流れており、おそらく外堀の役割を果たしていたと思われ、交野城の北限と考えられている。主曲輪と免除川の間にはいくつかの曲輪があったと推定されているが、これらは屋敷跡ではないかと思われている。また南側には水堀跡の名残と思われる池が3か所があったようであるが、今は埋め立てられている。第6次発掘調査によると、この本郭部分からこの池と呼ばれる北端まで約75mもあり、城に付随する堀としては間隔が広いことから、2重の堀があるのではないかと推察され調査したが、堀状の落ち込みは認められず、この調査では2重の堀は発見できなかった。交野郵便局の道路を隔てた場所に土塁が数m現在も残っている。 本郭 二郭 二郭上面 本郭・二郭間堀 三郭
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城郭
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三川合流地の中州を干拓し、淀三町と呼ばれる城下町を形成している。縄張りは本丸と二の丸を中心とした「回」字形に、三の丸、西の丸、東外には東曲輪が巨大な馬出曲輪が配されていた近世城郭である。築城にあたっては大坂城の縄張りが参考にされ、『天下取り73城』によると堀や門の取り付け方などは、当時の貿易国であったオランダ人からヨーロッパの築城技術が採り入れられたと考えられている。 北の納所地区と南西の美豆地区とは、淀小橋・淀大橋でつながれ、城下町の周囲は三川の水に囲まれ、河中の城であった。城下町を貫通する形で京街道が設定され、淀城大手門はこの京街道に面して設置された。淀城はこの中州の西部を指すが、中州自体が大きな水堀であり、古代中国の都城のような構造を持っていた。 この城の特徴として、淀城の西と北側に直径九間(約16m)の大型水車が2基設けられていた。二の丸の居間や西の丸の園池に水を取り入れていたのに使用されていたと思われている。当時山城国の人々から「淀の川瀬の水車、だれを待つやらくるくると」と歌われた。『都名詞画譜』に描かれた「淀城水車図絵」(明治27年)。
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城郭
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波々伯部氏は波々伯部周辺を中心に城をいくつか有していた。波多野氏の八上城から東に4kmの、京街道の北側の小山に所在する淀山城(別名・波々伯部城)や、弥十郎ヶ岳北西の尾根にある畑市城、北の尾根の南山城、淀山城の南東600mにある東山城などがある。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 04:36 UTC 版)
上山田付城は昌渓院の北東約400m、韮山城の東にある比高140mの山の頂に築かれ、西北西方面には追越山付城が、南方面には昌渓院付城がある。韮山城からは死角にあり、あくまで陣城の役割なので、天守や櫓などは建造されなかった。大規模ではないが技巧的な構造の陣城であり、このような城郭の残る城は少ない。 複雑に組み合わされている土塁が郭を仕切り、山頂に中央郭がある。中央郭から東には尾根があり、桝形虎口、東郭、東郭(下段)、段郭が続いて形成されていて、その尾根に続くと昌渓院付城がある。中央郭から西には桝形虎口、西郭、桝形虎口、空堀、堀切が続き、そこから南にのびる尾根に段郭がある。中央郭の北にのびる尾根にも段郭があり、追越山付城に繋がっている。
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城郭
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千早城は、上赤坂城と同じように背後の尾根伝いに登っていけば、金剛山に到達する点が同じで、赤坂城郭群と一体的に捉えて位置付けることも可能だが、上赤坂城のように平野部に眺望がきかず、山間に隠れた存在であり上赤坂城のような地域支配機能は有さない。 千早川の渓谷を利用し、本丸、二の丸、三の丸、四の丸、出丸(いずれも俗称)の5つの曲輪に分かれ、空堀、堀切等が設けられている。本丸は長さ約100m、幅約20mの平坦地で東方の最高所は約10mの四方の土段になって、望楼櫓跡の可能性も指摘されている。現在は石垣の壇があるが、これは近代の楠権現の跡である。本丸の東南方に二ヵ所の袖曲輪、南西方には五ヵ所の袖曲輪が存在し「茶屋ノ壇」と呼ばれており、こちらは現在「大阪府立存道館」「大阪府立山の家」が建っているため変形している。本丸より東方100mの場所には、楠木正儀の墓がある。 千早神社を祀る場所が二ノ丸で原形はかなり損なわれて、社務所一帯が三の丸と呼ばれている。四の丸は長さ約100m、幅30mの平坦地で城内で一番広い場所となっているが、公園化のため破壊されているようである。三の丸と四の丸の間の鞍部にかつて空堀があったと言われているが、参道のため埋まってしまったのか確認できない。また四の丸の西下には、武者隠し状の帯曲輪が当時の面影が残っている。千早赤阪村立赤阪小学校の東が的場と呼ばれており大手であったと言われている。 城の南には、千早谷を隔てて北山砦があり、南東には妙見谷を隔てて妙見砦があり、四周に堡塁が散在し、自然の地形を利用して連絡路があり千早城を中心に城塞群が形成されている。
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城郭
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多聞山城の主要部は若草中学校にあり、西部は仁正皇后陵、聖武天皇陵、南部には佐保川が流れ、東は空堀を隔てて善勝寺山(若草中学校グランド)、その東は京街道になり交通の要衝を占めている。奈良の町の北方に位置するこの山は元来「眉間寺山」と称されていたのだが、奈良の統治者を自認する松永久秀が、仏教で北方の守護神とされ、自身も信貴山城入城以来信仰している多聞天(信貴山には多聞天(毘沙門天)を本尊としている朝護孫子寺がある)にあやかって「多聞山」と改称し、眉間寺を仁聖武天皇陵裾に移して、近辺の西方寺も移転させ築城。多聞山城もしくは多聞城と称し、北方から興福寺や東大寺、奈良の町を威圧、統治した。 永禄5年(1562年)8月12日午前8時ぐらいより、多聞山城の棟上げ式があり、奈良の住民を招待していた。 宣教師ルイス・デ・アルメイダの永禄8年(1565年)10月25日付の書簡が、ルイス・フロイスの『日本史』にも部分的に引用され記載されているので、世間に知られるようになった。この書簡はルイス・デ・アルメイダが松永久秀の家臣の招待を受けて見学し、本国への書簡の一文として記されている。 基督教国に於て見たること無き甚だ白く光沢ある壁を塗りたり。壁の此の如く白きは石灰に砂を混ぜず、甚だ白き特製の紙を混ずるが故なり。家及び塔は予が嘗て見たる中の最も良き瓦の種々の形あり又二指の厚さありて真黒なるものを似て覆へり。此の如き瓦は一度葺けば四五百年も更新する必要なし。予は六七百年の寺院の多数に於て之を見たり。此の別荘地に入りて街路を歩行すれば其の清潔にして白きこと、恰も当日落城せしものゝ如く、天国に入りたるの感あり。外より此城を見れば甚だ心地好く、世界の大部分に此の如き美麗なる物ありと思はれず。入りて其宮殿を見るに人の造りたる物とは思はれず、之に付記述せんには紙二帖を要すべし。宮殿は悉く杉にて造り其匂は中に入る者を喜ばせ、又幅一プラサの緑は皆一枚板なり。壁は悉く昔の歴史を写し、絵を除き地は悉く金なり。柱は上下約一パレモを真鍮にて巻き、又悉く金を塗り、彫刻を施して金の如く見ゆ。柱の中央には美麗なる大薔薇あり、室の内側は一枚板の如く見え、甚だ接近するも接目を認むること能はず。又地に多く技巧を用ひあれども予は之を説明すること能はず。此等宮殿の多くの建物の中に他に比し更に精巧なる室あり。奥行及び幅四プラザ半にして黄色なる木材を用ふ、甚だ美麗にして心地好き波紋あり。此木材は加工甚だ好く清浄なる鏡に似たり、然れども此は木材の光沢にあらず一種の漆ならんと思はれたり。庭園及び宮庭の樹木は甚だ美麗なりといふの外なし。予は都に於て美麗なるものを多く見たれども殆ど之と比すべからず。世界中此城の如く善且美なるものはあらざるべしと考えふ。故に日本全国より只之を見んが為来る者多し。 — 『日本耶蘇会士日本通信』ルイス・デ・アルメイダの書簡 この書簡で、「壁は白く光沢ある漆喰の壁で瓦葺の建物が建てられ」ていて、どれも高い水準だと分かる。ここにある「塔」とは櫓のことで、「宮殿」とあるのは本丸にあった御殿である。また「都で美しいものを多く見たが、これとは比べ物にならない」、「世界中にこの城ほど善かつ美なるものはない」と絶賛され、宮殿の内部は、「壁は歴史物語を題材にした障壁画」、「柱は彫刻と金を塗り大きな薔薇」、「庭園と宮庭の樹木は本当に美麗だ」と高く評価されている。 このルイス・デ・アルメイダの書簡は外国人の賛辞だが、『兼右卿記』にも「華麗さに目を奪われた」と記していることや薩摩国島津家久の日記『家久君上京日記』には「多聞城内から大和が一望できた」など、ほかの同様の見聞や評価もあり事実、豪華だったようだ。この書簡の末尾に「日本全国よりこれを見るために来る」とあり見に来る者を排除していない。なお、後の坂本城や安土城も識者や住民に公開していて、戦国末には周辺の理解を求める考えが広まった様子がある。 松永久秀はそれまでも築城の名手との実績は残しているが、このような壮麗な城の築城が可能だったか、南都(奈良)の大寺院建築ノウハウがこのような城を築く大きな要素になったとの説がある。瓦については西ノ京・斑鳩の橘氏などの世襲的瓦職人集団に、興福寺・東大寺の瓦工房の一部を取り込み再編成して、城郭専用の簡略化した瓦を焼成した初例となった。だが、松永は戦国時代末に現れた集権的な戦国領主の一人だが、城自体の構造は、重臣との一体性が強い状態を残していて、政治姿勢が構造には反映していない。 また、松永久秀は茶人としても名が通っており、大和国や堺、京の豪商や著名人を招き、多聞山城で3回の茶会が行われたことが『松屋茶会記』に記載されている。この茶会記によると、多聞山城は6畳と4畳半の少なくても2つの茶室もしくは茶亭があったと思われ、後に織田信長へ献上することになる「九十九髪茄子」(茶入)、また信貴山城が落城する時に行方不明になった(伝説では爆死する時に粉々になった)「古天明平蜘蛛」(茶釜)の名が見受けられる。 多聞山城は北と東西は横掘だが南は一部のみにとどまり佐保川を総堀にした小規模の城下町があり、一部は佐保川を越えて南側に城下町の建設を図り、現在は宅地化され定かではないが、『日本城郭大系』では一条通から南下する法連通にその面影があるとしている。多聞山城は元の市街地から離れた一部分の小規模の総構えの平山城となっていたとの説を唱えている。
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城郭
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猪ノ口山の山頂部には本丸(48m×22m)、二の丸(40m×19m)、三の丸(28m×23m)と呼ばれる曲輪がある。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 08:51 UTC 版)
枝吉城は、標高26mの台地に本丸跡があり東西250m、南北110mの広さを持っていたが、神戸市玉津土地区画整理事業により約3/4の本丸は削られてしまった。北側の台地には二ノ丸(消滅)があり、本丸とは堀切で隔てられていた。北東の隅に物見櫓がある曲輪があった。大手は東側だったようで、現在は埋め立てられているが、オガタ池とトク池と北側にはシンボリと呼ばれている水路をあわせて枝吉城の堀跡ではないかと考えられている。また東側台地の裾に居館があり、その外側にも水掘が設けられていた。1967年(昭和42年)の発掘調査では、礎石、列石、柱穴の他、瓦塼を基礎とした建物の遺構が発見された。瓦塼を基礎とした建物というのは、英賀城、御着城、伊丹城などで見つかっており、「茶室・お堂、あるいは倉庫の跡で本城級の城には付きものの施設であろうと考えている」と解説している。 本丸跡 枝吉城の東側の崖 枝吉城の西側の切り崩された崖 神本神社の鳥居
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 15:34 UTC 版)
十河城は東西が川と谷(鷺池)にはさまれた舌状の微高地(標高42メートル、比高10メートル)に所在し、主郭部分は、鍵型の土塁に囲まれた部分に方形居館があり、周囲に曲輪を付属させていた。北側には大きな堀切と土橋があったと思われ、その北側には大きな曲輪があった。主郭には現在称念寺が建っている。鷺池とは城の西側にある細い谷をせき止めたものであったことが『南海通記』にみえる。また「十河城は三方は深田の谷入にて、南方平野に向ひ大手口とす。土居五重に築きて、堀切ぬけば攻入るべき様もなし」(『南海通期』)とあり、大手は南側にあり、三方は深い田となっており土塁を5重に築いていた事がわかる。仁王門から香川県道30号まで下り坂となっているが、その間には数段の帯曲輪があり、それぞれに土塁が築かれていたと思われている。また城の西側にある鷺池は堀の一部と考えられており、また香川県道30号の東側にも水路があるがこれも城の堀であったと思われている。 城郭の大部分は、宅地、田畑となり城跡を思わせる遺構はほとんど現存していない。 1976年(昭和51年)7月3日に高松市の史跡に指定された。
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城郭
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現在の城跡は江戸時代初期に破却され、その後明治時代に宮内省の御料地とされ、明治天皇桃山陵、昭憲皇太后桃山東陵となったため、遺構調査も容易ではなく、年代によっては史料が不明な点も多いが、推定復元は試みられている。 『城と秀吉』によると「伏見指月城がどのような縄張りだったのかについてはくわしいことはわからない」とし、指月伏見城がどのような城だったかは不明としている。また『肥前名護屋城と「天下人」秀吉の城』によると、「伏見城築城工事に動員された人員の数が指月の面積に対して多すぎる事、発掘調査によっても堀等が検出されなかった丘陵北側の防備が弱い事、当時の文献で「指月」と呼ぶものが1例しかない事等から、伏見城は当初から木幡山一帯を主体部とした」としており、指月伏見城のみに城があったという説を最近の発掘調査などより否定し、木幡山に伏見城の主体があった可能性を指摘している。しかし最近になって従来指月城があったとされていた場所から秀吉時代のものと思われる石垣が発見されたためやはり指月城は現在の指月の地にあったものと考えられるようになった。
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城郭
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八木城は平安時代末期からある城であるが、現在の遺構は戦国時代末期から安土桃山時代に大きく改修された。但馬国の戦国時代の城郭には「竪掘」や「竪掘群」が見受けられるが、八木城には存在が確認されていない。同地域は比較的平穏で「竪掘」までの防御施設は必要なかった可能性が指摘されている。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 21:25 UTC 版)
竹田城は、険しい地形にありながら、曲輪のすべてを石垣で取り囲んだ総石垣の城郭である。山頂に築かれた城郭としては最後の近世城郭にあたる。縄張りなどから類推して近世初期と考えられる。竹田城は山名宗全がこの地に城を築くよう命じ、羽柴秀長が新しく縄張りを行い、その後の赤松広秀が文禄のころより豊臣秀吉の支援を受けながら、壮大な城へ仕上げたものと考えられている。 安土城のような大規模な石垣構造をもち、虎口は枡形を有する。尾根の最高所に本丸を置き、その正面に天守台がある。本丸から三方向にのびて、北千畳曲輪、南千畳曲輪、花屋敷曲輪という大きな曲輪群を有している。面積は18,473m2にも及ぶ。石垣は穴太流石積み技法で、豊臣時代の山城に代表される遺構である。『ひょうごの城紀行』によると「竹田城は赤松広秀が三十代後半の働き盛りに築いた城ということになろう」としている。竹田城の特徴のひとつとして、北千畳曲輪、南千畳曲輪、花屋敷曲輪の3つの曲輪群の標高が331mとほぼ同じ高さに作られている。本丸の標高は351mになるので標高差は20mとなる。このことより、平面構成だけではなく立面構成にも高度な計算がなされ3つの曲輪群が計画的に配置されている。櫓の総数は天守を含め20基前後が推定されている。 本丸北面 北千畳曲輪 花屋敷曲輪 南千畳曲輪
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 09:59 UTC 版)
城跡は大きく分けて2つから成り立っている。一つは山頂部の山城と、2本の尾根に挟まれた谷筋の空間に居館を配置する。このように防衛空間としての山城部分と、居住空間の居館を分離する構造は、戦国期の城郭に数多く見られるが、近世城郭では珍しく、時代に逆行した二次元分離形態をとっている。これは築城時が小牧・長久手の戦いの翌年で、しかも徳川家康との講和以前の段階となっており、東国に対して臨戦態勢の緊張下にあり、防衛線として八幡山城が機能したことに起因する。 1967年(昭和42年)に山頂の本丸から山麓の居館部分に集中豪雨によって大規模な土砂崩れが発生している。近江八幡市では土砂工事に対応し 史跡指定も視野に入れた遺構の残存状態の確認のため発掘調査が行われている。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 09:08 UTC 版)
この城は『諸国古城絵図』にも記載がある。これによると、山頂部は8間四方の曲輪があり、西側にも更に広い曲輪がある。またこの曲輪西側や堀を隔てた位置に丸馬出状の曲輪が記されている。この丸馬出状の曲輪は、現状でもその形態を平坦地に見られる。ただしこの部分は台地端部にあたるため、少なくても西端部分は自然地形を踏襲すべきではないかと指摘されている。また、この城は『大坂冬の陣図屏風』にも記載されている。これによると、墳丘周囲を土塁で囲み、上部には入母屋の主屋以下、4棟の建物が描かれている。更に北側には虎口があり、冠木門が描かれている。更に墳丘の裾にも建物が数棟あり、北側の平地部にも堀と冠木門があり、『諸国古城絵図』よりも選地面から防御を考えれば、台地続きに堀を設ける構造の『大坂冬の陣図屏風』の方が現実的であるとされている。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 13:44 UTC 版)
『泉邦四県石高』によると、 「 今之城、天正之比迄天守もなく堀、矢倉も麁相成に依て伏見之御城天守、矢倉門等迄被成御曳、石垣出来、小出播磨守御代之事、二、三之丸迄出来、又大坂御陣後、通筋堺町之門、堀、石垣、浜手石垣、南住間還之入口、門、堀、石垣等出来、須田次郎太郎殿奉行になり 」 —泉邦四県石高 とあり大坂の陣後に本格的な城郭、総構えが整えていたのではないかと推察されている。東西は約370m、南北は約650mの平城で、5万3千石の城郭であった。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 08:50 UTC 版)
小谷山一帯の尾根筋や谷筋をそのまま活用した南北に長い山城で、築城当時は現在の本丸跡よりさらに北に位置する大嶽城付近に本丸があったと考えられている。久政、長政によって代々拡張が重ねられ現在の城郭になった。落城後長浜城の建築資材とするため小谷城は解体されてしまったが、山王丸付近に現存する大石垣をみる限り当時としては先進的で大規模な城であったと推察される。
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城郭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/25 16:04 UTC 版)
高屋城は石川の東側にある標高約47mの河岸段丘にある独立した丘陵に築かれた平山城になる。大乗川は現在本丸付近で東流しているが、江戸時代に流路を変更したため、元来は北流していた。北側は要害の地形になっている。高屋城は大きくわけて3つの曲輪から成り立ち、一つの曲輪の面積では日本最大級となる。大永2年(1522年)の大火の様子を「去大晦日八時ヨリ高屋城尾張守館始而百八十間自火云々、河内守在所者不苦云々」(『経尋記』)と記載されている。これによると大晦日に焼けた部分だけでも180軒も武家屋敷があり、高屋城の規模は相当なものだったと推察されている。
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