戦国時代以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/06 17:23 UTC 版)
戦国時代の初期、相良氏は球磨川の南の葦北方面に進出することはあっても八代を手に入れることはできず、庶流の上相良氏との内紛があって15世紀の前半にはやや退潮した。しかし同世紀の後半には、相良長続が多良木氏を滅ぼして球磨郡を初めて統一し、長禄3年(1460年)12月には今度は名和氏が内紛を起こし、家臣に殺害された義興の弟幸松丸(後の名和顕忠)は、家臣内河喜定に連れられて球磨郡の長続のもとに逃げ延び、その後援で古麓城に返り咲くということがあった。しかし顕忠は恩義に背いたことから、八代進出を目指す相良氏と名和氏との抗争が再燃する。 文明3年(1471年)、長続の子為続は顕忠の守る同城を攻めた。肥後守護である菊池氏の承認を得られないなど幾度かの失敗の後、文明16年(1484年)に城を落として八代を手中に収めた。顕忠は木原城に退き、しばらくは反撃の機会を伺っていたが、明応8年(1499年)、為続が球磨に帰還した隙に顕忠・重年親子は古麓城を奪回した。為続は翌年亡くなり、子の相良長毎が当主となったが、文亀元年(1501年)、2年と連続して古麓城を攻めたが落とせなかった。文亀3年(1503年)、長毎は菊池能運と阿蘇惟長の援兵を受けて古麓城を長期包囲し、翌永正元年(1504年)2月、顕忠はついに古麓城を明け渡し八代から退去した。以後(内紛があったものの)相良氏の支配は確立されていき古麓城を拠点として戦国大名へと成長するに至った。相良の二城のうち新城の築城時期の記録はないが、相良義滋が「鷹峯城(鷹峰城)」を築かせたのが天文3年(1534年)であることは史料から判明している。 ところが天正6年(1578年)、三州(薩摩・大隅・日向)を統一した戦国大名島津氏が北に勢力を拡大し、肥後への侵攻を開始した。島津義久、義弘、家久、新納忠元らが、連年、諸城を攻撃し、天正9年(1581年)に水俣城を包囲されて抗しきれなくなったことから、相良義陽は土地を明け渡して島津氏の軍門に降り、響野原の戦いで甲斐宗運に敗れて討ち死にした。以後、相良氏は島津氏に従属して、主城を人吉城に戻し、古麓城は島津方の手に渡ってその城代が入った。 天正15年(1587年)4月、豊臣秀吉の九州征伐を受けて敗走する島津勢の一派は古麓城で踏みとどまり、島津征久、新納忠元、伊集院忠棟らが籠城しようとした。しかし秀吉の大軍がこれを囲むと、夜陰に紛れて撤収した。代わって秀吉が古麓城に入城した。戦後、島津氏の肥後の所領は没収され、佐々成政に古麓城を含めた肥後国が与えられた。成政は隈本城(熊本城の前身)を本城として、古麓城には城代を派遣したのみであったが、肥後国人一揆の際には福島正則が在番した。成政は一揆を起こさせた責任を問われて切腹を命じられ、代わって小西行長が新たに南肥後を領するようになると、行長は宇土城に本拠を置きながらも、家臣小西行重に命じて水利のよい球磨川の三角州に麦島城を新たに築かせて、中世の山城である古麓城は廃城とした。 「八代城」および「麦島城」も参照
※この「戦国時代以後」の解説は、「古麓城」の解説の一部です。
「戦国時代以後」を含む「古麓城」の記事については、「古麓城」の概要を参照ください。
戦国時代以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:31 UTC 版)
その後、延徳2年(1490年)の火災、永禄10年(1567年)東大寺大仏殿の戦いでの兵火によって主要伽藍を焼失した。延徳の火災では前述の叡尊によって供養された文殊菩薩像も焼失している。 明治初期の廃仏毀釈でも甚大な被害を受けた。近代に入ってからは寺は荒れ果て、無住となって、本山の西大寺が管理していた時代もあったが、第二次世界大戦後になって諸堂の修理が行われ、境内が整備されている。なお、般若寺の客殿は実業家畠山一清によって東京都港区白金台に移築され、第二次世界大戦後は料亭「般若苑」として営業していた(現在は廃業)。
※この「戦国時代以後」の解説は、「般若寺」の解説の一部です。
「戦国時代以後」を含む「般若寺」の記事については、「般若寺」の概要を参照ください。
- 戦国時代以後のページへのリンク