戦国時代~主家との反目~
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しかし、戦国時代以降、関東をめぐる情勢は再び不安定化しはじめるようになった。結果、下野南部に隆盛を誇った益子氏も宇都宮家臣であると同時に、独立領主でもあるという立場から戦乱の渦中に呑みこまれていったのである。 天文8年(1532年)には、芳賀氏など他の宇都宮家臣との対立から益子勝清が、宇都宮氏を一時離反する事態が起こり、さらに同15年(1546年)には勝清の庶子であった益子勝宗が益子本家に謀叛を起こし、兄で益子宗家の家督を継いでいた益子勝家親子を攻め滅ぼして、家督に収まるという事件が勃発した。 一連の事態を造反とみた主君 宇都宮氏は益子勝宗を謀反人と見做し、益子氏の追討に乗り出すことになった。対する、勝宗は主家に対抗するため、常陸国の結城氏配下の水谷氏に一時、属して、一時これに反抗するも、再び宇都宮家に帰順し事なきを得た。しかし、その後も勝宗は下野国内における勢力拡大に野心を抱いたことから、永禄2年(1559年)、七井の矢島城を陥落させて領地を拡大、それから20余年の時を経た天正4年(1576年)には七井城を築いて五男 勝忠を城主として据え、七井氏を名乗らせるなど、下野国内の国人領主としての勢力を広げていった。さらに同年には、高館城を修築し、本拠を益子城より移すなど自身の勢力基盤の確立に力を注ぐようになったのである。 益子氏の独立性はその対外政策の面でも顕著となっていった。主家である宇都宮家自身が親上杉派であるのに対して、勝宗率いる益子氏は親北条派であったとされるなど、主家とは異なる路線を取るようになっていったのである。とりわけ、益子勝宗は主家と別に独自に甲斐の武田信玄と親交を深め、信玄の上野国侵攻時にはこれに呼応して出兵し、その軍功から武田信玄より感状を贈られるなど外交のみならず軍事面でも親武田の姿勢が見られた。殊に、武田信玄から勝宗に贈られた感状には此度之武功無比類儀候」と記されており、嫡男の元服に際して「仍家名之信字進之候」即ち信玄の俗名 晴信の一字信の字を偏諱を授けられ、益子信勝と名乗らせ、さらに嫡男元服に際して祝の品として則光の刀も贈られているなど宇都宮家臣ながら武田方に臣従するかのような姿勢をとっているのも益子氏の独自路線を顕著に示している。但し、一方で天正6年(1578年)、武田勝頼が上野に侵攻すると、宇都宮氏など下野をはじめとする北関東諸将はこぞって反武田につき、益子氏も小田氏の家臣信田彌四郎らとともに勝頼の陣へ夜襲をかけ、益子氏は内藤昌月と跡部勝資を敗走させ、この功により勝宗は主君 宇都宮国綱から感状が贈られている。この結末を見る限り、益子氏の独自外交はあくまで益子氏の独立領主としての立場を生かした宇都宮家の調略の一環であったということができる。 また、宇都宮家と益子家の関係も、宇都宮氏譜代の臣であった芳賀高照が家督相続をめぐる争いで宇都宮氏に反抗したため、当主の宇都宮尚綱の命により、益子勝宗の三男・高定に芳賀氏討伐が命じられている。高定は芳賀氏討伐後その家督を継いで芳賀高定と名乗り、尚綱の腹心として宇都宮氏執政職として活躍。主君・宇都宮尚綱が五月女坂で敗死した折も嫡子の伊勢寿丸(宇都宮広綱)をよく助けたとされる。このように、益子氏一門はその独立性を保ちながらも宇都宮氏に対しては恭順的なものであったといえる。 しかし、その様相は勝宗の後継の代になり、大きく変容することになった。勝宗の後継は長男である信勝が那須氏の傘下である大関氏に仕えたことから、次男である益子安宗が後継者となったものの、安宗は重臣加藤上総の讒言で幽閉されてしまい、益子氏の家督はその嫡男の益子家宗が家督を継ぐこととなった。この跡目相続をめぐる混乱が契機となり、益子氏と領土の境界を接する周辺諸氏との争いが激化。益子氏をとりまく情勢はいよいよ厳しくなった。その間も、益子氏は一貫して宇都宮家臣としての姿勢を堅持してきたが、天正12年(1584年)になり、益子一族の七井勝忠が宇都宮国綱に叛いて戦って尾羽寺で毒殺され、勝忠の子の七井忠兼も天正14年(1586年)、茂木山城守と新福寺に戦って敗れ討死したことで、益子氏はついに宇都宮氏に叛旗を翻すのである。 益子家宗は主家に対抗すべく隣国である下総国の結城晴朝に千貫の知行地を献じて後詰を依頼、翌年9月に宇都宮一門である茂木氏が守る下野国茂木の佐夫良峠に攻め寄せた。しかし、矢口台に陣を敷いた結城・益子連合軍は、宇都宮一門の茂木治良率いる軍勢に敗北を喫する。さらに家宗は主君・宇都宮国綱の追討を受け、家宗は敗死したのである。ちなみに、益子氏が宇都宮氏との対立を深める要因には、家宗の大叔父である芳賀高定によって攻め滅ぼされた芳賀高照の遺児・高継の策謀があったとされる。高継は父が家宗の大叔父 高定に攻め滅ぼされた後、益子氏の下で養育されていたが、高継の成人後は高定から芳賀家の家督を返還されていた。まさに益子氏にとっては好意が仇になった結果となったといえる。 その後も益子氏は一門の益子重綱が家督を継いで何とか家は存続していたが、依然、周辺勢力との確執が続いていた。その頃、益子領南方では宇都宮氏一門の笠間領と隣接していたが、領地の境界をめぐり笠間氏との紛争が絶えなかったため、益子重綱は笠間幹綱を攻めたものの、敗戦を喫したとされる。この戦いにより敗れた重綱は常陸の結城晴朝に庇護を求め、結城方から援将として加藤大隅守父子を大将に兵を派遣した。この時、結城・益子連合軍は笠間幹綱方の谷中玄蕃允を討ち取る戦果を挙げたものの、笠間勢は谷中玄蕃允の一周忌を期して、玄蕃允の嫡男谷中孫八郎をして先陣せしめ、家老の江戸美濃守を後楯とした益子討伐の兵を挙げ、これを攻めると再び益子勢は形勢不利に転じることとなった。笠間勢は益子方の要害である富谷城を一気に乗っ取る計略を立てて、兵を城に近付かせた。この時、益子勢は自領内の富谷城からは500~600人の兵が出動させ、笠間勢と激突したものの、笠間勢の急襲により浮き足立った益子勢は散々に打ち破られ、笠間氏の大勝利に終わった。『益子系図』によれば、この合戦で益子重綱が捕らえられたとも記されている。 この戦いで益子勢が敗れたことを知った結城晴朝は、家老である下館城主・水谷勝俊に命じて笠間氏を攻撃させたことが『磯辺由緒書』にみえている。しかし、この戦いで手痛い敗北を喫した益子氏は下野南部の勢力を失い、隣国の結城晴朝を頼って下総国、さらに常陸国へと逃れていったという。これにより、平安時代末期から下野守護・宇都宮家の重臣として活躍した名門 益子氏は滅亡し、子孫は周辺諸勢力を頼って落ち伸びていったのである。
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