戦国時代~主家との反目~とは? わかりやすく解説

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戦国時代~主家との反目~

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 02:05 UTC 版)

益子氏」の記事における「戦国時代~主家との反目~」の解説

しかし、戦国時代以降関東をめぐる情勢は再び不安定化しはじめるようになった結果下野南部隆盛誇った益子氏宇都宮家臣であると同時に独立領主でもあるという立場から戦乱渦中呑みこまれていったのである天文8年1532年)には、芳賀氏など他の宇都宮家臣との対立から益子勝清が、宇都宮氏一時離反する事態起こり、さらに同15年1546年)には勝清の庶子であった益子勝宗益子本家謀叛起こし、兄で益子宗家家督継いでいた益子勝家親子攻め滅ぼして家督に収まるという事件が勃発した一連の事態造反とみた主君 宇都宮氏益子勝宗謀反人見做し益子氏追討乗り出すことになった対する、勝宗は主家対抗するため、常陸国結城氏配下水谷氏一時属して一時これに反抗するも、再び宇都宮家に帰順し事なきを得た。しかし、その後も勝宗は下野国内における勢力拡大野心抱いたことから、永禄2年1559年)、七井矢島城を陥落させて領地拡大、それから20余年の時を経た天正4年1576年)には七井城を築いて五男 勝忠を城主として据え七井氏を名乗らせるなど、下野国内の国人領主としての勢力広げていった。さらに同年には、高館城を修築し、本拠益子城より移すなど自身勢力基盤確立力を注ぐようになったのである益子氏独立性はその対外政策の面でも顕著となっていった。主家である宇都宮自身が親上杉派であるのに対して、勝宗率い益子氏親北条派であったとされるなど、主家とは異な路線を取るようになっていったのであるとりわけ益子勝宗主家別に独自に甲斐武田信玄親交深め信玄の上野国侵攻時にはこれに呼応して出兵し、その軍功から武田信玄より感状贈られるなど外交のみならず軍事面でも親武田姿勢見られた。殊に武田信玄から勝宗に贈られ感状には此度武功無比類儀候」と記されており、嫡男元服に際して「仍家名之信字進之候」即ち信玄俗名 晴信の一字信の字を偏諱授けられ益子信勝と名乗らせ、さらに嫡男元服に際して祝の品として則光の刀も贈られているなど宇都宮家臣ながら武田方に臣従するかのような姿勢とっているのも益子氏独自路線顕著に示している。但し、一方で天正6年1578年)、武田勝頼上野侵攻すると、宇都宮氏など下野はじめとする北関東諸将こぞって武田につき、益子氏小田氏家臣信田彌四郎らとともに勝頼の陣へ夜襲をかけ、益子氏内藤昌月跡部勝資敗走させ、この功により勝宗は主君 宇都宮国綱から感状贈られている。この結末を見る限り益子氏の独自外交はあくまで益子氏独立領主としての立場生かした宇都宮家の調略一環であったということができる。 また、宇都宮家と益子家の関係も、宇都宮氏譜代の臣であった芳賀高照家督相続をめぐる争い宇都宮氏反抗したため、当主宇都宮尚綱の命により、益子勝宗三男高定芳賀氏討伐命じられている。高定芳賀氏討伐後その家督継いで芳賀高定名乗り、尚綱の腹心として宇都宮氏執政職として活躍主君宇都宮尚綱五月女坂で敗死した折も嫡子伊勢寿丸宇都宮広綱)をよく助けたとされるこのように益子氏一門はその独立性保ちながらも宇都宮氏に対して恭順的なものであったといえる。 しかし、その様相は勝宗の後継の代になり、大きく変容することになった。勝宗の後継長男である信勝が那須氏傘下である大関氏仕えたことから、次男である益子安宗後継者となったものの、安宗重臣加藤上総讒言幽閉されてしまい、益子氏家督はその嫡男益子家宗家督を継ぐこととなった。この跡目相続をめぐる混乱契機となり、益子氏領土境界接す周辺諸氏との争い激化益子氏をとりまく情勢はいよいよ厳しくなった。その間も、益子氏一貫して宇都宮家臣としての姿勢堅持してきたが、天正12年1584年)になり、益子一族七井勝忠宇都宮国綱に叛いて戦って尾羽寺で毒殺され、勝忠の子七井忠兼も天正14年1586年)、茂木山城守新福寺戦って敗れ討死したことで、益子氏はついに宇都宮氏叛旗翻すのである益子家宗主家対抗すべく隣国である下総国結城晴朝千貫知行地献じ後詰依頼翌年9月宇都宮一門である茂木氏が守る下野国茂木の佐夫良峠に攻め寄せた。しかし、矢口台に陣を敷いた結城益子連合軍は、宇都宮一門茂木治良率い軍勢敗北喫する。さらに家宗は主君宇都宮国綱追討を受け、家宗は敗死したのであるちなみに益子氏宇都宮氏との対立深める要因には、家宗の大叔父である芳賀高定によって攻め滅ぼされ芳賀高照遺児・高継の策謀があったとされる。高継は父が家宗の大叔父 高定攻め滅ぼされた後、益子氏の下で養育されていたが、高継の成人後高定から芳賀家の家督返還されていた。まさに益子氏にとっては好意が仇になった結果となったといえるその後益子氏一門益子重綱家督継いで何とか家は存続していたが、依然周辺勢力との確執続いていた。その頃益子南方では宇都宮氏一門笠間領と隣接していたが、領地境界をめぐり笠間氏との紛争絶えなかったため、益子重綱笠間幹綱攻めたものの、敗戦喫したとされる。この戦いにより敗れた重綱は常陸結城晴朝庇護求め結城方から援将として加藤大隅守父子大将に兵を派遣した。この時、結城益子連合軍笠間幹綱方の谷中玄蕃允討ち取る戦果挙げたものの、笠間勢は谷中玄蕃允一周忌期して玄蕃允嫡男谷中八郎をして先陣せしめ、家老江戸美濃守を後とした益子討伐兵を挙げ、これを攻めると再び益子勢は形勢不利に転じることとなった笠間勢は益子方の要害である富谷城を一気乗っ取る計略立てて、兵を城に近付かせた。この時、益子勢は自領内富谷城からは500600人の兵が出動させ、笠間勢と激突したものの、笠間勢の急襲により浮き足立った益子勢は散々に打ち破られ笠間氏大勝利終わった。『益子系図によれば、この合戦益子重綱捕らえられたとも記されている。 この戦いで益子勢が敗れたことを知った結城晴朝は、家老である下館城主・水谷勝俊に命じて笠間氏攻撃させたことが『磯辺由緒書』にみえている。しかし、この戦いで手痛い敗北喫した益子氏下野南部勢力失い隣国結城晴朝頼って下総国、さらに常陸国へと逃れていったという。これにより、平安時代末期から下野守護宇都宮家の重臣として活躍した名門 益子氏滅亡し子孫周辺諸勢力頼って落ち伸びていったのである

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