つい‐とう〔‐タウ〕【追討】
征伐
(追討 から転送)
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征伐(せいばつ、conquest または subjugation)とは、反乱を起こした勢力を鎮圧したり、反社会的な犯罪集団・賊などを、武力で処罰(懲罰)したりすることをいう。
実際にはプロパガンダ(政治宣伝)として、公権力を背景とし、政治的に敵対する勢力に対して武力行使(攻撃・侵攻・侵略)をしかけるときに使われることが多い。対象は敵国や異民族の場合もある。「征服」に比べて「政敵・及び政府の敵を懲らしめる」という意味合いが強い。[要出典]
「征討」(せいとう)・「討伐」(とうばつ)も征伐とほぼ同義語であり、罪ある者や手向かう者を攻め討つ意味で使われ、歴史用語としては上位者・正当な国家権力が反逆した下位者・罪人を攻め討つという意味で使われる。反対語的に使用される用語に「反乱」(はんらん)があり、政府周辺や政権をめぐる軍事反乱などに使われる[1]。
「征伐」・「征討」・「討伐」と呼ばれている事件の一部に対しては、差別用語と見なす立場をとる識者もいる。それに対し、当時の意識は、そのような後世における政策的意識とは相違があるので、歴史学上の見地とは峻別されるべきという批判がある[2] 。最近は使用例が減り、征伐に代えて「平定」(へいてい)を用いる用語例が増えている[3]。
また、東洋においては征伐には道徳的意味が込められており、伝統的に反乱を起こした諸侯を天子が討ち平らげることとされる[4]。『論語』季氏篇には「礼楽・征伐は天子より出ず」として皇帝の特権と記述する。
日本
上泉信綱伝の『訓閲集』(大江家兵法書を戦国風に改めた兵書)巻6「士鑑・軍役」内の「陣言」の説明では、院宣を受けた征夷将軍の出陣を「征伐」といい、鎮守将軍の出陣は「進発(しんぱつ)」といい、将軍が自らの出陣を「発向」といい、同位の人の退治を「追討」と分類する(諸侯の出陣は「出馬」という、とも記す)[5]。
いずれも反乱者が指定され、降参するまで追い詰め攻撃する命令が下された。追捕を除き、最後まで降参しない場合には討ち取る命令が下された。
「征伐」「征討」の例
(別称がある場合は、矢印の右側に示す)
- 古代のヤマトタケルの東征[6]、鎌倉時代後期から南北朝における後醍醐天皇による号令[7]。室町時代の将軍足利義教と鎌倉公方足利持氏の対立からの永享の乱。1560年-1569年の小田原城の戦いを端緒とする上杉謙信の関東平定を目的とした遠征群。豊臣秀吉による小田原征伐(小田原合戦)。逸話として江戸時代の萩藩毛利家の新年儀礼の挨拶[8]。
- 1577年:紀州征伐 → 紀州攻め、信長の紀州征伐と秀吉の紀州征伐がある。
- 1582年:甲州征伐 → 武田征伐。武田攻め。
- 1585年:四国征伐 → 四国攻め。四国の役。
- 1585年:越中征伐 → 富山の役。佐々成政征伐。北国御動座。
- 1585年:上田征伐 → 上田合戦。真田征伐。上田城の戦い。上田城攻防戦。第一次と第二次(1600年)がある。
- 1587年:九州征伐 → 島津征伐。九州の役[9]、九州攻め。九州平定。
- 1590年:小田原征伐 → 北条征伐。小田原合戦。小田原攻め。小田原の役。関東平定。関東征伐。
- 1591-98年:朝鮮征伐 → 文禄・慶長の役。朝鮮出兵。秀吉の朝鮮侵略。
- 1600年:会津征伐 → 上杉征伐。会津攻め。
- 1609年:琉球征伐 → 薩摩の琉球侵攻。琉球の役。征縄の役。
- 1864年:長州征伐(長州征討) → 長州戦争。幕長戦争。征長の役。長州の役。
追捕・追討の例
- 平忠常の乱に際し、朝廷は平直方らを追捕使に任じた。
- 平将門の乱に際し、藤原忠文を征東大将軍に任じた。また平将門の追討を誰にも許し褒美を与える布告を行なった。
- 治承・寿永の乱に際し、安田義定を追討使に任じた(1183年)。
その他
脚注
- ^ 武田忠利「歴史用語と歴史教育」(『歴史学研究 第628号』に収録)1992年1月
- ^ 藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』東京大学出版会、248から253頁、 1985/5、ISBN 4130200739 ただし「朝鮮征伐」に関してのみの論考。
- ^ 東京堂出版『日本中世史研究事典』1995年
- ^ 鄭求福「壬辰倭乱の歴史的意味-壬辰倭乱に対する韓・日両国の歴史認識-」2005年(『日韓歴史共同研究報告書』日韓歴史共同研究委員会 第1期(2002-2005年) 第2分科(中近世))[1]
- ^ 『上泉信綱伝新陰流軍学「訓閲集」』(スキージャーナル株式会社、2008年)p.188.
- ^ 寺田英子『古事記の植物』文芸社。
- ^ 『太平記』
- ^ 児玉幸多編『大名列伝』人物往来社。
- ^ 『日本戦史 九州役』参謀本部編、1910年
関連項目
追討
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京都守護職松平容保は紀州藩、津藩、彦根藩、郡山藩などに天誅組討伐を命じ、9月1日、朝廷からも天誅組追討を督励する触書が下されるが、実体不明の天誅組を恐れた諸藩の動きは鈍く、他藩の様子を見ながらゆっくりと進軍する状況であった。8月29日には紀州藩兵約1500人が五條に入ったものの、周辺に天誅組が出没しているとの噂を聞いてすぐに退却している。戦意に乏しい追討軍の状況を見て取った那須信吾らは、8月30日夜、五條付近に残っていた紀州藩の陣地に夜襲を掛けて紀州藩兵を駆逐し、陣地に放火して武具や食料等の戦利品を奪って引き上げた。 忠光率いる本隊は新宮に向けて退却を始めたが、熊野川の港は既に紀伊新宮藩水野家の兵によって固められているという情報を得て、海路脱出する案を断念し、9月6日、忠光は天の辻の本陣へ帰って吉村らに再度合流した。吉村らの別働隊は天の辻を根拠として周辺でゲリラ戦を展開し、数では勝るが戦意に乏しい追討軍相手に善戦していた。合流後、軍議が開かれ、一戦の後に包囲を破って堺方面へ脱出することとなり、池内蔵太らが高取敗戦後に離散した十津川郷士の協力を求めて使者に立つが、前回のような大きな協力は得られなかった。 諸藩の藩兵が動き出し、6日、紀州藩兵が富貴村に到着、天誅組は民家に火を放って撹乱した。7日、天誅組先鋒が大日川に進軍したところ、津藩兵約600人と遭遇、交戦してこれを五條へ退ける。その日のうちに天誅組は白銀岳に本陣を移し、防御体制を築いた。 8日、幕府軍は総攻撃を10日と定めて攻囲軍諸藩に命じた。総兵力1万4,000人に及ぶ諸藩兵は各方面から進軍、樺の木峠や広橋峠などで戦闘が繰り広げられ天誅組は善戦するものの、主将である忠光の命令が混乱して一貫せず、兵達は右往左往を余儀なくされた。9日には白銀岳の本陣に彦根藩兵が迫ったが撃退に成功する。同日夜、彦根藩の拠点となっていた下市を夜襲することになり、橋本若狭らの一隊が下市の町を襲って放火した。不意を突かれた彦根藩兵は大混乱に陥り、夜襲は成功、橋本隊は武器などを奪って引き上げた。この焼き討ちで下市の民家約300件が焼失、住民は逃亡した。下市夜襲に成功した橋本隊は援護部隊の水郡隊と合流して白銀岳本陣に戻るが、本隊は大日川村方面に援軍に出動して陣にはおらず、何の連絡もなく取り残された形となった水郡らは憤慨したが、その後本隊に合流した。大日川の陣地は津藩の攻撃を受けていたが、下市夜襲で彦根藩が損害を受けたため、総攻撃は延期されることになり津藩は一時退却した。忠光の本隊は再度、十津川方面へ退去することを決め、11日朝、天の辻へ退却した。しかし、水郡ら河内勢にはそれは知らされず、再三に渡って置き去りにされ、献策も受け入れられないなどの冷遇を受けた水郡は天誅組からの離脱を決意。忠光らの待つ本陣に戻る事なく、高野山から河内方面へと撤退していった。こうして忠光が統率力を失いつつある事は一目瞭然で、水郡ら河内勢以外にも脱走する者が相次ぎ、天誅組の士気は低下する。 14日、紀州・津の藩兵が天の辻に迫り、抗戦が難しいと判断した天誅組は本陣としていた庄屋に火を放って放棄すると、十津川郷へ退却を決定する。忠光ら本隊が先行し、吉村らの後続隊も津藩が迫ると退却した。
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「追討」の例文・使い方・用例・文例
品詞の分類
名詞およびサ変動詞(統治) | 討ち入り 討入り 闇討ち 追討 倒幕 |
名詞およびサ変動詞(攻撃) | 来襲 急襲 追討 破壊 打ち打擲 |
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