小田原征伐
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小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に関白太政大臣豊臣秀吉が、小田原北条氏(後北条氏)を降した歴史事象・戦役。北条氏と真田氏(上杉氏)の間での領土紛争を豊臣秀吉が仲裁したが、この沼田領裁定の一部について、北条氏が武力で履行を覆したこと、及びそれを正当化したことが豊臣政権の惣無事令違反と看做され、北条氏は豊臣氏の軍事力による攻撃を受けた[2]。北条氏本拠であった小田原城の攻囲戦が著名であるため本項のような名称で呼ばれるが、本項では小田原城攻略戦だけではなく、並行して行われた後北条氏領土の掃討攻略戦も同戦役に含むものとして扱う。
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小田原征伐(決戦)
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詳細は「小田原征伐」を参照 1590年(天正18)豊臣秀吉方が北条攻めに際し作成した城と軍勢に関する覚書の中に、北条氏照の管轄する六か所の城の名と四五〇〇騎という軍勢数が記載される。その中に竹山の城は滝山城を指しているとも言われている(毛利家文書: 関東八州諸城覚書・ 北条氏人数覚書より)。 1590年(天正18)6月、広田出雲守・高橋越前守・市川三郎兵衛・小沢甚三郎らが八王子城・滝山城で討死するとあるが、真実は不明である(高勝寺所蔵)。
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