菅達長
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菅 達長(かん みちなが)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。通称は平右衛門。淡路十人衆の1人。淡路島の東の海の水軍を率いた。本拠地は志知・釜口・岩屋・須本など諸説ある。
- ^ 長男。長宗我部元親家臣としての活動がみられる。大坂冬の陣で父と共に自害。
- ^ 次男。仁三郎(二三郎とも)、若狭守。後に小早川秀秋家臣、さらに池田利隆家臣に転じたが、家は断絶した。
- ^ 三男。関ヶ原役で西軍に属して失領。池田輝政に召し抱えられ、その子・忠継のもとで大坂の冬の陣の野田福島合戦を戦い、活躍。忠継が死ぬと、淡路洲本藩の忠長の家臣に。光仲の転封に従い、鳥取藩に転居し、4家老の1人として3,000石の禄を食む。
- ^ 四男。鳥取藩で権之佐より550石を分知されたが、断絶したので、知行は五男に相続される。
- ^ 五男。鳥取藩で権之佐より450石を分知された。子孫は藩士。
- ^ 又四郎。慶長の役の碧波亭下の水戦で戦死。達長の子というが、系図には名前がない。
- ^ 「大阪歴史探訪」の第7回目を行いました(archive.today、2012年12月19日) - http://www.occh.or.jp/event/893-event01.html[リンク切れ]}
菅達長(かん みちなが)
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「センゴク」の記事における「菅達長(かん みちなが)」の解説
通称は平右衛門。淡路十人衆の一人。頭に布を巻き、首からは首飾りを下げた南蛮海賊の様な風貌をしている。商人として潜入した権兵衛を織田が新たに送り込んだ淡路国主であると看破した上で、武家同士の争いには興味がないとして会談に応じる。会談で十人衆に領主の身分を与えるという織田家からの条件を「身分や領地など所詮はただの約束事でしかない」と一蹴し、そんな名誉や領地を守って死ぬ武家の愚かさを嘲笑する。そして僅かな土地すらも武家に奪われ、家船として生きる事を強いられた自分達が武家に従う理由などないと高笑いするが、乱世を生きる武士を侮辱した事に憤った権兵衛に殴り飛ばされる。
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