毛利氏 (もうりし)
毛利氏
毛利氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 05:30 UTC 版)
毛利軍はこの反乱を鎮圧した後、尼子氏再興に向けて挙兵していた尼子勝久・山中幸盛らを討つべく出雲国へ向かった。最終的に、大内・尼子両氏の残党を掃討することに成功した毛利氏は、周防国・長門国・出雲国などの支配を確立する。一方で、この戦いのために主力軍を撤退させた豊前国では、門司城などの一部を残して拠点を失った。さらに畿内を制した織田信長と対峙するようになった毛利氏は九州進出から手を引き、以後、毛利氏が筑前国・豊前国の覇権を掛けて大友氏と戦うことはなくなった。
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毛利氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 01:27 UTC 版)
合戦後における元就の軍功は、大内義隆からも幕府に報告されたが、元就自身も使者を派遣して天文10年2月16日付で記載した戦況報告書『毛利元就郡山籠城日記』を宍戸元源の書状とともに、幕府の木沢長政のもとに持参させ、足利義晴や管領の細川晴元らに披露させた。幕府では尼子氏によって追放された赤松晴政に同情していたため、尼子氏を敗走させた元就の働きに大いに感動した。細川晴元から天文10年4月2日付で元就に出された書状には、最大級の賛辞が記載されている。
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毛利氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 10:20 UTC 版)
大内氏の所領であった周防・長門を併呑することによって毛利氏は一気にその勢力を拡大し、尼子氏と並ぶ中国地方有数の大大名となった。そして、石見銀山を巡って尼子氏と、博多の権益を巡って九州の大友氏との本格的な対立が始まる。なお、毛利氏に抗おうとする大内氏残党の掃討が完了するのは、永禄12年(1569年)までかかった。
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