尼子秀久(あまご ひでひさ) ????~1609
尼子秀久
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 天文23年(1554年)? |
死没 | 慶長14年12月2日(1609年12月27日)[1] |
改名 | 百童子[1]→八郎四郎(幼名)[2][1]→秀久→常心(法名)[1] |
別名 | 四郎兵衛尉[2][1] |
戒名 | 藤樹院殿喬山乗心大居士[1] |
墓所 | 山口県阿武町奈古の大覚寺 |
幕府 | 室町幕府→江戸幕府 |
主君 | 尼子晴久→義久→毛利元就→輝元 |
氏族 | 尼子氏 |
父母 | 父:尼子晴久[1]、母:尼子国久娘[2] |
兄弟 | 千歳[2][3]、義久[1]、倫久[1]、秀久、 三沢為清室、女子[1] |
子 | 佐古(又五郎)秀高 |
尼子 秀久(あまご ひでひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。尼子氏、毛利氏の家臣。
略歴
尼子晴久の四男として誕生。天文23年(1554年)に月山富田城にて連歌会が行われた際に、産前祈祷会が執り行われたという記録があり、これが秀久のことを示していると思われる。
永禄5年(1562年)から毛利氏による出雲国侵攻を受け、最終的に月山富田城に籠城すると、秀久は宇山久兼・佐世清宗らを率いて菅谷口を守備し、小早川隆景らと戦うが一歩も引かず奮闘した。永禄9年(1566年)、兄であり当主・義久は降伏し月山富田城は開城。秀久も兄に従い安芸国に移送され、長きにわたり幽閉されることとなる。
天正17年(1589年)、幽閉が解かれると客分として毛利輝元に遇され、安芸国内に居館を構えた。以後毛利家臣として、豊臣氏による文禄・慶長の役にも従軍している。
慶長14年(1609年)12月2日、長門国阿武郡奈古において死去した[1]。一説によれば秀久は天正の終り頃に福定村[4]に訪れ土着し[5]、姓を佐近と改めて佐近又右衛門秀久と名乗り、元和元年(1615年)に当地にて死去した。その子孫が佐古氏、佐近氏である。
脚注
参考文献
- 今井尭『日本史総覧』 3(中世 2)、新人物往来社、1984年。 NCID BN00172373。
固有名詞の分類
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