尼子元知とは? わかりやすく解説

尼子元知

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/15 04:09 UTC 版)

 
尼子 元知
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 元亀3年(1572年
または 慶長3年(1598年
死没 元和8年5月13日1622年6月21日
改名 尼子元知→久佐元知
別名 将監
戒名 冷巌樹芳大禅定門
または 冷巌寺殿樹芳大居士
墓所 訂心寺(山口県長門市渋木)
主君 毛利輝元秀就
長州藩
氏族 尼子氏
父母 父:尼子倫久、母:山内元通の娘
養父:尼子義久
兄弟 元知、佐々木宗久、宍道就兼室、
谷本重久
井原伯耆守の娘
養子:佐々木就易(宍道就兼の子)
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尼子 元知(あまご もとさと)は、安土桃山時代後期から江戸時代初期の武将、長州藩士。尼子氏7代当主。尼子倫久晴久の次男)の長男。母は山内元通の娘。正室は井原伯耆守の女。

生涯

毛利家の意向により、元知は伯父である尼子義久の養子となり尼子氏を継いで、毛利輝元に仕えることとなった。輝元から偏諱(「元」の字)を与えられて元知と名乗る。妻との間に子がなかったので、甥(妹の子)の宍道孫三郎就易を養子とした。慶長元年(1596年石見銀山御番所の支配頭となった。

この番所が石見国那賀郡久佐にあったので、村人は元知を「久佐の将監様」と呼び、元知自身も久佐将監と名のるようになった。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い後、毛利家が防長二州に削封され、石見銀山が徳川家の領地となったため、毛利家と共に防長二州へ移り、元和8年(1622年)5月13日に長門国で没した。享年51(一説に享年25)。法号は冷巌樹芳大禅定門(れいがんじゅほうだいぜんじょうもん)または冷巌寺殿樹芳大居士。墓所は山口県長門市渋木の訂心寺(ていしんじ)にある。尼子元知の没年月日・没年齢・法号については、山口県萩市在住であった田中助一(郷土史家)の研究文書による。

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