尼子氏
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尼子氏(あまごし)は、武家・士族だった日本の氏族。室町時代中期に京極氏の分流京極高久が所領の近江国犬上郡尼子郷から尼子を称したのに始まる。京極氏の守護代として出雲に下って勢力を拡大、経久の代に守護京極政高を追放して戦国大名となり、出雲を中心に山陰地方の国人を従え安芸国、石見国において大内氏と中国地方の覇を争ったが、やがて大内氏を滅ぼした毛利氏に圧迫され、義久の代に居城月山富田城が落城[2]。以降義久とその子孫は毛利氏の家臣となり、江戸時代には佐佐木に復姓して長州藩士家として続き、維新後士族。通字は「久」(ひさ)。
注釈
出典
尼子氏
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吉田郡山城攻めに失敗したことで、同年1月末までに頭崎城の平賀興貞も降伏。後述の通り安芸武田氏や厳島神主家などの安芸における尼子方勢力も駆逐される。安芸・備後・石見のみならず出雲でも国人領主たちの多くが離反、備前・播磨では赤松氏や浦上氏が勢力を盛り返すなど、膠着状態であった中国地方の勢力争いは大きく動いた。そして、11月13日には尼子経久が病没。この機に乗じて尼子氏を叩こうとした大内義隆により、室町幕府から尼子討伐の綸旨も出されるなど、尼子氏は窮地に追い込まれた。
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尼子氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 10:20 UTC 版)
益田藤兼を介して大内氏と和解し同盟関係を結んでいた尼子氏は、新宮党粛清後に軍事・尼子宗家権限強化をすることにより備前浦上氏を攻めるべく備前へと侵攻していた。だが、陶晴賢が戦死してから石見銀山の大内氏勢力が後退したこともあって、この隙を突く形で石見銀山を奪回。銀山付近の忍原へと進出してきた吉川元春・宍戸隆家軍を撃破している(忍原崩れ)。毛利氏が石見銀山を奪回するのは、永禄年間の雲芸和議まで待たねばならなくなった。
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