勢力争いとは? わかりやすく解説

勢力争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:45 UTC 版)

細川勝元」の記事における「勢力争い」の解説

応仁の乱敵対関係至ったため、細川勝元山名持豊(宗全)は不仲であったとされているが、始めはそうではなかった。当時細川京兆家一族全てで9ヶ国の守であったのに対し山名氏赤松氏嘉吉の乱滅ぼした功績から旧赤松領を併せて8ヶ国の守になっていた。このため勝元は持豊と争うことは得策ではないと考え文安4年1447年)に持豊の養女正室迎えることで協調することにしていたのであるまた、政敵畠山持国対抗する意味からも持豊と手を組む必要があった。 畠山持国6代将軍足利義教家督追われた元当主復帰を図ると勝元はそれに対抗して義教取り立てられ大名国人支持持国信濃国守護小笠原持長任命、元加賀国守護富樫教家・成春父子支持大和国では元興福寺別当経覚越智家栄古市胤仙小泉重弘豊田頼英支援した勝元はこれに対して小笠原宗康・光康兄弟富樫泰高支持大和経覚派と敵対している成身院光宣筒井順永支援信濃加賀大和持国勝元代理戦争頻発した文安2年1445年)に近江国反乱起こした六角時綱を時綱の弟久頼と京極持清鎮圧させた。 宝徳2年1450年)に主君である和泉守細川常有(細川元有の父)と対立して持国古市胤仙頼った守護代宇高有光殺害される事件起こったが、その件にも勝元関与可能性指摘されている。宝徳3年1451年)、兵庫津入港していた琉球商船のもとへ勝元が人を送り商物を選って取得しながら代金支払いをせず、琉球商人幕府訴え足利義政三人奉行送って究明させたが、勝元押し取った物を返さないという事件を起こした(『康富記』)。享徳2年1453年)に伊予守護職を河野教通から河野通春改替するが、実は勝元が教通を支持する義政内緒御教書・奉書などを作成したもので、5月その事実が発覚して義政責められ勝元引責辞任表明しているが義政説得最終的に留任した(『康富記』)。2年後享徳4年1455年)に自分伊予守となったその後伊予守護職は通春に戻されたが、通春を傀儡として伊予支配目指し勝元の策は通春に拒絶されるところとなり、分家阿波国守護細川成之と通春が戦ったため、勝元と通春も対立していった。 享徳3年1454年)、畠山氏家督をめぐる内紛起こった時には持国失脚させるため、舅にあたる持豊と共に持国の甥弥三郎支援して持国推す実子義就を追放追い込んだ。しかし8代将軍足利義政嘉吉の乱没落した赤松氏再興支援しようとすると、赤松氏旧領守護国に持つ持豊は赤松氏再興強硬に反対した。このため、持豊は義政から追討を受けそうになるが、この時は勝元弁護したため、持豊は追討免れたこの前後に持豊は出家し、宗全と名乗った)。宗全が赤松則尚討伐のため但馬国下向した直後に義就が上洛弥三郎追放し翌年持国の死で義政から当主認められたため、両者対抗して畠山氏引き抜き図った義政謀略とされる義政側近となった義就だったが、無断大和軍事介入したことから義政信頼失い一方勝元弥三郎と反義就派の大和国人への支援続け長禄3年1459年)に弥三郎成身院光宣筒井順永箸尾宗信赦免取り付けた弥三郎同年没したが、弟の政長を支援して4年1460年)に義就から政長に家督交替、義就が嶽山城の戦い経て吉野没落した後の寛正5年1464年)に管領職を政長に交替した。 しかし山名氏勢力勝元想像以上急速に拡大したため、勝元は宗全の勢力拡大危険視するようになり、斯波氏家督争い武衛騒動)でも姻戚関係から斯波義廉支持する宗全に対し勝元は義廉と対立する斯波義敏支持したまた、宗全がかねてから反対していた赤松氏再興問題に関して勝元積極的に支援しついには赤松政則赤松満祐の弟義雅の孫)を加賀国の守護と成し赤松家再興させたのである。 さらに勝元勘合貿易問題から大内教弘・政弘父子河野通春らと敵対していたが、宗全はこれを支援するなどしたことから、細川山名対立構造生じ始めたこのため勝元庶流の上野家出身細川賢氏を伊予守護職に任じて通春を討伐させようとした。また、始め継嗣のいなかった勝元は、宗全の末子豊久養子にしていたが、文正元年1466年)に実子政元の誕生後豊久廃嫡して仏門入れるなど関係の悪化は明白となった山名血を引く政元を遠ざけ分家野州家から勝之を猶子迎えたとも)。寛正3年1462年)に宗全の次男是豊を備後国安芸国守護任命、義就討伐参戦させ、寛正5年山城国守護任命したことも宗全への対抗とされる文正元年義政正室日野富子息子義尚誕生して足利将軍家でも将軍後継者めぐって争いが始まる。この時、義政側近伊勢貞親季瓊真蘂義政当初後継者指名していた弟の足利義視廃嫡義尚将軍後継義政提言した。しかし義視支持していた勝元はこれに反対、宗全も貞親が幕府内において権勢強めていたことを苦々しく思っていたことから、この時は勝元賛同し共に義政に対して貞親と真蘂の追放訴え、これを強硬に実現させた(文正の政変)。斯波義敏赤松政則失脚したが、後に復権している。 これにより将軍家内部実力者がいなくなると、宗全は12月追放されていた畠山義就上洛させ、義政仲介して赦免許しを出させた。さらに宗全は応仁元年1467年1月義政強請して勝元支援する畠山政長管領職を取り上げて出仕停止処分処し代わりに宗全が支援する斯波義廉管領任命させたのである。ここに至って勝元と宗全の武力衝突避けられないものとなった

※この「勢力争い」の解説は、「細川勝元」の解説の一部です。
「勢力争い」を含む「細川勝元」の記事については、「細川勝元」の概要を参照ください。

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