家督争いとは? わかりやすく解説

お家騒動

(家督争い から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/01 10:01 UTC 版)

お家騒動御家騒動、おいえそうどう)は、江戸時代大名家における内紛である。現代においては、比喩的に企業同族経営の会社に多い)や家族といった組織における内部抗争をお家騒動に擬えて呼ぶことがある。

概要

江戸時代の大名家では、藩主やその一族、家老などの一団の領袖となりうる立場の人間が派閥を作りあげて内紛を繰り広げた例が数多くあった。そのような事象が脚色されて、歌舞伎狂言御家物と呼ばれる様式の題材となって伝わったり、講談を通じて広まったことにより、お家騒動として江戸の庶民に知られるようになる。そのために演目とすることがはばかられた将軍家や、内訌の規模が小さい旗本や商家、農家におけるもめごとはお家騒動とは認知されていなかった。

抗争の原因として最も多いのは、家臣間の対立である。古参ともいうべき譜代の家臣と新参の家臣や出頭人との対立、当主の代替わりにおける役職交代による軋轢、藩政改革にともなう守旧派と改革派の対立、幕末期における信条の対立など、家臣間には主導権や藩政の方向性をめぐってあらゆる派閥抗争の動機があった。

また、藩主と家臣団の軋轢を要因としてお家騒動を起こした例もあった。有力な家臣を排除することで自身の権力を強化しようする藩主がいる一方で、家臣にとって不利益だったり、無能な主君を隠居押込などの手段で廃立しようとする家臣も存在した。また、諍いが原因で大名家を出奔した家臣がお家騒動の発端をつくった例もある。

その他では家督相続や養子縁組が事由の抗争も発生した。加賀騒動黒田騒動伊達騒動の「三大お家騒動」などではこれらの原因がいくつも複合していた。

こうした内紛は大名家中で解決するのがならわしであったが、問題を幕府や本家、親族の大名に訴え出ることで仲介や裁定を頼んだ当事者もいた。特に江戸時代初期の騒動では、求めに応じた幕府が審理にもとづいて大名家に介入し、改易や減封、転封などの処置を下している。しかし江戸中期徳川家宣の治世を経て、幕府は政策を改めて関与を徐々に減らし、19世紀はじめの仙石騒動を最後に、お家騒動への介入は行っていない。

研究史

戦後実証主義的な歴史学が興るまでは、勧善懲悪的な倫理観や史観から「忠臣」や「奸臣」といった儒教的評価による評論に終始していたが、戦後の実証研究では1965年(昭和40年)に北島正元が『御家騒動』を刊行し、従来の実録講談類の文芸作品による虚構を廃し、幕藩体制論の視点から個別の御家騒動を検討した。

北島以降も御家騒動研究は、一次資料に依拠し勧善懲悪史観を離れた視点による方法論が基本となり、吉永昭は個別御家騒動に関する把握を行い、笠谷和比古1988年昭和63年)に主君押込論を提唱した。また、福田千鶴は御家騒動の体系的な研究を行なっている。

御家騒動の分析は中世から近世にかけての家中意識(中世武士団から近世家臣団)の変化を探る上でも注目されているほか、幕藩体制論における御家騒動の位置付けも従来の幕府による諸大名家取り潰しの政策であったとする見解にも疑問が唱えられている。

また主従関係や性欲(男色)・名誉(意地)など武家の心性に関する検討も盛んになり、御家騒動は日本社会における組織や行動原理の起源に求め得るテーマとしても注目されている。従来は方法論として排除されてきた実録・講談類の文芸作品も、近世における慰霊・鎮魂意識や政治的利用、虚構の成立経緯や歴史的役割を検討することが行われはじめている。

主なお家騒動

江戸時代以前の家督争い・内紛

現代の「お家騒動」

ロッテお家騒動」のように、企業の経営陣内で対立が起き退職し新会社を設立したケースや、社長など経営陣がクーデターを起こされ解任されたケースなどが比喩的に「お家騒動」と呼ばれる場合がある。

脚注

注釈

  1. ^ 1749年寛延2年)からの前橋藩から姫路藩への転封工作を原因とするため。

出典

参考文献

関連項目


家督争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 03:52 UTC 版)

畠山義就」の記事における「家督争い」の解説

文安5年1448年11月、持富への相続撤回され室町幕府8代将軍足利義成(後の義政)から裁可得た持国庶子(義就)が新たにその後継者と定められ元服して義成偏諱(「義」の字)を受けて次郎義夏(畠山義夏)と名乗った。翌文安6年1449年)に父に代わって椀飯役目務め宝徳3年1451年)に伊予守叙任されるなど持国後継者であることを示した。ところが義夏への相続守護代神保氏など被官らの理解得られず、持富の子である弥三郎旗頭とした反抗勢力形成される享徳3年1454年4月3日持国弥三郎擁立しようとした家臣達を追放するが、弥三郎細川勝元山名宗全大和の国人である筒井氏までもが支持8月21日弥三郎派に襲撃され形勢不利となった義夏は京都から伊賀逃れ入れ替わり義政から赦免され弥三郎9月に再び上洛。しかし、義政怒り買った宗全は12月3日隠居領国播磨挙兵し赤松則尚を討つため6日下向したが、1週間後13日に義夏が河内から上洛して弥三郎を再び追い落とした。翌享徳4年1455年2月に義就と改名し右衛門佐叙任3月26日持国死去により家督継承した享徳4年2月7日義政大和国弥三郎協力しないことを伝え、義就も分家能登守護畠山義忠幕府奉公衆と共に河内・大和転戦大和国越智家栄味方として弥三郎支持大和国成身院光宣筒井順永箸尾宗信らを追い落として宇智郡領有した。 ところが、康正3年1457年7月大和争乱起こった際、義就は義政の上意と偽って家臣派遣したが、これが義政怒り触れて所領没収された。義就派の大和国人の所領横領問題にされ、義政から国人への治罰命令伝えられ義政撤回求めて聞き入れられなかった。同時に9月には勝元所領である山城木津にも上意詐称攻撃し次第義政信頼失っていった。翌長禄2年1458年9月に宗全と共に石清水八幡宮八幡神討伐赴いた長禄3年1459年6月弥三郎派の成身院光宣筒井順永らが勝元軍勢守られ大和帰国越智家栄交戦したため、義就は援軍派遣したが、光宣訴え細川軍の大和派遣決まり合わせて7月23日には弥三郎赦免となったため義就派は不利となり、越智家栄敗れて没落光宣らは勢力回復した弥三郎間もなく死去したが、弟の政長が弥三郎派から新たに擁立され、義就との対立継続された。 長禄4年1460年5月10日分国紀伊国根来寺畠山軍が合戦起こし畠山軍が大敗した。義就は報復のため京都から紀伊援軍派遣したが、9月16日幕府から政長に家督を譲るよう命じられ20日河内没落劣勢為に政長に家督奪われた上、綸旨による討伐対象定められたことにより朝敵貶められた。10月大和国龍田で政長・光宣らに敗れたのち12月嶽山城大阪府富田林市)に籠城し、討伐下ってきた政長、光宣細川軍、大和国衆らの兵と2年以上も戦った嶽山城の戦い)。寛正4年1463年4月15日成身院光宣計略により嶽山城陥落し、義就は紀伊、のち吉野逃れた。 翌寛正5年1464年)、畠山氏家督相続公認された政長は、勝元から管領職を譲られた。

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