お家騒動
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お家騒動(御家騒動、おいえそうどう)は、江戸時代の大名家における内紛である。現代においては、比喩的に企業(同族経営の会社に多い)や家族といった組織における内部抗争をお家騒動に擬えて呼ぶことがある。
概要
江戸時代の大名家では、藩主やその一族、家老などの一団の領袖となりうる立場の人間が派閥を作りあげて内紛を繰り広げた例が数多くあった。そのような事象が脚色されて、歌舞伎・狂言の御家物と呼ばれる様式の題材となって伝わったり、講談を通じて広まったことにより、お家騒動として江戸の庶民に知られるようになる。そのために演目とすることがはばかられた将軍家や、内訌の規模が小さい旗本や商家、農家におけるもめごとはお家騒動とは認知されていなかった。
抗争の原因として最も多いのは、家臣間の対立である。古参ともいうべき譜代の家臣と新参の家臣や出頭人との対立、当主の代替わりにおける役職交代による軋轢、藩政改革にともなう守旧派と改革派の対立、幕末期における信条の対立など、家臣間には主導権や藩政の方向性をめぐってあらゆる派閥抗争の動機があった。
また、藩主と家臣団の軋轢を要因としてお家騒動を起こした例もあった。有力な家臣を排除することで自身の権力を強化しようする藩主がいる一方で、家臣にとって不利益だったり、無能な主君を隠居や押込などの手段で廃立しようとする家臣も存在した。また、諍いが原因で大名家を出奔した家臣がお家騒動の発端をつくった例もある。
その他では家督相続や養子縁組が事由の抗争も発生した。加賀騒動、黒田騒動、伊達騒動の「三大お家騒動」などではこれらの原因がいくつも複合していた。
こうした内紛は大名家中で解決するのがならわしであったが、問題を幕府や本家、親族の大名に訴え出ることで仲介や裁定を頼んだ当事者もいた。特に江戸時代初期の騒動では、求めに応じた幕府が審理にもとづいて大名家に介入し、改易や減封、転封などの処置を下している。しかし江戸中期の徳川家宣の治世を経て、幕府は政策を改めて関与を徐々に減らし、19世紀はじめの仙石騒動を最後に、お家騒動への介入は行っていない。
研究史
戦後に実証主義的な歴史学が興るまでは、勧善懲悪的な倫理観や史観から「忠臣」や「奸臣」といった儒教的評価による評論に終始していたが、戦後の実証研究では1965年(昭和40年)に北島正元が『御家騒動』を刊行し、従来の実録・講談類の文芸作品による虚構を廃し、幕藩体制論の視点から個別の御家騒動を検討した。
北島以降も御家騒動研究は、一次資料に依拠し勧善懲悪史観を離れた視点による方法論が基本となり、吉永昭は個別御家騒動に関する把握を行い、笠谷和比古は1988年(昭和63年)に主君押込論を提唱した。また、福田千鶴は御家騒動の体系的な研究を行なっている。
御家騒動の分析は中世から近世にかけての家中意識(中世武士団から近世家臣団)の変化を探る上でも注目されているほか、幕藩体制論における御家騒動の位置付けも従来の幕府による諸大名家取り潰しの政策であったとする見解にも疑問が唱えられている。
また主従関係や性欲(男色)・名誉(意地)など武家の心性に関する検討も盛んになり、御家騒動は日本社会における組織や行動原理の起源に求め得るテーマとしても注目されている。従来は方法論として排除されてきた実録・講談類の文芸作品も、近世における慰霊・鎮魂意識や政治的利用、虚構の成立経緯や歴史的役割を検討することが行われはじめている。
主なお家騒動
- 1603年(慶長8年):横田騒動(中村氏 - 米子藩)
- 1603年(慶長8年):川井事件(佐竹氏 - 久保田藩)
- 1608年(慶長13年):筒井騒動(筒井氏 - 伊賀上野藩)
- 1610年(慶長15年):越後福嶋騒動(堀氏 - 高田藩)
- 1612年(慶長17年):越前騒動(越前松平家 - 福井藩)
- 1617年(元和3年):最上騒動(最上氏 - 山形藩)
- 1618年(元和4年):牛方馬方騒動(加藤氏 - 熊本藩)
- 1620年(元和6年):和霊騒動(山家清兵衛事件、伊達氏 - 宇和島藩)
- 1626年(寛永3年):柳川一件(宗氏 - 対馬藩)
- 1626年(寛永3年):上方下方騒動(秋月氏 - 高鍋藩)
- 1630年(寛永7年):寛永蒲生騒動(蒲生氏 - 伊予松山藩)
- 1633年(寛永10年):黒田騒動(栗山大膳事件、黒田氏 - 福岡藩)
- 1633年(寛永10年):海部騒動(益田豊後事件、蜂須賀氏 - 徳島藩)
- 1634年(寛永11年):船橋騒動(津軽氏 - 弘前藩)
- 1635年(寛永12年):津和野騒動(塩治騒動、亀井氏 - 津和野藩)
- 1639年(寛永16年):会津騒動(加藤氏 - 会津藩)
- 1640年(寛永17年):生駒騒動(生駒氏 - 高松藩)
- 1640年(寛永17年):池田騒動(池田氏 - 山崎藩)
- 1640年(寛永17年):お下の乱(相良氏 - 人吉藩)
- 1646年(正保3年) :酒井長門守一件(酒井氏 - 庄内藩)
- 1648年(慶安元年):丹波福知山騒動(稲葉騒動、稲葉氏 - 福知山藩)
- 1648年(慶安元年):古田騒動(古田氏 - 浜田藩)
- 1648年(慶安元年):喜連川騒動(喜連川氏 - 喜連川藩)
- 1660年(万治3年):伊達騒動(綱宗隠居事件、伊達氏 - 仙台藩)
- 1665年(寛文5年):伊達騒動(寛文事件、伊達氏 - 仙台藩)
- 1679年(延宝7年):越後騒動(高田騒動、越前松平家 - 高田藩)
- 1680年(延宝8年):小姓騒動(内藤氏 - 磐城平藩)
- 1687年(貞享4年):烏山騒動(那須氏 - 烏山藩)
- 1697年(元禄10年):伊達騒動(綱村隠居事件、伊達氏 - 仙台藩)
- 1702年(元禄15年):丹羽家騒動(一色丹羽氏 - 岩村藩)
- 1710年(宝永7年):野村騒動(久松松平氏 - 桑名藩)
- 1748年(寛延元年):加賀騒動(前田氏 - 加賀藩)
- 1751年(宝暦元年):水野騒動(水野氏 - 岡崎藩)
- 1751年(宝暦元年):姫路騒動(酒井氏 - (前橋藩 - ) 姫路藩[1])
- 1753年(宝暦3年):安藤騒動(安藤氏 - 加納藩)
- 1757年(宝暦7年):秋田騒動(佐竹氏 - 久保田藩)
- 1758年(宝暦8年):石徹白騒動(金森氏 - 郡上藩)
- 1759年(宝暦9年):竹鉄砲事件(相良氏 - 人吉藩)
- 1773年(安永2年):七家騒動(七家訴状事件、上杉氏 - 米沢藩)
- 1803年(享和3年):小笠原騒動(小笠原氏 - 小倉藩、歌舞伎の演目小笠原諸礼忠孝の元となった)
- 1808年(文化5年):近思録崩れ(文化朋党事件 / 秩父崩れ、島津氏 - 薩摩藩)
- 1811年(文化8年):白黒騒動(小笠原氏 - 小倉藩)
- 1814年(文化11年):八柳騒動(戸沢氏 - 新庄藩)
- 1824年(文政7年):仙石騒動(仙石氏 - 出石藩)
- 1849年(嘉永2年):お由羅騒動(嘉永朋党事件 / 高崎崩れ、島津氏 - 薩摩藩)
- 1863年(文久3年):土佐勤王党の獄(山内氏 - 土佐藩)
- 1865年(元治元年):功山寺挙兵(元治の内乱、毛利氏 - 長州藩)
- 1865年(慶応元年):乙丑の獄(黒田氏 - 福岡藩)
- 1868年(慶応4年):青松葉事件(尾張徳川家 - 尾張藩)
- 1868年(慶応4年):鞠山騒動(若狭酒井家 - 敦賀藩)
- 1870年(明治3年):庚午事変(稲田騒動、蜂須賀氏 - 徳島藩)
- 1879年(明治12年):相馬事件(旧中村藩主、相馬氏)
江戸時代以前の家督争い・内紛
- 996年(長徳2年):長徳の変(藤原氏の内紛)
- 1205年(元久4年):牧氏事件(北条氏一門の内紛)
- 1246年(寛元4年):宮騒動(北条氏一門の内紛)
- 1272年(文永9年):二月騒動(北条氏の内紛)
- 1305年(嘉元3年):嘉元の乱(北条氏の内紛)
- 1326年(正中3年):嘉暦の騒動(北条得宗の家督争い)
- 1350年(正平5年/観応元年):観応の擾乱(足利氏の内紛)
- 1458年(長禄2年):長禄合戦(越前守護斯波氏と守護代甲斐氏による主導権争い)
- 1465年(寛正6年):武衛騒動(斯波氏の家督争い)
- 1470年(文明2年):京極騒乱(京極氏の家督争い。応仁の乱と同時期に発生した)
- 1507年(永正4年):永正の錯乱(細川氏の家督争い)
- 1536年(天文5年):花倉の乱(今川氏の家督争い)
- 1541年(天文10年):信虎追放事件(甲斐武田氏における当主追放事件)
- 1542年(天文11年):天文の乱(伊達氏の内紛、主君押込)
- 1550年(天文19年):二階崩れの変(大友氏の家督争い)
- 1556年(弘治2年):長良川の戦い(斎藤氏の内紛)
- 1556年(弘治2年):稲生の合戦(織田氏の内紛)
- 1563年(永禄6年):観音寺騒動(六角氏の内紛)
- 1567年(永禄10年):義信事件(甲斐武田氏の内紛)
- 1578年(天正6年):御館の乱(上杉氏の家督争い)
- 1579年(天正7年):信康事件(徳川氏の内紛)
- 1590年(天正18年):鍋島騒動(鍋島氏の主家龍造寺氏に代わる藩主就任)
- 1595年(文禄4年):秀次事件(豊臣氏の内紛)
- 1595年(文禄4年):蒲生騒動(蒲生氏の内紛。幼君蒲生秀行を巡る重臣間の騒乱)
- 1599年(慶長4年):庄内の乱(島津氏の内紛、重臣伊集院氏を誅殺・粛清)
- 1599年(慶長4年):宇喜多騒動(宇喜多氏の内紛)
現代の「お家騒動」
「ロッテお家騒動」のように、企業の経営陣内で対立が起き退職し新会社を設立したケースや、社長など経営陣がクーデターを起こされ解任されたケースなどが比喩的に「お家騒動」と呼ばれる場合がある。
参考文献
- 『別冊歴史読本 御家騒動読本』宮崎美友編、 新人物往来社、1991年、446-459頁。
- 福田千鶴『幕藩制的秩序と御家騒動』校倉書房、1999年。
- 福田千鶴 『御家騒動』 中央公論新社 (中公新書)、2005年。
関連項目
- 主君押込
- 家制度・家父長制・本家・家意識 - いずれも旧民法で定められた制度であったが、撤廃から80年近く経っても家庭内ではこれらを引き摺って些細なことでもお家騒動に発展することが多々起きている。それゆえ、テレフォン人生相談などの人生相談番組ではネタになることも少なくない。
- 内紛
- 分裂 (企業等)
脚注
家督争い
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文安5年(1448年)11月、持富への相続は撤回され、室町幕府8代将軍足利義成(後の義政)から裁可を得た持国の庶子(義就)が新たにその後継者と定められ、元服して義成の偏諱(「義」の字)を受けて次郎義夏(畠山義夏)と名乗った。翌文安6年(1449年)に父に代わって椀飯の役目を務め、宝徳3年(1451年)に伊予守に叙任されるなど持国の後継者であることを示した。ところが義夏への相続は守護代の神保氏など被官らの理解を得られず、持富の子である弥三郎を旗頭とした反抗勢力を形成される。 享徳3年(1454年)4月3日に持国が弥三郎を擁立しようとした家臣達を追放するが、弥三郎を細川勝元・山名宗全や大和の国人である筒井氏までもが支持。8月21日に弥三郎派に襲撃され、形勢不利となった義夏は京都から伊賀へ逃れ、入れ替わりに義政から赦免された弥三郎が9月に再び上洛。しかし、義政の怒りを買った宗全は12月3日に隠居、領国播磨で挙兵した赤松則尚を討つため6日に下向したが、1週間後の13日に義夏が河内から上洛して弥三郎を再び追い落とした。翌享徳4年(1455年)2月に義就と改名して右衛門佐に叙任、3月26日の持国の死去により家督を継承した。 享徳4年2月7日、義政は大和国に弥三郎に協力しないことを伝え、義就も分家の能登守護畠山義忠と幕府奉公衆と共に河内・大和に転戦、大和国人越智家栄を味方として弥三郎支持の大和国人成身院光宣・筒井順永・箸尾宗信らを追い落として宇智郡を領有した。 ところが、康正3年(1457年)7月に大和の争乱が起こった際、義就は義政の上意と偽って家臣を派遣したが、これが義政の怒りに触れて所領を没収された。義就派の大和国人の所領横領も問題にされ、義政から国人への治罰の命令が伝えられ、義政へ撤回を求めても聞き入れられなかった。同時に9月には勝元の所領である山城木津にも上意の詐称で攻撃し、次第に義政の信頼を失っていった。翌長禄2年(1458年)9月に宗全と共に石清水八幡宮の八幡神人討伐に赴いた。 長禄3年(1459年)6月、弥三郎派の成身院光宣・筒井順永らが勝元の軍勢に守られ大和へ帰国、越智家栄と交戦したため、義就は援軍を派遣したが、光宣の訴えで細川軍の大和派遣が決まり、合わせて7月23日には弥三郎が赦免となったため義就派は不利となり、越智家栄は敗れて没落、光宣らは勢力を回復した。弥三郎は間もなく死去したが、弟の政長が弥三郎派から新たに擁立され、義就との対立が継続された。 長禄4年(1460年)5月10日、分国の紀伊国で根来寺と畠山軍が合戦を起こし、畠山軍が大敗した。義就は報復のため京都から紀伊へ援軍を派遣したが、9月16日に幕府から政長に家督を譲るよう命じられ、20日に河内へ没落、劣勢の為に政長に家督を奪われた上、綸旨による討伐対象に定められたことにより朝敵に貶められた。10月に大和国龍田で政長・光宣らに敗れたのち12月に嶽山城(大阪府富田林市)に籠城し、討伐に下ってきた政長、光宣、細川軍、大和国人衆らの兵と2年以上も戦った(嶽山城の戦い)。寛正4年(1463年)4月15日に成身院光宣の計略により嶽山城は陥落し、義就は紀伊、のち吉野へ逃れた。 翌寛正5年(1464年)、畠山氏の家督相続を公認された政長は、勝元から管領職を譲られた。
※この「家督争い」の解説は、「畠山義就」の解説の一部です。
「家督争い」を含む「畠山義就」の記事については、「畠山義就」の概要を参照ください。
家督争い
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詳細は「御館の乱」を参照 天正6年(1578年)3月13日、謙信が病没すると、義兄弟の上杉景勝との家督を巡る対立が上杉家の内訌に発展し、御館の乱となる。上杉景信・本庄秀綱・北条高広らの支持を集め、実家である後北条家とその同盟国である武田家の後ろ盾もあり、当初は景虎が優勢であった。これに対し、景勝側はいち早く春日山城本丸・金蔵を奪取した。5月13日、景虎は妻子らを連れて春日山城を脱出し、城下にある御館(前関東管領である上杉憲政の屋敷)に立て籠もった。北条氏は主力が佐竹・宇都宮連合軍と対陣中だったこともあり、甲相同盟に基づいて武田勝頼に景虎への援軍を打診し、勝頼は同年5月に信越国境まで出兵した。 同年6月に景勝方は勝頼との和睦交渉を開始した。北信地域における上杉領の割譲を条件に和睦が成立し、甲越同盟が締結された。6月中に勝頼は越府に着陣すると、景勝と景虎間の調停を開始した。同年8月に景虎と景勝は一時的に和睦するが、8月中に三河国の徳川氏が駿河の武田領国へ侵攻すると、勝頼は越後から撤兵し、景虎・景勝間の和睦も破綻した。一方で北条氏は北条氏照・氏邦らが三国峠を越えて越後に侵入し、荒戸城を落としさらに景勝の拠点であった坂戸城の至近である樺沢城をも落としてこれを本陣とした。樺沢城の北条軍はしかしそれ以上を進めず、樺戸城に氏邦勢と北条高広・北条景広らを残して、三国峠に冬が来る前に関東に一旦撤兵した。 景勝はこの機を逃さず攻勢を強め、翌天正7年(1579年)、まだ三国峠の雪が解けぬ前に御館は落城した。景虎正室は実弟・景勝による降伏勧告を拒絶して自害した。通説では24歳とされる。嫡男の道満丸も上杉憲政に連れられ景勝の陣へと向かう途中に、憲政ともども何者かに殺害された。孤立無援となった景虎は、実家の北条氏を頼って小田原城に逃れようとした。しかしその途上において鮫ヶ尾城主堀江宗親の謀反に遭い、自害した。享年26とされる。法名は「徳源院要山浄公」。 こうして御館の乱は景勝方が制するが、景虎方の敗北は甲相同盟の破綻に至り、以降の地域情勢にも大きく影響した。 墓所について、『北越軍記』によると常安寺とあるが、実際には常安寺には景虎の墓はないため不明である。また、新潟県妙高市の勝福寺には景虎の供養塔がある。
※この「家督争い」の解説は、「上杉景虎」の解説の一部です。
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家督争い
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文明8年(1476年)に父が遠江国の塩買坂での戦いにおいて、横地氏・勝間田氏ら遠江地元国人衆の残党に襲われ戦死した。龍王丸(たつおうまる、氏親の幼名)は未だ幼少だったため、家臣の三浦氏、朝比奈氏らが父の従兄弟の小鹿範満を擁立して家督争いが起こり、龍王丸派と範満派が分かれて数度の合戦に及ぶ事態になった。また、父の義忠の死の原因になった横地氏・勝間田氏の斯波氏への内通は、幕府が任命した正規の遠江守護(斯波義良、後の斯波義寛)への帰参であった形式とされるため、これを妨害した義忠は幕府への反逆者とみなされ、遺児の龍王丸も家督継承どころか、反逆者の一族として討伐される可能性もあった。このために氏親は母とともに身を隠したと考えられている。 堀越公方足利政知の執事の上杉政憲と扇谷上杉家家宰の太田道灌が兵を率いて、駿河国へ進駐して家督争いに介入した。これに氏親の叔父の伊勢新九郎が仲裁に入り、範満が龍王丸の後見人として家督を代行する、という形で決着した。伊勢新九郎が一介の素浪人と考えられていた頃は、抜群の知略による後の北条早雲の飛躍の第一歩のように語られていたが、近年の研究で伊勢氏の一族の幕臣伊勢盛時であることがほぼ明らかになっており、室町幕府の意向を受けて盛時が駿河へ下向して、今川家の内紛を調停したと考えられている。 家督の代行となった範満が今川館に入り、龍王丸は母の北川殿とともに小川の法永長者(長谷川正宣)の屋敷である小川城(焼津市)に身を寄せた。文明11年(1479年)、盛時は幕府に申請して、前将軍・足利義政の名による龍王丸の家督継承の内書を得ている。 数年後、龍王丸は15歳を過ぎて成人したが、範満は家督を返そうとはせず、家督奪取の動きを見せて龍王丸を圧迫した。文明19年(1487年)、北川殿と龍王丸は京都で9代将軍足利義尚に仕えていた盛時に助けを求め、盛時は再び駿河へ下向した。同年11月、盛時は石脇城(現在の静岡県焼津市)を拠点に兵を集めて今川館を襲撃し、範満を討った。範満が頼りにしていた太田道灌は既に主君の上杉定正に殺害され、堀越公方足利政知は幕府との関係から龍王丸支持へと立場を切り替えていた状況下で行われたとみられている。 通説では、龍王丸は今川館に入って元服して氏親(「氏」の字は本家・足利氏の通字に由来)と名乗り、今川家の当主となったとされている。しかし、この通説には2つの問題点があるとされる。1つは『今川家譜』・『宇津山記』によれば、範満襲撃以前より住んでいた丸子館を家督継承後もしばらくの間本拠にしていたと推測される点であり、もう1つは、通常の武家の元服は15歳前後であるのに、氏親は19歳(もしくは21歳)にあたる延徳3年(1491年)まで龍王丸の名乗りを用い、その後、明応3年(1494年)9月まで黒朱印の印判状を発行(後述)し、翌4年(1495年)になって初めて「氏親」の署名や花押のある文書が登場するという点である。前者については、史学者の黒田基樹は「対外戦争と並行して行われた国内平定が明応4年ごろに完了して、氏親が駿河一国を掌握したのを機に本拠を今川館に移した」と推測している。また、後者については明応4年以前に元服していたとする説があり、例えば史学者の家永遵嗣は『今川記』の異本である『富麗記』の記述により、「堀越公方足利政知が晩年に古河公方討滅を意識して「氏満」と名乗った上で龍王丸に偏諱を与えて「氏親」と名乗らせたが、延徳3年(1491年)に政知が死去して堀越公方と今川氏が対立関係となり、反対に一時的に古河公方との関係改善が図られる中で、この元服と偏諱の事実を秘匿する必要があったが、最終的に堀越公方は没落して古河公方との関係修繕も失敗したために、公然と「氏親」と称するようになった」とする。これについて黒田基樹は「『富麗記』に記された政知の改名の事実を裏付ける史料などは発見されていないためこの説を採用することは出来ず、20歳を過ぎても元服も諱を持たないことも異質ではあるものの、氏親の今川館入城の問題と共に国内問題と考えるしかないのではないか」、と推測している。 これより前、同年10月に龍王丸は大名で初めての印判状の文書を発給している(定着はせず、後に通常の花押を用いるようになっている)。ただし、前述の問題を踏まえると文明19年(1487年)から明応3年(1494年)まで氏親が元服できなかった(花押が持てなかった)事態を反映していた可能性がある。 氏親の家督継承に功績があった叔父の盛時には、富士下方12郷と興国寺城が与えられた他、御一家(後述)と同様の待遇が与えられたとみられている。黒田基樹は「国内平定の過程で、それまで堀越公方や扇谷上杉家などの影響力が及んでいた駿河東部にも今川氏の支配が及んだ結果、盛時が興国寺城に入ることになった」と推測している。 氏親には男兄弟がいなかったこともあり、今川氏の一族などを「御一家」として重用し、氏親の補佐や時には職務の一部の代行をさせている。永正10年(1513年)に駿府を訪問した冷泉為広の日記によれば、今川民部少輔(小鹿範満の甥・孫五郎と推定される)・瀬名源五郎(瀬名氏貞)・葛山八郎(葛山氏広)・関口刑部少輔(関口氏兼)・新野(遠江新野氏か)・名古屋新五郎(今川名古屋氏か)の6名が挙げられ、母方の叔父である伊勢盛時もその一人と考えられている。
※この「家督争い」の解説は、「今川氏親」の解説の一部です。
「家督争い」を含む「今川氏親」の記事については、「今川氏親」の概要を参照ください。
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