家督争いとは? わかりやすく解説

お家騒動

(家督争い から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/12 05:35 UTC 版)

お家騒動御家騒動、おいえそうどう)は、江戸時代大名家における内紛である。現代においては、比喩的に企業同族経営の会社に多い)や家族といった組織における内部抗争をお家騒動に擬えて呼ぶことがある。

概要

江戸時代の大名家では、藩主やその一族、家老などの一団の領袖となりうる立場の人間が派閥を作りあげて内紛を繰り広げた例が数多くあった。そのような事象が脚色されて、歌舞伎狂言御家物と呼ばれる様式の題材となって伝わったり、講談を通じて広まったことにより、お家騒動として江戸の庶民に知られるようになる。そのために演目とすることがはばかられた将軍家や、内訌の規模が小さい旗本や商家、農家におけるもめごとはお家騒動とは認知されていなかった。

抗争の原因として最も多いのは、家臣間の対立である。古参ともいうべき譜代の家臣と新参の家臣や出頭人との対立、当主の代替わりにおける役職交代による軋轢、藩政改革にともなう守旧派と改革派の対立、幕末期における信条の対立など、家臣間には主導権や藩政の方向性をめぐってあらゆる派閥抗争の動機があった。

また、藩主と家臣団の軋轢を要因としてお家騒動を起こした例もあった。有力な家臣を排除することで自身の権力を強化しようする藩主がいる一方で、家臣にとって不利益だったり、無能な主君を隠居押込などの手段で廃立しようとする家臣も存在した。また、諍いが原因で大名家を出奔した家臣がお家騒動の発端をつくった例もある。

その他では家督相続や養子縁組が事由の抗争も発生した。加賀騒動黒田騒動伊達騒動の「三大お家騒動」などではこれらの原因がいくつも複合していた。

こうした内紛は大名家中で解決するのがならわしであったが、問題を幕府や本家、親族の大名に訴え出ることで仲介や裁定を頼んだ当事者もいた。特に江戸時代初期の騒動では、求めに応じた幕府が審理にもとづいて大名家に介入し、改易や減封、転封などの処置を下している。しかし江戸中期徳川家宣の治世を経て、幕府は政策を改めて関与を徐々に減らし、19世紀はじめの仙石騒動を最後に、お家騒動への介入は行っていない。

研究史

戦後実証主義的な歴史学が興るまでは、勧善懲悪的な倫理観や史観から「忠臣」や「奸臣」といった儒教的評価による評論に終始していたが、戦後の実証研究では1965年(昭和40年)に北島正元が『御家騒動』を刊行し、従来の実録講談類の文芸作品による虚構を廃し、幕藩体制論の視点から個別の御家騒動を検討した。

北島以降も御家騒動研究は、一次資料に依拠し勧善懲悪史観を離れた視点による方法論が基本となり、吉永昭は個別御家騒動に関する把握を行い、笠谷和比古1988年昭和63年)に主君押込論を提唱した。また、福田千鶴は御家騒動の体系的な研究を行なっている。

御家騒動の分析は中世から近世にかけての家中意識(中世武士団から近世家臣団)の変化を探る上でも注目されているほか、幕藩体制論における御家騒動の位置付けも従来の幕府による諸大名家取り潰しの政策であったとする見解にも疑問が唱えられている。

また主従関係や性欲(男色)・名誉(意地)など武家の心性に関する検討も盛んになり、御家騒動は日本社会における組織や行動原理の起源に求め得るテーマとしても注目されている。従来は方法論として排除されてきた実録・講談類の文芸作品も、近世における慰霊・鎮魂意識や政治的利用、虚構の成立経緯や歴史的役割を検討することが行われはじめている。

主なお家騒動

江戸時代以前の家督争い・内紛

現代の「お家騒動」

ロッテお家騒動」のように、企業の経営陣内で対立が起き退職し新会社を設立したケースや、社長など経営陣がクーデターを起こされ解任されたケースなどが比喩的に「お家騒動」と呼ばれる場合がある。

参考文献

関連項目

脚注

  1. ^ 1749年寛延2年)からの前橋藩から姫路藩への転封工作を原因とするため。

家督争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 03:52 UTC 版)

畠山義就」の記事における「家督争い」の解説

文安5年1448年11月、持富への相続撤回され室町幕府8代将軍足利義成(後の義政)から裁可得た持国庶子(義就)が新たにその後継者と定められ元服して義成偏諱(「義」の字)を受けて次郎義夏(畠山義夏)と名乗った。翌文安6年1449年)に父に代わって椀飯役目務め宝徳3年1451年)に伊予守叙任されるなど持国後継者であることを示した。ところが義夏への相続守護代神保氏など被官らの理解得られず、持富の子である弥三郎旗頭とした反抗勢力形成される享徳3年1454年4月3日持国弥三郎擁立しようとした家臣達を追放するが、弥三郎細川勝元山名宗全大和の国人である筒井氏までもが支持8月21日弥三郎派に襲撃され形勢不利となった義夏は京都から伊賀逃れ入れ替わり義政から赦免され弥三郎9月に再び上洛。しかし、義政怒り買った宗全は12月3日隠居領国播磨挙兵し赤松則尚を討つため6日下向したが、1週間後13日に義夏が河内から上洛して弥三郎を再び追い落とした。翌享徳4年1455年2月に義就と改名し右衛門佐叙任3月26日持国死去により家督継承した享徳4年2月7日義政大和国弥三郎協力しないことを伝え、義就も分家能登守畠山義忠幕府奉公衆と共に河内・大和転戦大和国越智家栄味方として弥三郎支持大和国成身院光宣筒井順永箸尾宗信らを追い落として宇智郡領有した。 ところが、康正3年1457年7月大和争乱起こった際、義就は義政の上意と偽って家臣派遣したが、これが義政怒り触れて所領没収された。義就派の大和国人の所領横領問題にされ、義政から国人への治罰命令伝えられ義政撤回求めて聞き入れられなかった。同時に9月には勝元所領である山城木津にも上意詐称攻撃し次第義政信頼失っていった。翌長禄2年1458年9月に宗全と共に石清水八幡宮八幡神討伐赴いた長禄3年1459年6月弥三郎派の成身院光宣筒井順永らが勝元軍勢守られ大和帰国越智家栄交戦したため、義就は援軍派遣したが、光宣訴え細川軍の大和派遣決まり合わせて7月23日には弥三郎赦免となったため義就派は不利となり、越智家栄敗れて没落光宣らは勢力回復した弥三郎間もなく死去したが、弟の政長が弥三郎派から新たに擁立され、義就との対立継続された。 長禄4年1460年5月10日分国紀伊国根来寺畠山軍が合戦起こし畠山軍が大敗した。義就は報復のため京都から紀伊援軍派遣したが、9月16日幕府から政長に家督を譲るよう命じられ20日河内没落劣勢為に政長に家督奪われた上、綸旨による討伐対象定められたことにより朝敵貶められた。10月大和国龍田で政長・光宣らに敗れたのち12月嶽山城大阪府富田林市)に籠城し、討伐下ってきた政長、光宣細川軍、大和国衆らの兵と2年以上も戦った嶽山城の戦い)。寛正4年1463年4月15日成身院光宣計略により嶽山城陥落し、義就は紀伊、のち吉野逃れた。 翌寛正5年1464年)、畠山氏家督相続公認された政長は、勝元から管領職を譲られた。

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家督争い

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上杉景虎」の記事における「家督争い」の解説

詳細は「御館の乱」を参照 天正6年1578年3月13日謙信病没すると、義兄弟の上景勝との家督を巡る対立上杉家内訌発展し御館の乱となる。上杉景信本庄秀綱北条高広らの支持集め実家である後北条家とその同盟国である武田家後ろ盾もあり、当初景虎優勢であった。これに対し景勝側はいち早く春日山城本丸金蔵奪取した5月13日景虎妻子らを連れて春日山城脱出し城下にある御館(前関東管領である上杉憲政屋敷)に立て籠もった。北条氏主力佐竹宇都宮連合軍対陣中だったこともあり、甲相同盟基づいて武田勝頼景虎への援軍打診し、勝頼は同年5月信越国境まで出兵した。 同年6月景勝方は勝頼との和睦交渉開始した北信地域における上杉領の割譲条件和睦成立し甲越同盟締結された。6月中に勝頼は越府に着陣すると、景勝景虎間の調停開始した同年8月景虎景勝一時的に和睦するが、8月中に三河国徳川氏駿河武田領国侵攻すると、勝頼は越後から撤兵し、景虎景勝間の和睦破綻した一方で北条氏北条氏照・氏邦らが三国峠越えて越後侵入し荒戸城落としさらに景勝拠点であった坂戸城至近である樺沢城をも落としてこれを本陣とした。樺沢城の北条軍はしかしそれ以上進めず、戸城に氏邦勢と北条高広北条景広らを残して三国峠冬が来る前に関東に一旦撤兵した。 景勝はこの機を逃さず攻勢強め、翌天正7年1579年)、まだ三国峠解けぬ前に御館落城した。景虎正室実弟景勝による降伏勧告拒絶して自害した通説では24歳とされる嫡男道満丸も上杉憲政に連れられ景勝の陣へと向かう途中に、憲政ともども何者かに殺害された。孤立無援となった景虎は、実家北条氏頼って小田原城逃れようとした。しかしその途上において鮫ヶ尾城堀江宗親謀反遭い自害した享年26とされる法名は「徳源院要山浄公」。 こうして御館の乱景勝方制するが、景虎方敗北甲相同盟の破綻至り以降地域情勢にも大きく影響した墓所について、『北越軍記』によると常安寺とあるが、実際に常安寺には景虎の墓はないた不明である。また、新潟県妙高市勝福寺には景虎供養塔がある。

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家督争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 01:20 UTC 版)

今川氏親」の記事における「家督争い」の解説

文明8年1476年)に父が遠江国の塩買坂での戦いにおいて、横地氏勝間田氏遠江地元国人衆残党襲われ戦死した龍王丸(たつおうまる、氏親幼名)は未だ幼少だったため、家臣三浦氏朝比奈氏らが父の従兄弟小鹿範満擁立して家督争いが起こり龍王丸派と範満派が分かれて数度合戦に及ぶ事態になったまた、父の義忠死の原因になった横地氏勝間田氏斯波氏への内通は、幕府任命した正規遠江守護(斯波義良、後の斯波義寛)への帰参であった形式とされるため、これを妨害した義忠幕府への反逆者みなされ遺児龍王丸家督継承どころか反逆者一族として討伐される可能性もあった。このため氏親は母とともに身を隠した考えられている。 堀越公方足利政知執事の上政憲と扇谷上杉家家宰太田道灌が兵を率いて駿河国進駐して家督争いに介入した。これに氏親叔父伊勢新九郎仲裁入り、範満が龍王丸後見人として家督代行する、という形で決着した伊勢新九郎一介素浪人考えられていた頃は、抜群知略による後の北条早雲飛躍第一歩のように語られていたが、近年の研究伊勢氏一族幕臣伊勢盛時であることがほぼ明らかになっており、室町幕府意向受けて盛時駿河下向して、今川家内紛調停した考えられている。 家督代行となった範満が今川館入り龍王丸は母の北川殿とともに小川の法永長者(長谷川正宣)の屋敷である小川城焼津市)に身を寄せた文明11年1479年)、盛時幕府申請して前将軍足利義政の名による龍王丸家督継承内書得ている。 数年後龍王丸15歳過ぎて成人したが、範満は家督返そうとはせず、家督奪取動き見せて龍王丸圧迫した文明19年1487年)、北川殿龍王丸京都で9代将軍足義尚仕えていた盛時助け求め盛時は再び駿河下向した。同年11月盛時石脇城現在の静岡県焼津市)を拠点に兵を集めて今川館襲撃し、範満を討った。範満が頼りにしていた太田道灌は既に主君の上正に殺害され堀越公方足利政知幕府との関係から龍王丸支持へと立場切り替えていた状況下で行われたとみられている。 通説では、龍王丸今川館入って元服して氏親(「氏」の字は本家足利氏通字由来)と名乗り今川家当主となったとされている。しかし、この通説には2つ問題点があるとされる1つは『今川家譜』・『宇津山記によれば、範満襲撃以前より住んでいた丸子館家督継承後もしばらくの間本拠にしていたと推測される点であり、もう1つは、通常の武家元服15歳前後であるのに、氏親19歳もしくは21歳)にあたる延徳3年1491年)まで龍王丸名乗り用いその後明応3年1494年9月まで黒朱印印判状発行後述)し、翌4年1495年になって初めて「氏親」の署名花押のある文書登場するという点である。前者については、史学者黒田基樹は「対外戦争並行して行われた国内平定明応4年ごろに完了して氏親駿河一国を掌握したのを機に本拠今川館移した」と推測している。また、後者については明応4年以前元服してたとする説があり、例え史学者家永遵嗣は『今川記』の異本である『富麗記』の記述により、「堀越公方足利政知晩年古河公方討滅意識して「氏満」と名乗った上で龍王丸偏諱与えて氏親」と名乗らせたが、延徳3年1491年)に政知が死去して堀越公方今川氏対立関係となり、反対に一時的に古河公方との関係改善図られる中で、この元服偏諱事実秘匿する必要があったが、最終的に堀越公方没落して古河公方との関係修繕失敗したために、公然と氏親」と称するようになった」とする。これについて黒田基樹は「『富麗記』に記された政知の改名事実裏付ける史料などは発見されていないためこの説を採用することは出来ず20歳過ぎて元服も諱を持たないことも異質ではあるものの、氏親今川館入城問題と共に国内問題考えしかないではないか」、と推測している。 これより前、同年10月龍王丸大名初めての印判状文書発給している(定着はせず、後に通常の花押用いるようになっている)。ただし、前述問題踏まえる文明19年1487年)から明応3年1494年)まで氏親元服できなかった(花押持てなかった)事態反映していた可能性がある。 氏親家督継承功績があった叔父盛時には、富士下方12郷と興国寺城与えられた他、御一家後述)と同様の待遇与えられたとみられている。黒田基樹は「国内平定過程で、それまで堀越公方扇谷上杉家などの影響力及んでいた駿河東部にも今川氏支配及んだ結果盛時興国寺城に入ることになった」と推測している。 氏親には男兄弟がいなかったこともあり、今川氏一族などを「御一家」として重用し氏親補佐時には職務一部代行をさせている。永正10年1513年)に駿府訪問した冷泉為広日記によれば今川民部少輔小鹿範満の甥・孫五郎と推定される)・瀬名源五郎瀬名氏貞)・葛山八郎葛山氏広)・関口刑部少輔関口氏兼)・新野遠江新野氏か)・名古屋五郎今川名古屋氏か)の6名が挙げられ母方叔父である伊勢盛時もその一人考えられている。

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