蒲生騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/01 03:51 UTC 版)
蒲生騒動(がもうそうどう)は、文禄4年(1595年)から慶長3年(1598年)まで起こった会津若松92万石の領主・蒲生家のお家騒動。
注釈
- ^ 享保の大飢饉に際して、久松家(伊予松山藩)にも「松山騒動」がある。
- ^ このため、一説に郷安が三成の意を受けて氏郷を毒殺したのではないかという説もなされている。ただ、毒殺説自体は現在ではほぼ否定されている。
- ^ 単に「仕置」とも呼ばれる。
- ^ 「綿利」「亘理」とも。
- ^ 本来、奥羽の取次は浅野長政であったが、伊達政宗との絶縁や宇都宮騒動などで佐竹義宣からの不信があり、起用されなくなっている。
- ^ ただし、蒲生郷成は会津への帰国途中に病死。また、小倉良清は豊臣秀頼に仕えており、大坂夏の陣で戦死したとも離脱して程なく死去とも言われる。
- ^ 徳川将軍家の婚姻政策の一環とも言えるが、この対立のもう一人の当事者である振姫も元和元年(1615年)に蒲生家から引き離されて浅野長晟と再婚させられている[6]。
- ^ ただし、蒲生家の発給文書では、町野幸和は元和5年(1619年)11月以降に文書の発給者として見られなくなり、翌年8月の人事で仕置の名簿から姿を消しているためにこの間に辞任した可能性が高く、尾下成敏は渡辺の訴訟も元和5年もしくは6年の出来事としている[8][9]。
- ^ 「おおくみがしら」。大組頭に相当。
- ^ 蒲生忠郷の乳兄弟、元和5年に町野幸和・玉井貞右の2名体制であった仕置奉行の3人目となる[12]。忠郷の死去時に当時の仕置奉行は全員辞任したが、新しく当主になった忠知より1人だけ再任された[13][14]。
- ^ 滝川一積は真田信繁の妹・趙州院の夫。
- ^ 元和8年の宇都宮城釣天井事件で失脚。
- ^ 江戸と水戸藩領を含む関東地方、駿府藩領・尾張藩領・紀伊藩領・大津・京都・伏見・堺・奈良及び東海道・中山道筋。
- ^ 仕置奉行に次ぐ大与頭も3名のうち、蒲生郷喜が蟄居、岡元吉が追放されたために、家督を継いだばかりであった稲田貞清しか残らなかった。ただし、仕置奉行が全員騒動の当事者となって審議が長期化したためか、寛永8年頃より満田安利ら4名が代わりの奉行に任じられて騒動終了後もそのまま仕置奉行を務めている。
出典
- ^ a b c 谷 2021, pp. 24–25.
- ^ 尾下 2021, pp. 228–230.
- ^ a b c 尾下 2021, p. 231.
- ^ 尾下 2021, p. 234.
- ^ 尾下 2021, pp. 256–257.
- ^ 尾下 2021, p. 236.
- ^ 尾下 2021, pp. 257–258.
- ^ 尾下 2021, pp. 247–248.
- ^ a b 尾下 2021, pp. 258–259.
- ^ a b 尾下 2021, pp. 269–271.
- ^ a b c 尾下 2021, pp. 274–275.
- ^ 尾下 2021, pp. 251–252.
- ^ 尾下 2021, pp. 249–250.
- ^ 尾下 2021, p. 271.
- ^ a b c 尾下 2021, pp. 276–277.
- ^ 谷 2021, p. 19.
- ^ 尾下 2021, p. 275.
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