蒲生忠知
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/21 05:44 UTC 版)
蒲生 忠知(がもう ただとも)は、江戸時代前期の大名。出羽国上山藩主、後に伊予国松山藩主。諱は「ただちか」とも。
注釈
- ^ 異父弟にあたる。
- ^ 『氏郷記』には慶長13年(1608年)に兄と同時に元服したと伝えるが、現存する文書には下野守(忠郷)と鶴松(忠知)が併記されたものもあり、兄よりは後に元服したのは確かである。ただし、具体的な時期については、慶長18年以降ということしか特定できない。
- ^ 前の城主である蒲生郷成の出奔に伴うものとされ、それまで郷成父子が受けていた4万5千石が与えられた。ただし、実際には3分割され、そのうち1万5千石が鶴松の蔵入地とされ、1万5千石は守役である蒲生郷治に与えられ、1万5千石は他の鶴松付きの家臣50名で分割された[3]。
- ^ 慶長19年(1614年)に先の御家騒動で出奔した蒲生郷成の遺児である蒲生郷喜兄弟が赦免されて、亡き郷成が出奔前に勤めていた三春城代への復職が認められ、忠知の守役・代官を務めていた三春城代蒲生忠治が津川城に移されている。しかし、2年後に再び蒲生兄弟が出奔したため、蒲生郷治は再び三春城に戻されている[5]。
- ^ 前領主の加藤氏(加藤嘉明の系統)の所領12郡20万石に蒲生氏の旧領である近江国日野4万石を加えたものとされている(『徳川実紀』寛永4年2月14日条)[8][9]。
- ^ 元和9年の家光の将軍就任のための上洛の際にも病に倒れて翌10年(寛永元年)まで京都に滞在し、その後も寛永8年5月に重病で家光から見舞いの使者が送られていることから、病気がちだったと推測される[15]。今回の病気の際も知らせを受けた異父弟の浅野光晟が見舞いの使者を送っている。
- ^ 加藤家から引き取った家臣の一部は姉・宗法院が加藤家に輿入れした際に蒲生家から付けられた家臣であったが、蒲生家改易の際にも幕府が家臣の再仕官の斡旋を行っているため、同様の斡旋も行われたとみられている[20]。
出典
- ^ 『蒲生記』。『寛政重修諸家譜』。
- ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』、近代文芸社、2000年、103頁。
- ^ 尾下 2021, p. 230.
- ^ 尾下 2021, pp. 232–233.
- ^ 尾下 2021, pp. 256・258.
- ^ 尾下 2021, p. 239.
- ^ 尾下 2021, p. 245.
- ^ 尾下 2021, pp. 262–263.
- ^ 宇都宮 2021, pp. 329–331.
- ^ 尾下 2021, pp. 264–265.
- ^ 尾下 2021, p. 274.
- ^ a b 谷 2021, pp. 24–25, 「総論 蒲生氏郷論」
- ^ 尾下 2021, pp. 274–277.
- ^ 尾下 2021, pp. 278–279.
- ^ 尾下 2021, p. 279.
- ^ 尾下 2021, pp. 279–280.
- ^ 尾下 2021, pp. 80–281.
- ^ 尾下 2021, p. 264.
- ^ 尾下 2021, pp. 275・277.
- ^ 宇都宮 2021, p. 329.
- ^ 宇都宮 2021, pp. 326–329.
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