会津藩 (あいづはん)
会津藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/03 16:15 UTC 版)
- 1 会津藩とは
- 2 会津藩の概要
会津藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 18:13 UTC 版)
松平容保(まつだいら かたもり) 会津藩九代目藩主。京都守護職。佐幕の筆頭である会津藩の主。間の抜けた面をしている。天気がいいと散歩をする等のんき者である。責任感が人一倍有り、決めた事を決して曲げない。幕府からの命に従って京都守護職に就き、京に上洛する。あえて火中の栗を拾う男気のある人物である。近藤ら浪士組が京都守護職に加わることを許可した。口癖は「ぴゅー」。 佐川官兵衛(さがわ かんべえ) 会津藩の家老。会津藩の藩校・日新館講釈所の指導者。剣の腕前は超一流で、翔と源は初めて剣を交えた際に格の違いを痛感した。日々の鍛錬を欠かさない。性格は直情的だが人情に厚く、生徒からの信頼も厚い。江戸で火消しを殺めてしまった為に謹慎となっている。身寄りの無い相馬兄妹の面倒を見ている。勝が翔と源に紹介した剣士。剣を構えずとも発せられる威圧感に翔は手も足も出なかった。腕が無いにも関わらず武士や切腹という源を徹底的に打ちのめした。その後、切腹の決意を固めた源の命を預かるなど温情ある対処をした。翔に縁談を持ちかけるも断られる。謹慎中のため早川の護衛を白連隊に託す。源からは「官兵衛兄貴」と呼ばれている。白心郷との最終決戦では活躍を果たす。 早川(はやかわ) 会津藩の家老。会津に着いた白連隊に官兵衛を紹介した人物。官兵衛とは別に塾を構えており相馬兄妹らが世話になっていて、源も入塾した。会津では珍しい女でも学べる塾である。甥である元吉の脱藩に疑問を抱き、松平容保が京都守護職に就く際、白連隊と共に京への上洛に同行した。しかし、さらし首にされた元吉の姿を見てショックを受け出家し、京の黒谷で仏門に入り死ぬまでの幾年日本の泰平を祈る決意をした。「じさま」と呼ばれている。 神保内蔵助(じんぼ くらのすけ) 会津藩の家老。忠臣でもある。木村次郎兵衛の上司。松平容保が京都守護職に就く際、京への上洛に同行し京都守護職会津藩本陣では実権を握っていた模様。白連隊が会津の本隊と同じ働きが出来る事を許可した。本編には名前のみ登場。 早川元吉(はやかわ もときち) 会津藩士。早川のじさまの甥。忠誠心が強い事で有名だったが、京の気運に流されて脱藩する。しかし、阿羅々と吽羅々による尊攘派の愚断に合い殺される。翌日、京の黒谷の川辺に「半」と書かれた札と共にさらし首にされた。 木村次郎兵衛(きむらじろうべえ) 会津藩士。京都守護職公用方。早川家に仕える若い藩士。マンボウの様な顔立ち。江戸に在住していたが、早川が居た江戸の日本橋の「新田屋」にかけつける。松平容保が京都守護職に就く際、京への上洛に同行した。女関係は苦手で百舌を食事に誘うも失敗する。女遊びが好きで気兼ねする度に「相模屋」に通っている。源太郎の初経験のきっかけになる。京の黒谷の川辺で元吉のさらし首を発見し辻斬りへ復讐を誓う。白連隊が京都見廻組別隊会津白連隊になるように尽力をつくす。将軍襲撃事件の際に斬られ源太郎に看取られながら死亡。 内山秀臣(うちやま ひでおみ) 会津藩士。
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会津藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 05:18 UTC 版)
松平容保(まつだいら かたもり) 演:筒井道隆 京都守護職、会津藩主。清廉な君子で、京の治安維持に力を尽くし、孝明天皇からの信頼も厚かった。京に残留した浪士組を近藤たちの嘆願を聞き入れ会津藩の預かりとした。近藤を心から信頼し、浪士組に「新選組」という名前を与える。壬生の相撲興行の際には町人に扮して観戦に訪れた。近藤勇に不満を持っていた永倉新八が建白書を提出した際には仲裁を行った。近藤が官軍に捕らえられ斬首されることになったときは「近藤の仇は必ず討つ」と誓い、斎藤に名刀虎徹とともに首の奪還任務を託している。 広沢富次郎(ひろさわ とみじろう) 演:矢島健一 公用方。松平容保が近藤、芹沢と対面する時に同席する。取次役として新選組の面倒を見る役割をつとめる。強請たかりを行っている芹沢を注意したところ「会津藩がろくに金を出さないからだ」と言われてしまう。大和屋の一件の後に「芹沢をなんとかしろ」と近藤、土方に命じる。王政復古の大号令の後の混乱では、薩摩との戦を回避するよう容保を説得するように近藤に頼む。 秋月悌次郎(あきづき ていじろう) 演:堀部圭亮 公用方。近藤たち浪士組が会津藩の預かりとなるのを嘆願した際、浪士が浪士を取り締まるのは妙案と賛成する。小森とは近藤達の処遇などで対立していたが、近藤が江戸行きを命じられた際に、会津に戻ることになった事を明かした。その際近藤に別れを告げるとともに容保や京の事を託した。 小森久太郎(こもり きゅうたろう) 演:荒木優騎 公用方。近藤たち浪士組が会津藩の預かりとなるのを反対する。池田屋の変の時には会津藩が巻き添えになるのを嫌い出陣しようとせず、事件が片づいたあとにようやく現れた。しかし、王政復古の大号令の後の混乱では、「今まで新選組につらくあたってきたのは、会津藩を思ってのこと。お主だけが頼りだ」と薩摩との戦を回避するよう容保を説得するように近藤に頼む。 手代木直右衛門(てしろぎ すぐえもん) 演:原康義 佐々木只三郎の兄。鵜殿や佐々木に近藤たち京都へ残留する浪士を江戸に連れて帰るように懇願する。しかし会津藩が近藤たちの後ろ盾になるよう嘆願書を取り次ぐ。 林権助(はやし ごんすけ) 演:三谷昇 砲兵隊長。鳥羽・伏見の戦いの際、まるで戦国時代のような旧式の鎧冑姿で参戦し、土方に「いつの時代の人間だよ」とぼやかれる。戦が始まると、薩長軍の火力の前に傷を負い担架で運ばれていった。
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会津藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 21:27 UTC 版)
会津藩は、この飢饉では平年作に比べて9万9300石の収穫減で、藩の取箇損失は4万5500石ほどとなった。元禄の飢饉に比べると「一等強キ不作」といわれ、冷気雨天が原因の凶作であった。
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会津藩
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松平容保 演:片岡秀太郎 山川大蔵 演:倉石功 会津藩最年少の家老。会津若松城が新政府軍に完全包囲される中、城外でゲリラ戦を展開する銑次や金子直八らと合流。会津地方に伝わる伝統芸能の彼岸獅子に扮装して敵中堂々の入城に成功する。 中野こう子 演:松下砂稚子 西郷細布子 演:三留真由美 飯沼貞吉 演:鹿股裕司 鈴木為輔 演:新宅明 三村三助 演:山本寛
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会津藩(幕末)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:13 UTC 版)
陸奥国(岩代国)河沼郡 - 181村(ほか幕府領67村を預かる) 会津郡 - 309村(ほか幕府領157村を預かる) 大沼郡 - 57村(ほか幕府領104村を預かる) 耶麻郡 - 242村(ほか幕府領68村を預かる) 安積郡のうち - 11村 下野国塩谷郡のうち - 6村(真岡知県事に編入) 越後国魚沼郡のうち157村(ほか幕府領79村を預かる。柏崎県に編入) 三島郡のうち4村(柏崎県に編入) 蒲原郡のうち221村(一部を新潟県、村上県、黒川県、三日市県、新発田県、村松県に分割編入) 岩船郡のうち59村(村上県に編入) 東蝦夷地(根室国。いずれも開拓使直轄領に編入)ネモロ場所(目梨郡) ネモロ場所(標津郡) 西蝦夷地(北見国。いずれも開拓使直轄領に編入)モンベツ場所(紋別郡) モンベツ場所(常呂郡) シャリ場所(斜里郡) 上記のほか、京都守護職の役知領が河内国河内郡(8村)、讃良郡(13村)、茨田郡(1村)、交野郡(8村)、若江郡(6村)、和泉国南郡(4村)、日根郡(15村)にあり、河内国内は河内県、和泉国内は堺県に編入された。
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会津藩
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「ちるらん 新撰組鎮魂歌」の記事における「会津藩」の解説
松平容保(まつだいら かたもり) 髷がハート型の会津藩主。近いうちに幕府は滅びると思いながらも会津の心意気を見せつけるために、京都守護職を引き受けた侠気の持ち主であり、守護職をお受けした時は幕府が降伏しても、最後まで闘い抜く覚悟を見せた。徳川慶喜とは又従兄弟であり、幼名で呼び合う仲である。 元浪士組が会津藩に仕官を求めて試合を行なってる途中に現れ、浪士組の覚悟を見るために真剣で戦う用命令する。 鳥羽伏見の戦いの前に土方と近藤を慶喜に合わせ、2人と共に慶喜の覚悟と矜持を聞く。その後は慶喜と共に大坂におり、新政府軍との決戦を避けるための慶喜の策を聞くも、慶喜自身がその策によって自らだけが逃げることなど出来ないと聞くと、慶喜に自身らの覚悟と命は既に慶喜に預けていることを言い、その策を実行させようとするため、薩長軍を止めようと自身も会津軍と共に出陣しようとするも、佐川から自身が果たすべき仕事をするよう止められ、慶喜の側にいた。 淀・富ノ森の戦い後は慶喜や佐川らと共に開陽丸に乗船しており、斎藤と佐川が苦戦を強いられているところに慶喜と共に現れ、佐川に自身らのいつでも散る覚悟を言い、会津武士の誇りを示すよう言った。
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会津藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 06:49 UTC 版)
松平容保(会津藩主) 佐川官兵衛(家老) 西郷頼母(家老) 神保内蔵助(家老) 萱野長修(家老) 田中玄清(家老。土佐) 山川浩(家老) 梶原平馬(家老) 海老名季昌(家老) 手代木勝任(若年寄) 横山常守(若年寄) 林安定(奉行。権助) 外島機兵衛(勘定奉行) 井深宅右衛門(学校奉行) 野村左兵衛(公用方) 広沢安任(公用方) 秋月悌次郎(公用方) 山本覚馬(軍事取調兼大砲頭取) 大庭恭平(藩士) 神保修理(藩士) 柴司(藩士) 神戸岩蔵(藩士) 南摩綱紀(藩士) 川崎尚之助(藩士) 町野主水(朱雀士中4番隊頭) 日向内記(白虎士中2番隊頭) 飯沼貞吉(白虎士中2番隊士) 山川健次郎(白虎隊隊士) 小松済治(ドイツ留学生)
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