将軍後見職とは? わかりやすく解説

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将軍後見職

読み方:ショウグンコウケンショク(shougunkoukenshoku)

幕末江戸幕府役職


将軍後見職

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/30 02:04 UTC 版)

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将軍後見職(しょうぐんこうけんしょく)は、江戸時代後期、幕末に新設された政事総裁職京都守護職と並ぶ江戸幕府の三要職の一つである。

安政5年(1858年)、年少の徳川家茂が14代将軍に就任したために、同年8月、前将軍・徳川家定の遺命と、同じく年少で将軍に付いた4代将軍・徳川家綱時の保科正之、11代将軍・徳川家斉における松平定信時の先例を名目に御三卿田安家徳川慶頼が任命された。ただし、実際には大老井伊直弼が形式的に擁立したもので正式な役職でもなく、実権も有しなかった。

ところが、文久2年(1862年5月朝廷内部に幕府内の親井伊派の処分を要求する動きがあり、その対応の一環として「家茂の成人」を理由に井伊に擁立された慶頼が後見職から退いた。続いて朝廷より、御三卿一橋家徳川慶喜を幕府の正式な役職としての将軍後見職に任じるように勅諚が下された。これを受けて同年7月に慶喜が幕府の正式な役職として新設された将軍後見職に任命された。元治元年(1864年3月、慶喜が禁裏守衛総督に転じたために廃止された。


将軍後見職

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 11:53 UTC 版)

徳川慶喜」の記事における「将軍後見職」の解説

安政7年1860年3月3日桜田門外の変における直弼暗殺を受け、万延元年1860年9月4日 (旧暦)恐れをなした幕府により謹慎解除される文久2年1862年)、島津久光勅使大原重徳薩摩藩兵を伴って江戸入り勅命幕府首脳人事横車押し介入7月6日慶喜を将軍後見職に、松平春嶽政事総裁職任命させることに成功した慶喜と春嶽は文久の改革呼ばれる幕政改革行ない京都守護職設置参勤交代緩和などを行った同年9月30日破約攘夷やむを得ないことを意見した横井小楠対し万国が好を通じ今日において、日本のみが旧態依然とした鎖国固執すべきでないことを説き開国やむを得ないことを天皇奏上すべきである述べた。春嶽も説を改め慶喜意見賛成したことにより、一旦は幕府評議慶喜上洛して開国趣意奏上することに決した。しかし、勅使待遇改正慶喜反対したことで、これに反発した春嶽が再び破約攘夷説に転じて幕議動揺した。このとき、山内容堂はあくまで開国論奏上し場合には攘夷の廷議が攘将軍なりかねないことなどを説き慶喜やむなくこれに同意したその結果幕議一転して攘夷勅諚遵奉することに決した文久3年1863年)、攘夷実行について朝廷協議するため、徳川家茂将軍として230年ぶりに上洛することとなったが、慶喜はこれに先駆けて上洛し、将軍名代として朝廷との交渉あたった同年2月21日4日前の会談で春嶽が意見したところに従い中川宮朝彦親王)の同意得た上で慶喜鷹司関白に対して攘夷実行含めた国政全般従来通り幕府委任するか、政権朝廷返上するかの二者択一迫った。しかし朝廷からは、幕府への大政委任認め一方で国事に関して諸藩直接命令を下すことがあり得る」との見解表明され逆に幕府攘夷実行命じられるなど、交渉不成功終わった。春嶽が朝廷要求反発して政事総裁職辞表を出す一方で慶喜はこれを受け入れ姿勢をとり、江戸幕閣猛反発招いた[要出典]。 同年4月10日夜、翌日予定されていた孝明天皇石清水八幡宮行幸攘夷祈願についての家茂供奉を、「風邪発熱」(仮病)として急遽取りやめさせた。このことについて、家茂天皇から節刀授与され場合にはいよいよ攘夷決行しなければならないことから、これを避けるため家茂供奉をやめさせたとする説がある。しかし、節刀授与計画尊攘派秘策であって幕府慶喜知るよしもないことから、これは誤りであり、慶喜家茂一人尊攘派公卿多数控え天皇御前召され臨時勅命下されることを恐れたためであるとされる江戸戻った慶喜は、攘夷拒否主張する幕閣押し切り攘夷実行方策として横浜港鎖港方針確定させる。八月十八日の政変長州藩中心とする急進的尊皇攘夷派排斥されたのち、勅命により11月26日上洛12月晦日には公武合体派諸侯幕閣による参預会議一員任命された。しかし、春嶽ら参預諸大名期待する幕政改革断行されないために、春嶽らは慶喜奮励足りない憤り、その一方で慶喜老中からも参預諸大名行動を共にしているとして猜疑された。そのような状況下で、慶喜横浜鎖港断行主張し、これに反対する参預諸侯島津久光松平春嶽らと対立した元来開国論であった慶喜鎖港説に固執したのは、文久4年1864年正月老中酒井忠績水野忠精から幕議薩摩開国論には従わないこととした旨を言われ家茂意見もこれと同じであったことから、やむを得なかったためであるとされる同年2月16日慶喜は、中川宮らとの酒席故意泥酔し同席していた春嶽、久光伊達宗城を、「三人天下大愚物・大奸物である」などと罵倒中川宮に対しても「(前日沙汰が)偽であるというのならば命を頂戴し、某も切腹する」などと述べ横浜鎖港朝議確かなものにしようとした翌日久光・宗城も鎖港異議のないことを奏し朝議決した。しかし、その後慶喜と参預諸大名との間が融和することなく同年元号元治元年となっている)3月9日慶喜は参預を辞任した。これに相次いで諸参預が辞任したため、参預会議崩壊した

※この「将軍後見職」の解説は、「徳川慶喜」の解説の一部です。
「将軍後見職」を含む「徳川慶喜」の記事については、「徳川慶喜」の概要を参照ください。

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