攘夷実行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 17:00 UTC 版)
攘夷とは通商条約の破棄と鎖港であり、そのためには条約締結国と交渉しなければならず、相手のあることなれば結果までは約束できないが、ともかく実現に努めるというのが幕府の方針だった。勅書によってあらためて攘夷実行を委ねられた幕府は、その裁量において、武力による強硬な攘夷は避け、交渉による平和裏な攘夷の方法を選んだのである。もっとも実際には交渉成立の見込みはない。列強諸国が武力に訴える可能性もあるから、幕府は諸藩に向けて海岸防御を厳重にし敵が襲来すれば撃ち払うよう布達したが、日本側からの攻撃は禁じた。 幕府はまず横浜鎖港の交渉を始めることとした。将軍名代徳川慶篤(慶喜の実兄、水戸藩主)および交渉の実務にあたる老中格小笠原長行は3月に引き上げ江戸に戻っていた。だがこのとき幕府は前年に薩摩が引き起こした生麦事件の処理(賠償金支払い)という難問を抱えていた。2月に8隻のイギリス艦が横浜港に入り、関係は険悪化していた。問題を解決しなくては鎖港交渉を持ち出すこともできないが、賠償金を支払えば国内的には攘夷の本気度が疑われるおそれもある。はじめ徳川慶篤と徳川茂徳(尾張藩主)、江戸留守居の老中松平信義・井上正直が支払いに賛成で、小笠原が一人強硬に反対した。しかし、4月22日に離京して東帰途上にある慶喜が武田耕雲斎を遣わし攘夷奉勅と支払い不可を伝えてくると、水戸・尾張は支払い拒絶に変わり、両老中は病と称して登城しなくなった。攘夷期限前日の5月9日に至って小笠原はやむなく独断で賠償金11万ポンド(約27万両)を支払い、翌日列国の公使に横浜鎖港を通告し、どうにか攘夷に着手した形を整えた。慶喜は攘夷実行の責任を回避するように、横浜に向かった小笠原と入れ違いにようやく8日に帰府し、14日に後見職辞任を表明した。 いっぽう長州は幕命を無視し、5月10日、馬関海峡を航行中のアメリカ商船に対して無通告で砲撃を加えることで攘夷を実行した。23日にはフランス艦を、26日にはオランダ艦を砲撃する。しかし、これに続く藩はなく、長州が6月1日にアメリカから、5日にフランスから報復攻撃を受けても、近隣諸藩は傍観を決め込むのみであった。また、長州と協力関係にあった土佐藩では、帰国した山内容堂が人事の交替に着手しており、6月8日には土佐勤王党の幹部3名が切腹に処せられ弾圧が始まった。
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