尾張藩主とは? わかりやすく解説

尾張藩主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:23 UTC 版)

徳川宗春」の記事における「尾張藩主」の解説

享保15年1730年9月日光社参11月27日に兄・継友が没し翌日継友の遺言ということ尾張家相続し第7代当主徳川通春となる。享保16年1731年正月公儀法度代々法規を守るべきこと・藩邸内での歌舞音曲許可・夜の外出許可本寿院蟄居を解く令を出す。同月正四位下左近衛権少将叙任する。続けて従三位左近衛権中将叙任する。将軍吉宗より偏諱授かり徳川宗春名乗る3月従三位参議宰相)・左近衛権中将叙任する。同月政治宣言著述温知政要』を著す。同年4月名古屋城へ入る。名古屋入府の際の宗春一行は、華麗な衣装纏い、また自身鼈甲製の唐人笠足袋まで黒尽くめ衣装金縁内側は赤)と漆黒の馬に騎乗していたという。 宗春は名古屋に戻ると、4代藩主吉通の御簾中瑞祥院九条輔子)の実家九条家に3千両寄付し朝廷との関係を大切にした。名古屋城下では、東照宮祭尾張祇園祭若宮祭・三之丸天王祭)・1ヶ月半にも及ぶ盆踊り等の祭り奨励したまた、女性子供が夜でも歩ける町にするために、提灯城下数多く置いた。継友時代廃れていた御下屋敷名古屋城下、藩主隠居所)を建て直し、そのお披露目の際に城下女性子供呼んで踊り大会を丸2日間行わせ、その際奉行上の重職たちにも閲覧させている。藩士城下芝居などの見物許可した当時幕府享保の改革推進する将軍吉宗のもと、老中松平乗邑主導質素倹約規制強化徹底しており、祭り芝居などは縮小・廃止されていた。それと全く逆を行く宗春は、規制緩和をして民の楽しみを第一に政策進めていく。緊縮財政法規制強化をする幕府対し開放政策規制緩和消費奨励ではない)の尾張藩となっていった。ただし規制緩和のみではなく神社仏閣への公式参拝には束帯騎馬正装で赴き、幕府法令先回りするなど、宗春は幕府対立する姿勢は全く見せていない。むしろ幕府法令遵守するように命じて大切な形式しっかりと守っている。一方巡視などでは朝鮮通信使の姿・歌舞伎・能の派手な衣装出向いたり、時には白い牛に乗って町に出たり民衆が喜ぶ服装工夫した名古屋城郊外芝居小屋遊郭等の遊興施設許可するなど規制緩和政策は、商人たち受け入れられ名古屋の町は賑わっていった。 享保17年1732年正月自身著書温知政要』(21箇条)を藩士配布した3月には『條々二十一箇條』を発布したその中で行き過ぎた倹約はかえって庶民苦しめ結果になる」「規制増やして違反者増やすのみ」などの主張掲げた。これらの政策には、質素倹約基本方針とする幕府享保の改革による緊縮政策経済停滞を生み、蝗害による不作重なり各地暴動頻発していたことへの反発があると言われている。なお、幕府倹約経済政策自由経済政策理論をもって立ち向かったのは、江戸時代藩主では宗春だけである。 この結果、継友時代倹約令停滞していた名古屋の町は活気得て、その繁栄ぶりは「名古屋繁華に京(興)がさめた」とまで言われた。また宗春の治世の間、尾張藩では一人死刑行われなかった。宗春は、犯罪者処分する政策ではなく犯罪起こさない造り目指し藩士による表立った巡回をさせている(密偵は使わなかった)。また犯罪者増えると、死刑ではなく別の処分(髪や眉毛などを剃る等)も行われた。さらに、心中しようとした者を、野ざらしの刑にはしたが、結果的に夫婦として普通に生活することを許可した(闇心中事件当時幕府の令では「心中未遂場合非人あるいは死罪」)。岐阜への巡視では奴振りをさせ、知多への巡視では徒歩移動するなど、当時としては斬新な行動いくつも行なっている。こうしたことで、当時としては珍しく生存中の大名浄瑠璃歌舞伎題材となった享保17年1732年)には参勤交代江戸へ下る。先代継友時代享保10年1725年)に火事焼失した江戸上屋敷市谷邸が新築再建され嫡子五郎と共に中屋敷麹町邸から移る。5月5日徳川家康から藩祖徳川義直拝領した幟旗並びに嫡男五郎武者飾り見てもらうために、市谷邸を江戸町民に開放した。これは新築された市谷邸の披露含まれている。通説ではその後5月または9月吉宗から使者を介して詰問されたといわれるその内容は、 国元ならともかく江戸においても遊興ふけっている 嫡子初節句の時、江戸藩邸町人たちを呼び入れ尾張家家康から拝領した幟まで飾った 倹約令守っていない というものだった。これに対し宗春も、一応上意として受けるも、 他の大名のように国元遊興にふけり、江戸で倹約するという表裏ある行動取れない第一領民に迷惑をかけていない 初節句の時、江戸藩邸町人たちを呼び入れ家康から拝領した幟まで飾ったのがけしからぬと言うが、そのような禁令はいつ出たのか お上倹約令守っていないと言うが、私なりに倹約努めているつもりだ。ただお上倹約根本ご存じないので、おわかりならないのだろう と一歩引かず反論した、と通説では言われる。 宗春は、規制緩和による経済活性化を図るものの、尾張藩財政赤字転じた通説では言われる享保18年1733年12月、宗春は尾張瀬戸水野山から木曽山々に至るまでの2万人規模巻き狩り計画するが、家臣反対中止する家臣規模縮小するように宗春に薦めたが、宗春は頑なに2万人規模主張し結果的に巻狩断念する享保20年1735年3月江戸在番藩士遊興博打禁じる令を出す。9月、宗春が名古屋にいるときに嫡男の国丸(五郎)が江戸藩邸逝去する。この年吉宗より拝領した朝鮮人参栽培御下屋敷始める。 元文元年享保21年1736年)、3ヶ所の遊里を、もっとも高級な西小路遊郭の1ヶ所に集め芝居小屋新規取り払うべしの命を出し規制緩和政策後退させる

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