尾張藩の楠社創建計画とは? わかりやすく解説

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尾張藩の楠社創建計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 12:03 UTC 版)

湊川神社」の記事における「尾張藩の楠社創建計画」の解説

慶応3年1867年10月14日将軍徳川慶喜大政奉還願い出た朝廷翌日これを認め24日には慶喜将軍辞職願い出ている。こうして、次第新政権確立見えてくる中で、今度尾張藩から創建建白出された。先述たように尾張藩内では既に社が数社創建されており、その楠公崇拝気風強かったものと思われる在京していた藩主徳川慶勝同年11月8日次の建白をしている。 謹而奉上言候、方今 皇道一新之初、群賢輻輳之砌、臣慶勝闇劣駑鈍之性、謝罪脩省之余を以、彼是子細建言候仕、誠に恐懼戦慄之至に奉存候得共、鄙懐一事難忍黙止敢而奉汚 天聴候、臣慶勝誠恐誠惶頓首頓首、臣慶勝窃に思惟仕候に、培養根柢至れ枝幹自ら栄に向ひ、恩恤深泉骸に及べ人心随て和を感ず。是必然之理と奉存候。謹而古典を考候に、労を以て国を定むる者は祀る、死を以て事を勤る者は祀る相見え申候。先臣楠正成一門者共忠節皇家尽し武功古今顕し、其終一死を以て殉国候段、誠に臣子亀鑑祀典に被列相当之者と奉存候然るに未御旌表御沙汰も不奉伺遺憾存候何卒新に神号を降賜り祀典に被列、皇都之内可然地を相し、一社建立被為在候様仕度、且又近古以来国事為に身を亡し、未御収恤を不蒙者、其数不少、一念爰に及ぶことに測憺悽愴之至に不堪存候是等幽魂托する処なく、自然天地和気を破候より、邦内之不静謐引出候儀共奉存候間、仰願くは此者共精霊をも被慰、合祀して一之摂社存し、右境内安置被為在候様仕度存候。左候得ば特一時御盛典のみならず万載洪基御守とも相成、且は敵愾仗義之風尚ふも乍左、感発作興一助とも可相成、是賎位多年宿願に付、伏而奉上言候。万一愚者一元、御聖択をも奉蒙候はゞ、感恩之至に不堪存候。臣慶勝誠恐頓首敬白慶応三年十一月 大納言慶勝 上 (スペース部分欠字または平出です(ただし一例)。以下同じ) この中で慶勝は、古典考証したところ、国家功績残した者と死を以って勤めた者は祀るべきだと説き、まず祭祀すべき人物として楠木正成挙げた楠木正成皇室忠誠尽くし武功挙げて殉国しており、臣民の鏡とすべき人物であるにもかかわらず、いまだ国家として顕彰されず遺憾であるという。神号を賜って京都に彼を祀る神社創建し、また近年国事のためにその身を殉じた者達の霊も摂社として、楠木正成祀る神社境内創建することを願い出ている。そうすれば、(国家の)事業一時だけでなく永遠に守護して、(他の国々と)張り合おうとする勢い盛んになり、物事正しく行われるうになるだろうと主張している。 この建白において、先の薩摩藩との違い注目される薩摩藩建白では、湊川建てるとしていたが、この建白では京都立てるとしている。祭神についても、薩摩藩では護良親王など他の南朝忠臣などを合祀するとしていたが、尾張案では、神社には正成のみを祀り、その摂社において、国家殉じたものを広く合祀することを提案している。 11日尾張藩京都留守居役尾崎右衛門忠征は藩地の荒川甚作(忠征の実子)に創建建白をしたことを伝えとともに左大臣近衛忠房建白書見せ、その是非を伺った。忠房は翌日、父と協議する伝えた12日忠房は父近衛忠熙協議しこの建白書賛同することを決め建白書連署し朝廷差し出した18日尾崎忠征は慶勝と会い建白書武家伝奏摂政二条斉敬国事御用掛参与などに見せることを伝える。こうして朝議にその建白書が出ると、すぐさま反応があった。19日には飛鳥井雅典が斉敬に対して建白書賛意を示すことを伝えている。24日嵯峨実愛賛意示しすぐさま創建取り掛かるように意見している。これらを受け摂政二条斉敬25日近衛忠房意見求めたが、当然忠房は賛意示し朝議決したようである。 これを受け、26日近衛忠熙留守居役尾崎忠征に指示出した摂社祭神の「近古為国事ニ身ヲ亡し未御収恤を不蒙者」とはいかなる者か、詳細調査し社地候補地についても調査し報告することを命じた。これを受けて同月、慶勝は再び建白した。 謹而奉上言候、社之一条ニ付、頃日建言候書而ニ、御付札ヲ以、蒙 仰候、近古以来国事ヲ以テ身ヲ亡シ、未御収恤ヲ不蒙者共人名事蹟不洩取調早々可申上旨奉拝承候。皇国節烈ノ士縷数枚挙ニ遑アラス青史ニ載有之候事ハ、瞭然如指掌ニ候得共、其外曖昧難考索儀モ不少、且青史事蹟モ、一朝ニシテ能捜尽スヘキニアラス。正史野乗閭閻口碑ノ説ヲ雑取、強而博綜ヲ、繊ヲ不違事ヲ欲スル時ハ、玉石混淆遺漏誤脱ノ失ヲ生シ、不可然ト奉存候天下更始ノ時ニ当テ、国歩艱難ニ身ヲ殉候者、忠魂義魄御祭祀被遊、褒崇之典ヲ明示シ、人名区別ヲタテス、死者暝目、生者立志候様至要ト奉存候。猶更宜御廷議御裁決被遊候様、奉願候。但右御建立地所之儀モ御下問、被為 在奉拝承候。右者何レニテモ別段見込之場所迚ハ無御座候得共、神楽岡辺抔相応之地ニモ候半款歟。尤是ハ、 御廷議次第之御議ト奉存候事。 十一月 大納言慶勝 上 慶勝は「近古以来国事ヲ以テ身ヲ亡シ未御収恤ヲ不蒙者」について、その数は枚挙にいとまなく、その事蹟は曖昧はっきりしない者もおり、すぐさま全て調査しきることは出来ない強いて名前を挙げれば、「玉石混淆遺漏誤脱」の恐れがあるので、個人区別をせずに、まとめてその霊魂を合祀することを述べている。また社地について、特に考えは無いが、京都神楽岡良いではないかとしている。これによると、慶勝は社の摂社について、のちの靖国神社に近い構想(但し、靖国神社原則として祭神の名前などを全て明らかにすることになっている)を持っていたことが分かる。なお、森田康之助によると、慶勝が神楽岡候補地としたのは、京都尾張藩邸がその近くにあったからだけのことで、その土地に特に考えがあったわけではないらしい。 この2回目建白対す朝廷反応明らかでない。恐らく、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争新政権諸事務で、積極的に取り合う余裕が無いため、指示を出すことができなかったのだろう。そのため、徳川慶勝1868年明治元年3月3度目建白書を、前2回の建白書添付して提出した。 謹而奉上言候、臣慶勝旧冬上直之砌、一之別紙之趣建白仕候処、御付札ヲ以テ御下問ヲ蒙候付、二之別紙之趣猶又奉拝答候儀御座候爾来世態一変万機御鞍掌、右等之辺御評議御暇モ乍恐如何可被為在哉。然処近来弥増 御徳輝御盛昌御大漸々御開盛之折柄、右等等之御盛挙モ被為在候ハヽ、自然人々所嚮ヲ知候様相成、御風化之一端歟ト愚考仕候付、当時 御見込之程ハ難奉測候得共、不堪渇望、重而奉上言候。臣慶勝 誠惶誠恐頓首敬白三月 大納言 慶勝 上 しかし、同じ3月には一度計画をするが中断した薩摩藩動き出していた。詳しく後述するが、兵庫裁判所配属されていた薩摩藩岩下方平岩下佐次右衛門)らは兵庫裁判所総督東久世通禧創建請願をしている。注目されるのは、藩が主体となって創建するのではなく政府主体となって創建することを請願してることである。これを受け、東久世通禧はその建白奏上し聴許されている。 また一方明治維新によって新たに設けられ官庁神祇事務局は、創建国家主催する値することとし重視しその事業を神祇事務局統轄しようと動き出した。こうして、同年4月21日政府太政官)は神祇事務局創建命じることとなった。 もちろん、創建これほどまでに重視され実行することが決定されたのは、薩摩藩尾張藩建白あったからではあるが、尾張藩はその主役からは外されることとなる。太政官は、27日尾張藩に対して、この旨を達している。その達の文面の上では慶勝の建白採用されたことになっているが、慶勝の意見とは異なり兵庫建てられることが決まったことが述べられていた。 しかし尾張藩はあくまで京都創建することにこだわり6月尾張藩主徳川義宜徳成)は建白出した。 それによると、兵庫における創建決定には実に深く感じ入ったが、京都人々の集まるところなので、京都にも1社創建しほしいと請願している。もしそれ決定されるならば、尾張藩任せるようにとも述べている。政府内では京都創建同意する者が多かったようであり、7月17日政府はこの請願認め尾張藩社殿設計社地候補地調査するように命じた。これに対して尾張藩11月17日、その報告書提出した尾張藩設計した社殿など図面現存していないが、この意見取り入られたらしく、京都創建実現現実性帯びてきている。社地候補地は特に考え無く前年建白通り神楽岡でよいのでないかとしている。これを受けて神祇官協議され社の社地について意見している。神祇官12月9日社地京都東山操練場の隅がよいだろう述べている。この神祇官意見に対して鷹司輔熙松平慶永中御門経之福岡孝弟阿野公誠が、あたかも操練場の祭神のようだ反対した。さらに、これを受けて鷹司輔熙中山忠能徳大寺実則阿野公誠らが主張して廟社戦死した遺跡建てるものであり、京都建てるべきではないとした一度京都創建実現性高まったものの、この意見決め手となり、翌1869年明治2年3月30日京都社を創建することは却下する達がなされた。 なお、この祭神由緒の地に神社建てるべきだという意見その後の、人物祀る神社創建の際の基本原則となったようである。こうして、尾張藩請願実現しなかったが、尾張藩兵庫県創建支援命じられた。

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