尾張藩の楠社創建計画
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慶応3年(1867年)10月14日、将軍徳川慶喜は大政奉還を願い出た。朝廷は翌日これを認め、24日には慶喜は将軍辞職を願い出ている。こうして、次第に新政権の確立が見えてくる中で、今度は尾張藩から楠社創建の建白が出された。先述したように、尾張藩内では既に楠社が数社創建されており、その楠公崇拝の気風は強かったものと思われる。在京していた藩主徳川慶勝は同年11月8日に次の建白をしている。 謹而奉上言候、方今 皇道一新之初、群賢輻輳之砌、臣慶勝闇劣駑鈍之性、謝罪脩省之余を以、彼是子細奉建言候仕、誠に以恐懼戦慄之至に奉存候得共、鄙懐之一事難忍黙止敢而奉汚 天聴候、臣慶勝誠恐誠惶、頓首頓首、臣慶勝窃に思惟仕候に、培養能根柢に至れば枝幹自ら栄に向ひ、恩恤深泉骸に及べば人心随て和を感ず。是必然之理と奉存候。謹而古典を考候に、労を以て国を定むる者は祀る、死を以て事を勤る者は祀る共相見え申候。先臣楠正成一門之者共、忠節を 皇家に尽し、武功を古今に顕し、其終一死を以て殉国候段、誠に以臣子之亀鑑、祀典に被列相当之者と奉存候。然るに未御旌表之御沙汰も不奉伺、遺憾奉存候。何卒新に神号を降賜り、祀典に被列、皇都之内可然地を相し、一社御建立被為在候様仕度、且又近古以来国事之為に身を亡し、未御収恤を不蒙者、其数不少、一念爰に及ぶことに測憺悽愴之至に不堪奉存候。是等の幽魂托する処なく、自然天地の和気を破候より、邦内之不静謐引出候儀共奉存候間、仰願くは此者共之精霊をも被慰、合祀して一之摂社と存し、右楠社境内に安置被為在候様仕度奉存候。左候得ば特一時之 御盛典のみならず、万載洪基之 御守とも相成、且は敵愾仗義之風尚ふも乍左、感発作興之一助とも可相成、是賎位多年の宿願に付、伏而奉上言候。万一愚者之一元、御聖択をも奉蒙候はゞ、感恩之至に不堪奉存候。臣慶勝誠恐惶頓首敬白。 慶応三年十一月 大納言慶勝 上 (スペースの部分は欠字または平出です(ただし一例)。以下同じ) この中で慶勝は、古典を考証したところ、国家に功績を残した者と死を以って勤めた者は祀るべきだと説き、まず祭祀すべき人物として楠木正成を挙げた。楠木正成は皇室に忠誠を尽くし、武功を挙げて殉国しており、臣民の鏡とすべき人物であるにもかかわらず、いまだ国家として顕彰されず遺憾であるという。神号を賜って京都に彼を祀る神社を創建し、また近年国事のためにその身を殉じた者達の霊も摂社として、楠木正成を祀る神社の境内に創建することを願い出ている。そうすれば、(国家の)事業を一時だけでなく永遠に守護して、(他の国々と)張り合おうとする勢いが盛んになり、物事が正しく行われるようになるだろうと主張している。 この建白において、先の薩摩藩との違いが注目される。薩摩藩の建白では、湊川に建てるとしていたが、この建白では京都に立てるとしている。祭神についても、薩摩藩では護良親王など他の南朝忠臣などを合祀するとしていたが、尾張案では、神社には正成のみを祀り、その摂社において、国家に殉じたものを広く合祀することを提案している。 11日、尾張藩京都留守居役の尾崎八右衛門忠征は藩地の荒川甚作(忠征の実子)に楠社創建の建白をしたことを伝えるとともに、左大臣近衛忠房に建白書を見せ、その是非を伺った。忠房は翌日、父と協議すると伝えた。12日忠房は父近衛忠熙と協議しこの建白書に賛同することを決め、建白書に連署して朝廷へ差し出した。18日、尾崎忠征は慶勝と会い、建白書を武家伝奏や摂政二条斉敬や国事御用掛・参与などに見せることを伝える。こうして朝議にその建白書が出ると、すぐさま反応があった。19日には飛鳥井雅典が斉敬に対して建白書に賛意を示すことを伝えている。24日、嵯峨実愛も賛意を示し、すぐさま創建に取り掛かるように意見している。これらを受け摂政二条斉敬は25日に近衛忠房に意見を求めたが、当然忠房は賛意を示し、朝議は決したようである。 これを受け、26日、近衛忠熙は留守居役尾崎忠征に指示を出した。摂社祭神の「近古為国事ニ身ヲ亡し未御収恤を不蒙者」とはいかなる者か、詳細を調査し、社地の候補地についても調査し、報告することを命じた。これを受けて、同月、慶勝は再び建白した。 謹而奉上言候、楠社之一条ニ付、頃日奉建言候書而ニ、御付札ヲ以、蒙 仰候、近古以来国事ヲ以テ身ヲ亡シ、未御収恤ヲ不蒙者共、人名事蹟不洩取調、早々可申上旨奉拝承候。皇国節烈ノ士縷数枚挙ニ遑アラス。青史ニ載有之候事ハ、瞭然如指掌ニ候得共、其外曖昧難考索儀モ不少、且青史之事蹟モ、一朝ニシテ能捜尽スヘキニアラス。正史・野乗・閭閻・口碑ノ説ヲ雑取、強而博綜ヲ極、繊芥ヲ不違事ヲ欲スル時ハ、玉石混淆、遺漏誤脱ノ失ヲ生シ、不可然ト奉存候、 天下更始ノ時ニ当テ、国歩之艱難ニ身ヲ殉候者、忠魂義魄ヲ御祭祀被遊、褒崇之典ヲ明示シ、人名ノ区別ヲタテス、死者暝目、生者立志候様至要ト奉存候。猶更宜御廷議御裁決被遊候様、奉願候。但右御建立地所之儀モ御下問、被為 在奉拝承候。右者何レニテモ別段見込之場所迚ハ無御座候得共、神楽岡辺抔相応之地ニモ候半款歟。尤是ハ、 御廷議次第之御議ト奉存候事。 十一月 大納言慶勝 上 慶勝は「近古以来国事ヲ以テ身ヲ亡シ未御収恤ヲ不蒙者」について、その数は枚挙にいとまなく、その事蹟は曖昧ではっきりしない者もおり、すぐさま全てを調査しきることは出来ない。強いて名前を挙げれば、「玉石混淆、遺漏誤脱」の恐れがあるので、個人の区別をせずに、まとめてその霊魂を合祀することを述べている。また社地について、特に考えは無いが、京都神楽岡が良いのではないかとしている。これによると、慶勝は楠社の摂社について、のちの靖国神社に近い構想(但し、靖国神社は原則として祭神の名前などを全て明らかにすることになっている)を持っていたことが分かる。なお、森田康之助によると、慶勝が神楽岡を候補地としたのは、京都の尾張藩邸がその近くにあったからだけのことで、その土地に特に考えがあったわけではないらしい。 この2回目の建白に対する朝廷の反応は明らかでない。恐らく、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争や新政権の諸事務で、積極的に取り合う余裕が無いため、指示を出すことができなかったのだろう。そのため、徳川慶勝は1868年(明治元年)3月に3度目の建白書を、前2回の建白書も添付して提出した。 謹而奉上言候、臣慶勝旧冬上直之砌、一之別紙之趣建白仕候処、御付札ヲ以テ御下問ヲ蒙候付、二之別紙之趣猶又奉拝答候儀御座候。 爾来世態一変、万機御鞍掌、右等之辺御評議之御暇モ乍恐如何可被為在哉。然処近来弥増 御徳輝御盛昌、 御大業漸々御開盛之折柄、右等等之御盛挙モ被為在候ハヽ、自然人々所嚮ヲ知候様相成、御風化之一端歟ト愚考仕候付、当時 御見込之程ハ難奉測候得共、不堪渇望、重而奉上言候。臣慶勝 誠惶誠恐頓首敬白。 三月 大納言 慶勝 上 しかし、同じ3月には一度計画をするが中断した薩摩藩が動き出していた。詳しくは後述するが、兵庫裁判所に配属されていた薩摩藩士岩下方平(岩下佐次右衛門)らは兵庫裁判所総督東久世通禧に楠社創建の請願をしている。注目されるのは、藩が主体となって創建するのではなく、政府が主体となって創建することを請願してることである。これを受け、東久世通禧はその建白を奏上し、聴許されている。 また一方、明治維新によって新たに設けられた官庁神祇事務局は、楠社創建を国家が主催するに値することとして重視し、その事業を神祇事務局が統轄しようと動き出した。こうして、同年4月21日に政府(太政官)は神祇事務局に楠社創建を命じることとなった。 もちろん、楠社創建がこれほどまでに重視され、実行することが決定されたのは、薩摩藩や尾張藩の建白があったからではあるが、尾張藩はその主役からは外されることとなる。太政官は、27日尾張藩に対して、この旨を達している。その達の文面の上では慶勝の建白が採用されたことになっているが、慶勝の意見とは異なり、兵庫に建てられることが決まったことが述べられていた。 しかし尾張藩はあくまで京都に創建することにこだわり、6月に尾張藩主徳川義宜(徳成)は建白を出した。 それによると、兵庫における楠社創建の決定には実に深く感じ入ったが、京都は人々の集まるところなので、京都にも1社創建してほしいと請願している。もしそれが決定されるならば、尾張藩に任せるようにとも述べている。政府内では京都創建に同意する者が多かったようであり、7月17日、政府はこの請願を認め、尾張藩に社殿設計、社地候補地を調査するように命じた。これに対して、尾張藩は11月17日、その報告書を提出した。 尾張藩が設計した社殿などの図面は現存していないが、この意見は取り入られたらしく、京都の楠社創建の実現は現実性を帯びてきている。社地の候補地は特に考えは無く、前年の建白の通り、神楽岡でよいのでないかとしている。これを受けて神祇官で協議され、楠社の社地について意見している。神祇官は12月9日、社地は京都東山操練場の隅がよいだろうと述べている。この神祇官の意見に対して、鷹司輔熙・松平慶永・中御門経之・福岡孝弟・阿野公誠が、あたかも操練場の祭神のようだと反対した。さらに、これを受けて鷹司輔熙・中山忠能・徳大寺実則・阿野公誠らが主張して、廟社は戦死した遺跡に建てるものであり、京都に建てるべきではないとした。一度、京都創建の実現性が高まったものの、この意見が決め手となり、翌1869年(明治2年)3月30日に京都に楠社を創建することは却下する達がなされた。 なお、この祭神由緒の地に神社を建てるべきだという意見はその後の、人物を祀る神社の創建の際の基本原則となったようである。こうして、尾張藩の請願は実現しなかったが、尾張藩は兵庫県の楠社創建の支援を命じられた。
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