楠木正成とは?

くすのき‐まさしげ【楠木正成】


くすのき‐まさしげ【楠木正成】


楠木正成

作者大仏次郎

収載図書少年小説体系 第4巻 大佛次郎
出版社三一書房
刊行年月1986.2

収載図書少年小説大系 4 大次郎
出版社三一書房
刊行年月1986.2


楠木正成

作者榊山潤

収載図書暁闇うごめく南北朝室町
出版社講談社
刊行年月1992.4
シリーズ名歴史小説名作


楠木正成

作者童門冬二

収載図書江戸柳生と尾張柳生
出版社中央公論社
刊行年月1996.10
シリーズ名中公文庫


楠木正成

作者海音寺潮五郎

収載図書武将列伝 源平
出版社文藝春秋
刊行年月2008.3
シリーズ名文春文庫


楠木正成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 06:24 UTC 版)

楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自不詳。自称は橘氏後裔。息子に正行正時正儀


注釈

  1. ^ 頼山陽の『日本外史』(文政10年(1827年))は正成の没年を数え43歳としている[1]。ここから逆算すると、永仁2年(1294年)の生まれとなる。しかし、『日本外史』説に史料的根拠は無い[1]。今井正之助によれば、享年43歳説は、『太平記評判秘伝理尽鈔』(1600年ごろ)に端を発するという[2]
  2. ^ a b 通俗的には和泉守(和泉国司)にも任じられていたとされるが、『大日本史料』によれば、和泉守説を裏付ける史料はない[3]。正成は、河内・摂津の国司であると同時に、河内・摂津・和泉の「守護」でもあったので、通俗書が守護と国司を取り間違えたものであろう[3]
  3. ^ 現在でも駿河の国(静岡市清水区)には長崎と楠(古文書では楠木)という地名が隣接して存在している。
  4. ^ ただし合戦の火蓋が切られたのは27日ともいわれる[50]
  5. ^ 和暦(明治元年以降はグレゴリオ暦と一致する)。
  6. ^ 大覚寺統に流行っていた宋風の書の影響が見られるという。
  7. ^ a b c 正式には『故太宰帥親王家御遺跡臨川寺領等目録』(天竜寺文書)
  8. ^ 『増鏡』『太平記』も27日説を取るが、『南山錦雲抄』『東寺年代記』は26日、『笠置寺縁起』は29日とする[73]
  9. ^ 兵衛尉は、少尉が従七位上相当で、大尉が正七位下相当、左衛門少尉は正七位上相当。一階か二階の昇進となる。反幕勢力内での昇進のため、幕府側には伝わらなかった。昇進を許可したのが後醍醐天皇か大塔宮かは不明。
  10. ^ 詳細には、金剛山吉水院主律師真遍言上状(金峯山文書)
  11. ^ その後、斯波高経は翌建武2年(1335年)1月30日にようやく反乱軍を鎮圧[169]
  12. ^ 遅くとも建武2年(1335年)8月12日以降、京の決断書の牒文から正成の署名が消える[173]
  13. ^ 贈正三位説は『太平記評判秘伝理尽鈔』等に載り、徳川光圀もこれを採用して「嗚呼忠臣楠氏楠子之墓」に載せた[195]。しかし、渡辺世佑「吉野朝以後の楠氏」(1935年)は、詳細な検討の上で、従五位上から正三位に急陞することは当時考えにくいと結論づけており、今井正之助もこれに賛同する[195]
  14. ^ 「忠功」を「功績」の意味に用いる当時の用例としては、『太平記』巻12「千種殿文観僧正奢侈事」の「六波羅ノ討手ニ上リタリシ忠功ニ依テ」や巻32「鬼丸鬼切事」の「朝敵ノ大将を討タリツル忠功抜群トイヘハ」など[199]
  15. ^ 記録所の寄人では他に、清原氏小槻氏坂上氏も官僚的氏族である。
  16. ^ 「七生」は七度生まれ変わって朝敵を滅ぼすの意味。後代にはこれに「報国」の意味が加わり「七生報国」と呼ばれた。

原文

  1. ^ a b c 『今田文書』(湊川神社宝物)『法華経』自筆奥書「
    夫法華経者、五時之肝心、一乗之腑蔵也、拠斯三世之導師、以此経為出世之本懐、八部冥衆、以此典為国之依憑、就中本朝一州円機純𤎼、宗廟社稷護持感応、僧史所載縡具縑緗、爰正成忝仰朝憲敵対逆徒之刻、天下属静謐、心事若相協者、毎日於当社宝前、可転読一品之由、立願先畢、仍新写一部所果宿念如件。
     建武二年八月廿五日 従五位上行左衛門少尉兼河内守 橘朝臣正成敬白」[174]
  2. ^ a b c 旧讃岐高松藩士楠氏家蔵文書「
     建武之比、先祖正成依為朝敵被、勅勘一流已沈淪訖。然今為其苗裔悔先非、恩免之事、歎申入之旨、被聞食者也。弥可抽奉公之忠功之由、天気如此悉之以状。
      永禄二年十一月廿日 右中弁(花押)
       楠河内守殿
    並に、
     楠木正成は、建武の古、朝敵たるによりて累葉誅罰せられ候へども、唯今正虎先非を悔いて歎き申候程に、赦免せられ候。弥々奉公の忠を致し候様に仰せ聞かせられ候べく由、心得て申べく候、かしく。
      万里小路前大納言殿へ」(万里小路前大納言は万里小路惟房[197]
  3. ^ 林羅山『鎌倉将軍家譜』元亨2年4月条「頃年摂津国住人渡辺右衛門尉狭野心高時使河内国住人楠正成撃平之、又紀伊国安田庄司有逆心正成撃殺之、賜安田旧領於正成、又大和国越智四郎与六波羅相拒、攻之不利、正成襲撃滅之」[70]
  4. ^ 『増鏡』「笠置殿に大和、河内、伊賀、伊勢などより兵ども参り集ふ中に、事の初より頼みおほされたりし楠木兵衛正成と云ふ者あり、心たけくすくよかなるものにて、河内国におのが館の辺りを厳めしくしたゝめて、此のおはします所、若し危うからん折は、行幸をもなし聞えんなど用意しけり」[72]
  5. ^ 『法隆寺別当次第』憲信僧正「同廿七日笠置寺入御、日本国動乱之元始是也」[73]
  6. ^ 『増鏡』「中務の御子大塔の宮などは、予てより、こゝを出でさせ給ひて、楠が館におはしましけり」[77]
  7. ^ 『光厳院宸記』元弘元年10月18日裏書条「御事書ヲ以テ仰云、天下未静謐、楠木城合戦落居之程、難給御返事暫可在京旨被之云々[81]
  8. ^ 『北条九代記』(『鎌倉年代記』)裏書「元弘元年辛未十月廿一日楠落城、但楠兵衛落行」[83]
  9. ^ 『光厳院宸記』正慶元年6月29日条「是自熊野山、帯大塔宮令旨竹原八郎入道為大将軍襲来云々、驚歎不尠」[93]
  10. ^ 保暦間記』「天台座主山々を廻りて義兵を挙げ、河内国住人、楠正成と云ふものあり。彼を説いて、河内と大和との国境に金剛山と云ふ山に、城廓を構へて、畿内近国の勢を語ふ云々」(天台座主は大塔宮(護良親王)のこと)[92]
  11. ^ a b 『河内国天野山金剛寺文書』「
    御巻数給候了。早可令進覧候。恐々謹言。
      十二月九日 左衛門尉正成(花押)
     謹上 金剛寺衆徒御返事」「
    祈祷巻数賜候了。種々御祈念、返々為悦候。恐々謹言。
      十二月九日 左衛門少尉正成(花押)
     謹上 金剛寺三綱御返事[104]
  12. ^ 『花園天皇宸記』正慶元年11月15日条「楠木事猶興盛候歟。自昨日門々番衆等著鎧直垂祇候候之間、定子細候歟之由、推量候。只冥助之外、無所憑。関東武士も上洛遅々之間、返々非無怖候。熾盛光法、尤忩々可被始行候歟。以俊禅僧正被申入了。仍承之。此時分、懇祈外、不可有他候乎。風気此両三日得減候也。事々期面候。謹言。」[97]
  13. ^ 『紀伊続風土記』附録『須田文書』「
    依大塔宮幷楠木兵衛尉正成事、自関東尾藤弾左衛門尉所上洛也。有可被仰之子細、不廻時刻可被参洛。仍而執達如件。
      正慶元年十二月五日 左近将監(花押)
         越後守(花押)
       須田一族中」(須田時親に宛てた文書。左近将監は北条時益、越後守は北条仲時[100]
  14. ^ 『楠木合戦注文』十二月日「一 為楠木被取籠湯浅党交名 安田二郎兵衛尉重顕 阿矢河孫六入道定仏 藤並彦五郎入道 石垣左近将監宗有 生地蔵人師澄 宮原孫三郎 湯浅彦次郎時弌 糸賀野孫五郎」[102]
  15. ^ 『和田文書』和田助家への招集状「
     りやうろくはら
    大塔宮幷楠木兵衛尉正成事、為誅伐所差遣軍勢也。去年雖発向、重可進発云々、殊以神妙。引率庶子親類可抽軍忠之状、依仰執達如件。
      正慶元年十二月九日 右馬権頭(花押)
         相模守(花押)
       (宛名欠)」(右馬権頭は連署北条茂時、相模守は執権北条守時[103]
  16. ^ a b 甲斐身延山所蔵『金剛集裏書』「九日より京中以外騒動候。阿くた川に朝敵充満し、山崎迄せめ入候間、宇つ宮赤松入道賜打手、早速進返候了。仍仁定寺に構城廓、引籠候を、宇都宮ついで責取、即ち昨日打落頸其数令持参候。是大塔殿御所為と申候也」(「昨日」は12月15日)[105]
  17. ^ 『紀伊葛原文書』「
    楠木兵衛正成事、押寄隅田荘之時、度々及合戦数十人徒討留畢、殊以神妙也、仍而執達如件
      正慶元年 十二月十九日 左近将監(判)
      越後守(判)
     隅田一族中」[106]
  18. ^ 『久米田寺文書』「
    当寺幷於寺領等不可有官兵之狼藉由事、令旨進候。此上者、弥可令抽御祈祷之忠勤賜候哉。恐惶謹言。
     正月五日 左衛門尉正成(花押)
     進上 久米田寺御寺者」(12月26日付令旨に翌年1月5日正成が添付した文)[109]
  19. ^ 『真乗院文書』「
    今月八日御札、同廿三日到来。委細拝見仕了。
    抑為追罰大塔宮・楠木兵衛尉正成、可発向茅和屋城由事、御教書案文拝見仕了。早速企参上可供奉仕候。但老父境節本病更発仕候。難儀最中候。可有御心得候。是非早々上洛仕、可申入候。恐々謹言。
      正月廿五日 大中臣頼景(判)
     謹上 和田修理亮太郎殿」[102]
  20. ^ 『道平公記』正慶2年1月16日条「去夜楠木丸与官軍於泉境合戦」[108]
  21. ^ 『楠木合戦注文』「自十九日己時一日合戦、戌亥時に追落、楠木渡辺に責御米少々押取」[113]
  22. ^ 『楠木合戦注文』「斉藤新兵衛入道、子息兵衛五郎、佐介越前守殿御手トシテ相向奈良道是者搦手之処、去月廿七日楠木爪城金剛山千早城押寄、相戦之間、自山上以石礫、数カ所被打畢、雖然今存命凡家子若党数人手負或打死」[129]
  23. ^ 『前田侯文書』「
    大塔宮幷楠木兵衛正成事、為誅伐所差遣軍勢也。早為一揆之思、令対治凶徒者、可有其賞之状依仰執達如件
      正慶二年二月丗日 右馬権守(判)
      相模守
     東大寺衆徒中」[130]
  24. ^ 『楠木合戦注文』「大手本城平野将監入道既三十余人参降畢。此内八人者逐電、或生捕、或及自害。彼所又以被落之由、閏二月一日風聞。楠木舎弟同比城中在之是非左右未聞」[133]
  25. ^ 『門葉記』「正慶二年二月丗日勅書到来。合戦事、凶徒頗雌服。官軍乗勝。後二月朔日、楠木城既没落。平野将監入道以下生虜数輩自方々駕送之。」[134]
  26. ^ 『忽那開発記』「建武五戊寅三月小早河民部大夫入道相順・同左近将監景平以下輩起謀反、安芸国沼田庄内、楯籠妻高山之間、為誅伐同七日御発行直附到着抽軍忠後三月十一日楠多聞兵衛殿賜御判。」(閏3月(後三月)の無い建武5年の閏3月に、建武3年に死んだ正成が判を捺しているという奇妙な記事だが、藤田精一は『忽那開発記』に日付の書き間違いが多いことを指摘し、これも元弘3年の後二月(閏二月)の間違いだろうとしている。そして、正成が千早城にいながら他の地域と連絡を取れる手段を持っていたのではないか、と推測している)[136]
  27. ^ a b 「二月廿四日、主上出御隠岐国、同日遷座伯耆国稲津浦。同廿六日、遷幸船上山。」[139]
  28. ^ 『続史愚抄』「正慶二年三月五日戊戌六波羅勢与橘正成戦大敗道平公記[141]
  29. ^ 『博多日記』三月「二十二日自鎮西関東ニ上ル早馬、雑色ノ五郎三郎下着、金剛山ハ未タ不破、赤松入道可打入京之由、披露」[143]
  30. ^ a b 備後『因島文書』「度々合戦捨身命、軍忠之刻、去四月三日、同八日、同廿七日等合戦之時、子息已下郎従、討死之条尤以不便次第、所有御感也。早可恩賞者。大塔二品親王令旨如此、悉之以状 元弘三年五月一日 左中将(花押)。備後国因島大主治部法橋幸賀館」(「中」将ではなく「少」将か?)[145]
  31. ^ 『博多日記』四月「四日雑兵宗九郎自関東打返、金剛山をば近日可打落」[146]
  32. ^ 『和田系図裏書』「
     和田修理亮進正慶二、四、廿、
    和泉国御家人和田修理亮助家、茅葉屋城大手箭倉の下の岸を掘之時、今日四月廿日若党新三郎顕宗、腰骨をすこし右へよりて被射候了。仍注進如件
      正慶二年四月廿日 定兼(花押)
        資兼」[144]
  33. ^ 『和田文書裏書』「
     かん状正文
       はるとき
    於茅破城北山、至野臥合戦取頸了、尤神妙候、仍執達如件
      正慶二年四月廿一日 治時
        和田中次殿」(幕軍大将阿曽治時が和田助秀に与えた感状)[149]
  34. ^ 『紀伊続風土記附録』「爰其身者罷向金剛山城之折節、今年元弘三年五月二日安原卿大楠丸住宅に大塔宮祇候人保田次郎兵衛尉宗顕、生地蔵人師澄以下寄来、令放火之時、彼御下文等悉焼失候畢」(文中に「大楠丸」とあるのは正成ではなく襲撃を受けた栗栖実行の長子の名前)[148]
  35. ^ 『観心寺文書』(元弘3年)「
    此之間何等事候乎、抑為御祈祷、観心寺大師御作不動、可奉渡之由、被下綸旨候之間、申遣寺僧方候、明後日二十八日御京着候様、可候奉渡候也、御共に御上洛候べく候、心事期面候、恐々謹言
     十月二十六日 正成(花押)
     瀧覚御房」[165]
  36. ^ 『玉英記抄』「建武元、二、小除目、従五位下橘正成勲功章 従五位下橘正成、検非違使如元」[3]
  37. ^ 『略年代記抄出』(延元元年正月)「同七日楠木焼払宇治、依余燄平等院消失」[175]
  38. ^ a b 『真乗院文書』「右助康去年十一月廿八日馳参京都属御手自宇治令参東坂本 同十六日罷向西坂本」(和田助康の軍忠状、御手とは正成のこと)[178]
  39. ^ 『忽那重清軍忠状』「同晦日馳向搦手到散々合戦之上、重為四条河原相向朝敵人高橋党、到散々合戦責落畢、次依大将軍仰火口河原在家懸火、次馳向内野責附丹州道追山」(大将軍は洞院実世、実世が搦手を組織して戦っていた)[185]
  40. ^ 『和田助康軍忠状』「晦日鴨河原、内野合戦」(和田助康は正成配下だから、地理的に考えると正成が実世と合流して搦手で戦っていたことかがわかる)[185]
  41. ^ 河内国天野山金剛寺蔵『釈論』第九愚章、禅恵の記入「同三年正月十日帝落給入御山門、同十六日、日田殿折下京中散々合戦、同廿六日、廿七日、晦日三箇日之間、楠木判官大将斗ニテ足利殿足利兵庫ヨリ逃下備後土毛マデ」(日田は新田の誤記)[185]
  42. ^ a b 『和田助康軍忠状』「二月十日・十一日罷向打出・豊島河原到合戦忠節候畢」[188]
  43. ^ 『周布兼宗軍忠状』「今月十日於西宮浜手抽随分之軍忠」[188]

出典

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