万里小路惟房とは? わかりやすく解説

万里小路惟房

読み方までのこうじ これふさ

公卿。秀房の子。号は宗息院。内大臣正二位に至る。日記に『惟房日記』がある。その筆跡は『慶安手鑑』に見られる元亀4年(1573)歿、61才。

万里小路惟房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/30 00:15 UTC 版)

 
万里小路惟房
時代 戦国時代
生誕 永正10年(1513年
死没 元亀4年6月9日1573年7月7日
別名 号:崇恩院
官位 正二位内大臣
主君 後奈良天皇正親町天皇
氏族 万里小路家
父母 父:万里小路秀房
兄弟 貞子惟房、胤秀、房子
正室:畠山家俊[1]の娘
輔房伏見宮貞康親王御息所、今出川晴季室ら
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万里小路 惟房(までのこうじ これふさ)は、戦国時代公卿歌人内大臣・万里小路秀房の子。官位正二位・内大臣。号は崇恩院万里小路家11代当主。

経歴

永正10年(1513年)、万里小路秀房の子として誕生。正親町天皇の従兄弟にあたる。

天文8年(1539年12月25日参議となる。従兄弟である正親町天皇の勅使として、織田信長と接渉し、難しい時代の朝廷運営を支えた。元亀4年(1573年)に薨去するが、それに先立って内大臣に任ぜられた。

三条西実枝と並び、この時代を代表する教養人として名が知られていた。諸芸に秀でていたが特に書道歌道に優れ、格調高く迫力迫る和歌懐紙等が大名家に伝来している。室町時代の公家の気骨を知る上で、きわめて重要な書物である。また千利休が活躍した安土桃山時代の公卿でもあり、惟房の和歌懐紙の掛け幅は、現在の茶道において極めて珍重されている。

系譜

脚注

  1. ^ 大隅守、西谷内畠山家



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