追放後の活動とは? わかりやすく解説

追放後の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:53 UTC 版)

武田信虎」の記事における「追放後の活動」の解説

天文12年1543年6月には上洛し「京都南方」を遊覧している。晴信は今川氏後北条氏甲相駿三国同盟形成する信濃侵攻本格化させ越後国の上謙信との川中島の戦い展開しているが安定した領国支配行っており、この頃信虎出家して無人斎道有」を名乗っていることからも信虎甲斐国主への復権諦め隠居を受けいれていたと考えられている。また、今川家中では義元の「御舅殿」として遇され今川一門よりも上位置かれていた。 天文12年の上遊歴においては京都から高野山奈良遊歴し国主時代から交流のあった本願寺証如使者派遣して挨拶している。さらに信虎武田家師檀関係にあった高野山引導院を参詣し(なお、晴信は実弟信繁を介して謝礼行っている)、さらに奈良へ赴き同年8月9日には多聞院英俊信虎奈良遊歴記している。信虎奈良遊歴する同月15日には駿河国戻っている。天文19年1550年)には今川義元の室になっている娘が死去している。 その後上方における消息もみられず駿河国過ごしていたと考えられていたが、息子である信友に「家督」を譲った後の弘治3年1558年以降は生活の拠点京都移し幕府在京奉公するうになる今川家では永禄3年1560年5月桶狭間の戦いにおける当主義元討死すると氏真へ当主交代する武田家では、翌永禄4年第四次川中島の戦い以降北信を巡る越後上杉氏との抗争収束し永禄7年1567年)には義元娘を正室とする晴信嫡男義信廃嫡される義信事件発生し、これらの情勢変化背景に甲駿関係は悪化し、甲駿同盟手切となり永禄11年1568年)には武田氏による駿河今川領国への侵攻開始される駿河侵攻)。 『甲陽軍鑑』や『武田源氏一統系図』において信虎再上洛桶狭間以降としているが、公家山科言継義元生前永禄元年1558年)から例年にわたり信虎への年始挨拶などを行っており、信虎は京に邸をもち継続的に在京奉公行っていたと考えられている。信虎在京守護として将軍足利義輝に仕候し、言継は永禄2年1559年)において信虎身分を「外様」「大名」と記しており、儀礼的には高い席次であった。また信虎上洛していた同じ甲斐源氏の一族でもある南部信長諸大名交流持ち飛鳥井雅教万里小路惟房公家との文化的交流もあり、永禄3年1560年)には菊亭晴季に娘を嫁がせている。この永禄3年から永禄5年1562年)末まで信虎駿府在住もしくは京都駿府往復していた可能性が高い。その理由としては、永禄3年6月桶狭間の戦いにおいて今川義元戦死したとの報が飛び込んできたため、息子である信友外孫である今川氏真の身を案じた行動考えられる永禄7年1564年)から永禄10年1567年)、信虎志摩国英虞郡地頭一人である甲賀氏のもとに身を寄せていた。この間九鬼氏志摩追われ織田氏配下となっているが、信虎少なからずこの事件何らかの関わりをもったものと考えられる。この事が、のちの近江国甲賀(こうが)郡派遣関連があるのかは定かではない永禄8年1565年)には将軍義輝三好三人衆討たれる永禄の変発生する。『言継卿記においては信虎動向記され不明で、一時的に駿河国戻っていた可能性考えられている(丸島)。永禄10年1567年)には在京であることが確認されその後在京活動続けている。 なお、『甲陽軍鑑』や『松平記』では信虎信玄に氏真の排除勧め、これを知った真によって追放されたとするが、実際に信虎京都移住した理由信友への家督相続に伴う隠居であり、またその後信虎が反今川氏な行動を見せたとする証拠存在しない平山優はこうした事実があるならば、駿府にいた信友家族の身に危険が及ぶ筈であるが、そうした事実はないことからも否定できるとする)。 永禄11年1568年)には尾張国織田信長三好政権駆逐し上洛し、足利義昭将軍奉じている。武田氏信長同盟関係にあり信虎将軍義昭に仕候しているが、信長同盟関係にあった三河国徳川家康とは敵対しており、元亀年間には信長との関係も手切となり、信玄将軍義昭迎合した反信長勢力呼応して大規模な遠江三河への侵攻開始する西上作戦)。元亀4年1573年3月10日義昭信長に対して挙兵するが、義昭動向信長内通し細川藤孝により知らされており、信虎義昭の命で甲賀郡派遣され、反信長勢力六角氏とともに近江攻撃企図していたという(『細川家文書』)。また、平山優甲賀幕臣として信虎所領存在していた可能性指摘している。義昭の挙兵は、同年4月12日信玄西上作戦途上死去し武田勢撤兵したことで失敗し、反信長勢力滅ぼされ義昭も京から追放されている。 甲斐国では信玄側室との間に生まれた勝頼が家督継いでおり、天正2年1574年)に信虎可愛がっていた三男武田信廉居城である高遠城身を寄せ、勝頼とも対面したという。同年3月5日伊那娘婿根津常安根津元直長男)の庇護のもと、信濃高遠死去した享年81葬儀信虎創建した甲府大泉寺行われ供養高野山成慶院実施されている(『武田家過去帳』)。

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