追放後の活動
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天文12年(1543年)6月には上洛し「京都南方」を遊覧している。晴信は今川氏、後北条氏と甲相駿三国同盟を形成すると信濃侵攻を本格化させ越後国の上杉謙信との川中島の戦いを展開しているが安定した領国支配を行っており、この頃に信虎は出家して「無人斎道有」を名乗っていることからも信虎は甲斐国主への復権を諦め隠居を受けいれていたと考えられている。また、今川家中では義元の「御舅殿」として遇されて今川一門よりも上位に置かれていた。 天文12年の上方遊歴においては京都から高野山・奈良を遊歴し、国主時代から交流のあった本願寺証如も使者を派遣して挨拶している。さらに信虎は武田家と師檀関係にあった高野山引導院を参詣し(なお、晴信は実弟・信繁を介して謝礼を行っている)、さらに奈良へ赴き同年8月9日には多聞院英俊が信虎の奈良遊歴を記している。信虎は奈良を遊歴すると同月15日には駿河国へ戻っている。天文19年(1550年)には今川義元の室になっている娘が死去している。 その後は上方における消息もみられず駿河国で過ごしていたと考えられていたが、息子である信友に「家督」を譲った後の弘治3年(1558年)以降は生活の拠点を京都に移し、幕府に在京奉公するようになる。 今川家では永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いにおける当主義元が討死すると氏真へ当主交代する。武田家では、翌永禄4年の第四次川中島の戦い以降、北信を巡る越後上杉氏との抗争が収束し、永禄7年(1567年)には義元娘を正室とする晴信嫡男の義信が廃嫡される義信事件が発生し、これらの情勢の変化を背景に甲駿関係は悪化し、甲駿同盟は手切となり永禄11年(1568年)には武田氏による駿河今川領国への侵攻が開始される(駿河侵攻)。 『甲陽軍鑑』や『武田源氏一統系図』において信虎の再上洛は桶狭間以降としているが、公家の山科言継は義元生前の永禄元年(1558年)から例年にわたり信虎への年始挨拶などを行っており、信虎は京に邸をもち継続的に在京奉公を行っていたと考えられている。信虎は在京前守護として将軍・足利義輝に仕候し、言継は永禄2年(1559年)において信虎の身分を「外様」「大名」と記しており、儀礼的には高い席次であった。また信虎は上洛していた同じ甲斐源氏の一族でもある南部信長ら諸大名と交流を持ち、飛鳥井雅教や万里小路惟房ら公家との文化的交流もあり、永禄3年(1560年)には菊亭晴季に娘を嫁がせている。この永禄3年から永禄5年(1562年)末まで信虎は駿府に在住もしくは京都と駿府を往復していた可能性が高い。その理由としては、永禄3年6月の桶狭間の戦いにおいて今川義元が戦死したとの報が飛び込んできたため、息子である信友や外孫である今川氏真の身を案じた行動と考えられる。 永禄7年(1564年)から永禄10年(1567年)、信虎は志摩国英虞郡の地頭の一人である甲賀氏のもとに身を寄せていた。この間、九鬼氏が志摩を追われ織田氏の配下となっているが、信虎は少なからずこの事件と何らかの関わりをもったものと考えられる。この事が、のちの近江国甲賀(こうが)郡派遣と関連があるのかは定かではない。 永禄8年(1565年)には将軍・義輝が三好三人衆に討たれる永禄の変が発生する。『言継卿記』においては信虎の動向が記されず不明で、一時的に駿河国に戻っていた可能性も考えられている(丸島)。永禄10年(1567年)には在京であることが確認され、その後も在京活動を続けている。 なお、『甲陽軍鑑』や『松平記』では信虎が信玄に氏真の排除を勧め、これを知った氏真によって追放されたとするが、実際には信虎が京都に移住した理由は信友への家督相続に伴う隠居であり、またその後も信虎が反今川氏的な行動を見せたとする証拠は存在しない(平山優はこうした事実があるならば、駿府にいた信友ら家族の身に危険が及ぶ筈であるが、そうした事実はないことからも否定できるとする)。 永禄11年(1568年)には尾張国の織田信長が三好政権を駆逐して上洛し、足利義昭を将軍に奉じている。武田氏は信長と同盟関係にあり信虎も将軍義昭に仕候しているが、信長と同盟関係にあった三河国の徳川家康とは敵対しており、元亀年間には信長との関係も手切となり、信玄は将軍・義昭が迎合した反信長勢力に呼応して大規模な遠江・三河への侵攻を開始する(西上作戦)。元亀4年(1573年)3月10日に義昭は信長に対して挙兵するが、義昭の動向は信長に内通した細川藤孝により知らされており、信虎は義昭の命で甲賀郡に派遣され、反信長勢力の六角氏とともに近江攻撃を企図していたという(『細川家文書』)。また、平山優は甲賀に幕臣としての信虎の所領が存在していた可能性を指摘している。義昭の挙兵は、同年4月12日に信玄が西上作戦の途上で死去し武田勢が撤兵したことで失敗し、反信長勢力は滅ぼされ義昭も京から追放されている。 甲斐国では信玄側室との間に生まれた勝頼が家督を継いでおり、天正2年(1574年)に信虎は可愛がっていた三男・武田信廉の居城である高遠城に身を寄せ、勝頼とも対面したという。同年3月5日、伊那の娘婿・根津松鴎軒常安(根津元直の長男)の庇護のもと、信濃高遠で死去した。享年81。葬儀は信虎が創建した甲府の大泉寺で行われ、供養は高野山成慶院で実施されている(『武田家過去帳』)。
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