追放令後のフィリピン侵略計画とは? わかりやすく解説

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追放令後のフィリピン侵略計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 00:46 UTC 版)

バテレン追放令」の記事における「追放令後のフィリピン侵略計画」の解説

マニラの戦い (1574)」および「カガヤンの戦い (1582)」も参照 日本人によるフィリピン侵略恐れについて書かれ最古のものは1586年評議会メモリアルである。マニラでは日本人倭寇単なる略奪上の野心持っているかもしれない推測されており「彼らはほとんど毎年下山しルソン植民地にするつもりだと言われている」と警鐘鳴らしていた。 1592年豊臣秀吉フィリピンに対して降伏朝貢要求してきたが、フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスは1592年5月1日付で返事出しドミニコ会修道士フアン・コボ秀吉届けたコボアントニオ・ロペスという中国人キリスト教徒とともに日本に来たが、コボロペスは、朝鮮侵略のために九州建てられ名護屋城秀吉面会した原田喜右衛門その後マニラへの第二次日本使節団個人的に担当することになり、アントニオ・ロペス原田の船で無事にマニラ到着した1593年6月1日ロペス日本見たこと行ったことについて宣誓の上綿密な質問受けたが、そのほとんどは日本フィリピン攻撃する計画について知っているということに関するものであったロペスはまず秀吉原田喜右衛門征服任せた聞いた述べたロペス日本側の侵略動機について答えたフィリピン黄金豊富にあるという話は万国共通である。このため兵士たちはここに来たがっており、貧しい国である朝鮮には行きたがらない ロペスはまた日本人フィリピン軍事力について尋問されたとも述べている。アントニオ・ロペスフィリピンには4、5千人スペイン人がいると答えたのを聞いて日本人嘲笑った。彼らはこれらの島々防衛冗談であり、100人の日本人は2、300人のスペイン人と同じ価値があると言ったという。ロペス会った誰もがフィリピン征服され暁には原田喜右衛門総督になると考えていた。 その後侵略軍の規模についてロペス長谷川宗仁指揮10万人が送られる聞いたが、ロペスフィリピンには5、6千人兵士しかおらず、そのうちマニラ警備3、4千人以上だと言うと日本人1万人で十分と言った。さらにロペス10隻の大型船輸送する兵士5、6千人以下と決定したことを告げたロペス最後に侵攻経路について侵略軍は琉球諸島経由してやってくるだろうといった。 1597年2月処刑され26聖人一人であるマルチノ・デ・ラ・アセンシオン(スペイン語版)はフィリピン総督宛の書簡で自らが処刑されることと秀吉フィリピン侵略計画について日本聞いた事を書いている。「(秀吉は)今年朝鮮人忙しくてルソン島にいけないが来年にはいく」とした。マルチノはまた侵攻ルートについても「彼は琉球台湾占領し、そこからカガヤンに軍を投入し、もし神が進出止めなければ、そこからマニラ攻め入るつもりである」と述べている。 日本によるフィリピン侵略秀吉だけでなく、1630年松倉重政によって計画が行われた。マニラへの先遣隊1631年7月日本に帰国したが1632年7月までスペイン側厳戒態勢をしいていた。1637年には息子松倉勝家の代においても検討なされたその後5年間はフィリピンへの遠征考慮されなかったが、日本迫害から逃れてきたキリスト教難民マニラ到着し続け一方で日本への神父逆流続いていた……松倉重政の後を継いだ息子松倉勝家は、父に劣らず暴君キリスト教の敵であったが、勝家島原大名として在任中に最後フィリピン侵略企て遭遇することになる。 — 海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー69(4)、102016、pp. 8-9 オランダ人1637年フィリピン侵略計画発案者徳川家光だと確信していたが、実際将軍ではなく上司機嫌をとろうとしていた榊原職直馬場利重だったようである。遠征軍松倉勝家などの大名将軍代理として供給しなければならなかったが、人数については、松倉重政計画していた2倍の1万規模遠征軍想定されていた。フィリピン征服司令官松倉勝家が有力であったが、同年におきた島原の乱によって遠征計画致命的な打撃受けた島原の乱数ヵ月後、将軍徳川家光諮問機関廃城となっていた原城を奪うために必要な努力と、何百マイル移動して当時東アジアで最も要塞化された都市一つであったマニラ要塞対抗するために同様の規模の軍と同様の海軍支援計画することを比較検討したフィリピン侵攻のために用意した1万人の兵力10万人、つまりその3分の1の反乱軍打ち勝つために原城投入しなければならなかった兵力あるべきとの分析なされた

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「追放令後のフィリピン侵略計画」を含む「バテレン追放令」の記事については、「バテレン追放令」の概要を参照ください。

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