追放令以前の宣教師の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:55 UTC 版)
「バテレン追放令」の記事における「追放令以前の宣教師の状況」の解説
日本初の南蛮外科医である修道士ルイス・デ・アルメイダは、有馬晴純は領内にあった十字架を倒し、キリスト教徒が元の教えに強制改宗するように命じたと1564年十月十四日付、豊後発信の書簡で言及している。1563年十一月七日頃には横瀬浦港にある修道院が焼かれ、次いですぐにキリシタンの農民たちの家が焼かれたという。こうしてキリスト教と仏教の信者間での対立関係が悪化していたが、日本におけるイエズス会の責任者であるヴァリニャーノは寺社仏閣の破壊を禁じていた。 「仏教と暴力」も参照 長崎はもともと小さな寒村に過ぎなかったが、カリオン神父は ここには諸領主から迫害されて信仰を失いまいとして各地から追放されて来た様々なキリスト教徒たちによって造られた四百以上の家屋からなる集落がある と述べている。大村純忠は新町長崎と茂木の寄進状を天正八年四月二十七日(1580年6月9日)付で発行、都市の無期限使用権と治外法権を与える代わりに、港の関税、入港税を永久に確保し、徴収のための役人を常駐させることにした。大村純忠のポルトガル船の誘致、新町長崎と茂木の寄進の打診は1579年秋にヴァリニャーノが訪問した際になされていたが、イエズス会は1580年10月、1582年12月において論議し申し出を受け入れることを裁決した。その理由として、戦争が絶えずある日本で、イエズス会は全資産を長崎に有しているため、安全な土地を持つ必要があること、戦渦や迫害により土地を追われたキリシタンのための避難所となること、ポルトガル船が来航することで、イエズス会の必要とする必需品がもたらされること、いつでも同地を手放すことができる自由裁量権があること等を挙げている。
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