日本初の一覧
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日本初の一覧(にほんはつのいちらん)は、現存の是非にかかわらず、日本で(あるいは日本人による)初めてのことがらの一覧である。
- ^ この説に対しては『薬経太素』なる書は存在しないとする強い批判がある。そもそも同書は『日本後紀』延暦18年(799年)2月乙未(21日)条に「(和気広世)大学会諸儒講論陰陽書新撰薬経太素等」とあり、これを「大学に諸儒を会して陰陽の書を議論し、新たに薬経太素等を撰す」と訓じたことに由来する。しかし、同条については、「大学に諸儒を会し、『陰陽書』、『新撰薬経』、『太素』等を講論す」と訓じる説が通説である。『陰陽書』は、詳細は不明であるが、呂才撰『陰陽書』(『大唐陰陽書』)などの陰陽道の基本書を指すと考えられる。また、『新撰薬経』は、蘇敬ほか撰『新修本草』の薬図・図経(略して薬経)のこと、『太素』は、楊上善撰『黄帝内経太素』のこととみられ、両書とも当時の医学の基本書を指すと考えられる。したがって、『薬経太素』なる書は『日本後紀』を誤読した結果生まれた偽書(『続群書類従』に採録された『薬経太素』は後世〈寛文元年[1661年]-延宝元年[1673年]頃か〉になって作られたと考えられる)であり、現在、その存在を支持する説はない。
- ^ 八幡製鐵所は1901年操業開始だが、当初状態が不安定だったため、翌年1902年に稼動を停止。本格的に稼動したのは2年後の1904年から。釜石鉱山田中製鐵所は1887年に操業開始、1903年より銑鋼一貫製鉄所として稼動している。
- ^ 朝鮮語で「婆さん」を意味する俗語[18]。
- ^ 現在も境内にある「菱形池」。当時は山々に囲まれて菱の実の形をしていた潟であったと考えられる。
- ^ 当時の郡名については出典が無く、「神奈川県大磯」という現代地名が示されているのみであるが、これを当時の郡に比定すれば「餘綾郡」内の地域で間違いなく、その餘綾郡の郡衙の所在地は馬場台遺跡を比定地と考える[26]のが有力説である。
- ^ 岡崎は途中棄権と棄権で終わっている。阪上は最高成績が第4位である。
- ^ 玉釧(たまくしろ)とは、玉(ぎょく)で飾った腕輪。
- ^ 神庭。神の儀式を行う場所。
- ^ 天皇や皇后に近侍し、食事など身の回りの庶事を専門に行う女官。
- ^ 夜中に垣を乗り越えて脱走した罪で銃手7人の死刑が1869年(明治2年)8月13日に可決された。
- ^ 罪状は倉庫に侵入し383円95銭相当(1円を2万円で換算した場合、約770万円[46])の官物を窃盗したことである[47]。1877年(明治10年)11月1日に死刑執行が確定し、同月28日に死刑が執行された。他に、上官や同僚から19円62銭の金銭と他人の官給品、逃亡した際に6人に詐欺を行い207円10銭を得たこと、1876年(明治9年)7月3日の脱獄の犯罪を犯している。[48]
- ^ 脱賊であったが、長鯨丸に降伏し、艦内に服役する形で働いていた。罪状は、艦内のクロノメーターを盗み、逃走したこと。1869年(明治2年)9月8日に死刑が可決された。
- ^ 科刑理由:住吉仲皇子側についた阿曇連浜子に従ったため。
住吉仲皇子は、皇太子で兄の去来穂別(いざほわけ:のちの履中天皇)であると偽り、黒媛(羽田矢代宿禰の娘)との情事を重ねた。この行為発覚を恐れ、天皇の宮を包囲し放火。脱出した去来穂別は、軍を再編し竜田山を越えたところで、数十人の武器を持って追いかけててくる者たちがいた。皇太子はそれを見て怪しみ、近くにやってきた時に人を遣って尋ねた。 彼らは、「淡路の野島(のしま)の海人である。阿曇連浜子の命令で、仲皇子のために、太子を追っています」と答えた。そこで、伏兵を出して、取り囲んで捕えられた。後に、本来反逆であり死刑になる所、徒刑に減刑され、倭(やまと)の蒋代屯倉(こもしろのみやけ)での労働を伴う刑を受けた。 - ^ 科刑理由:住吉仲皇子側について反乱に加担したため。
古代日本の豪族。住吉仲皇子側についたが、皇太子の弟の瑞歯別皇子(のちの反正天皇)が仲皇子暗殺を報告し、村合屯倉を与えられたその日に捕らえられた。履中天皇は、即位後の4月に阿曇浜子を呼び出して、死刑から減刑し、入墨刑にすることを宣告。宣告した日の内に、目の縁に入れ墨をした。 - ^ 既婚女性や男性を含む「美人」コンテスト(「ミス・コンテスト」より広義)。
- ^ 「大会形式」であり、個人的な遊びが大規模になっただけのものは含まない。「近代的」であり、昔から行われてきた雪遊びの延長線上のものは含まない。以下同様。
- ^ 興りが「住民主催」であったものだけでなく「法人主催」であったものも含む。
- ^ 「住民主催」であり、学校等の法人主催は含まない。
- ^ この場合の「五大陸」とは、ヨーロッパ大陸、ユーラシア大陸、アフリカ大陸、北アメリカ大陸、南アメリカ大陸を指す。なお、ヨーロッパ大陸はモンブランを登頂した。
- ^ ここでいう「日本公認」は「当時の日本陸軍の公認」を踏襲したもので、今日においても12月19日が「日本初飛行の日」とされている論拠である。
- ^ 白瀬京子は、マゼラン海峡を含む一部区間、乗船していない。このため、白瀬個人は、ヨット世界一周は達成していない。
日本初
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『ABCの歌』を日本に初めて紹介した。 日本で初めてネクタイをしたともいわれる。 初めて鉄道・蒸気船に乗った日本人でもある。 日本人で初めてアメリカの学校に正式に通った。 日本人で初めて近代式捕鯨に携わった。 日本人で初めてアメリカのゴールドラッシュといわれる金の採掘に携わった。 『亜美理加 合衆国航海学書(英語版)(Bowditch's American Practical Navigator)』を和訳している。 日本人で初めて地球を2周した人物だと思われる(ホノルルを起点に2周していると言える)。日本人としては津太夫の次に地球を1周したと思われる(万延元年遣米使節よりも早い)。 ホーツン事件で、初めて外国人を逮捕した日本人になったと思われる。
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日本初
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ドルフィンガー - 1906年6月3日、神戸・六甲山ゴルフコース。
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日本初
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路面電車として日本初の冷房装置付き車両を運用開始(1200型1202号・1208号に改造で設置、1978年8月2日)。1060型 - 1350型については冷風が乗客に直接当たらないよう冷房吹き出し口の改良が行われている。 営業用車両として日本初のVVVFインバータ制御車両(8200型、1982年) 日本初の超低床路面電車(9700型、1997年) 軌道を樹脂で固定し、騒音と振動を軽減するインファンド工法を日本で初めて採用(上熊本電停付近、2002年)。 本格的なサイドリザベーション化(熊本駅前 - 田崎橋、2010年)
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日本初
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1923年、すなわち現エスビー食品の製品販売をもって「国産のカレー粉第一号」と認識されている例は少なくない。 ハチ食品、エスビー食品ともに自社のWebサイトでは「国産のカレー粉第一号」をそれぞれで主張している。上記のように現ハチ食品が製造販売したほうが早いのであるが、エスビー食品側は「原料を一から調合し開発したという意味で国産初」と主張している。そのため、1923年を「純国産カレー粉」が発売された年と記述することもある
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日本初
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横浜には「日本初」というものが多く見られる。横浜港に直結していた馬車道は、明治時代、日本の外国文化への玄関口であり、特に多く存在する。有名なものを下に挙げる。 アイスクリーム(旧暦 1869年(明治2年)5月9日)「町田房蔵」が馬車道通りに開いた「氷水屋」で製造・販売したものが初とされている。「アイスクリン」という名称で、一人前の値段は2分(現在の価値で約8000円)と高価であり、当初は外国人にしか売れず庶民の手には届きにくかったという。 これを記念して、日本アイスクリーム協会が毎年5月9日を「アイスクリームの日」とし、地元商店街は来訪者に「馬車道あいす」 を無料配布している。 事業としてのガス灯(1872年10月31日(旧暦 明治5年9月29日))明治3年、高島嘉右衛門が中区花咲町にガス会社を設立し、明治5年に神奈川県庁付近と大江橋から、馬車道、本町通りまでのおよそ600メートルの街路に、ガス街灯十数基を点灯した。これを記念して、1986年(昭和61年)9月、馬車道商店街協同組合が中区住吉町4丁目に「日本で最初のガス灯」の碑を建てた。1972年(昭和47年)には、日本ガス協会が、10月31日をガス記念の日としている。 1984年(昭和59年)には、東京ガス株式会社が中区花咲町3丁目に「日本ガス事業発祥の地」の碑を建てている。 なお、事業としてではないものには前例があり、鹿児島県鹿児島市の庭園・仙巌園には、安政4年(1857年)に日本で初めてガスの炎を灯した石灯籠である「日本初のガス灯」がある。 また、1871年に大阪市の造幣局周辺一帯で、日本最初の街路灯となるガス灯が設置されている。 近代街路樹(1867年(慶応3年))近代街路樹の初めは、1867年(慶応3年)に馬車道の各商店街が、通りに沿って柳や松を植えたことであるという主張に沿って、1979年(昭和54年)に横浜市が開港120周年記念事業の一つとして、中区港町5丁目に「近代街路樹発祥之地」の碑を建てた。 なお、通りに沿って樹木を植える「街路樹」は日本国内で以前から行われていたことであり、何をもって近代とするのかは定義されていない。 日刊新聞(1871年1月28日(旧暦:明治3年12月8日))中区本町通で、日本初の日本語の日刊新聞「横浜毎日新聞」が創刊された。 かつて、中区北仲通の横浜生糸検査所(現:横浜第二合同庁舎)構内に、神奈川新聞社によって建てられた「日刊新聞発祥の地」の碑があった。同碑は、現在、横浜第二合同庁舎内に保管されている。中区日本大通にある横浜情報文化センタービル内には、日本新聞協会が設立した日本新聞博物館がある。 なお、日本初の英字新聞は長崎市で創刊された。また、大阪市の大坂夏の陣で発行された瓦版を日本初の新聞とする説がある。[要出典] 乗合馬車(1869年(明治2年))日本初の乗合馬車が吉田橋 - 東京間を走った。二頭立ての6人乗りで、東京まで約4時間かかったという。
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「日本初」の例文・使い方・用例・文例
- 彼女は日本初の宇宙飛行士となるだろう。
- 岡山で日本初の電子投票
- 岡山県新(にい)見(み)市で日本初の電子投票システムが導入された。
- 香川県大内(おおち)町にこの春,日本初の人形劇学校が設立される。
- これらの衛星は,日本初の情報収集衛星である。
- 日比谷公園は,日本初の西洋式の公園である。
- オールグレンと勝元は,オールグレンが日本初の近代的な軍隊を養成するために雇われたときに出会う。
- 株式会社によって運営される日本初の学校が,岡山県御(み)津(つ)町に開校した。
- 1993年,同市は日本初のごみの分別システムを開始しました。
- 日本初の男子プロバスケットボールリーグとなる「bjリーグ」が2005年11月に初のシーズンを開幕することとなった。
- 3年前,彼は那(な)覇(は)市の壺(つぼ)屋(や)小学校を説得し,ゴルフクラブを設置した日本初の公立小学校にした。
- この種の博物館としては日本初だ。
- 例えば,日本初の国産旅客機,YS-11の試作機がある。
- 江戸時代の終わりに近い1861年,日本初のパン屋さんが横浜に開店した。
- はやぶさはイオンエンジンを使用する日本初の探査機である。
- 同協会は,2007年のカニのシーズンに間に合うころに日本初のカニのソムリエが資格を得ることを期待している。
- それは日本初のエビを使ったハンバーガーだった。
- この種の燃料はすでにバスには使用されているが,鉄道への使用は日本初の試みだ。
- 日本初のロボットの博物館「ロボットミュージアムin名古屋」が10月12日に開館する。
- 選出されれば,彼は日本初の戦後生まれの首相であり,戦後最年少の日本人首相となる。
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