たいか‐の‐かいしん〔タイクワ‐〕【大化の改新】
大化の改新 (たいかのかいしん)
大化の改新
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/18 14:17 UTC 版)
大化の改新(たいかのかいしん)は、皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮の乙巳の変に始まる一連の国政改革[1][2][3][4]。狭義には大化年間(645年 - 650年)の改革のみを指すが、広義には大宝元年(701年)の大宝律令完成までに行われた一連の改革を含む[1][2][3]。改革そのものは、年若い両皇子(中大兄、大海人)の協力によって推進された。
- ^ a b c d e f g h [大化改新]『国史大辞典』吉川弘文館、1997年。
- ^ a b [大化改新]『日本史大事典』平凡社、1993年。
- ^ a b c [大化改新]『日本歴史大事典』小学館、2000年。
- ^ a b [大化改新]『日本大百科全書』小学館、1987年。
- ^ 編集委員会 「特集にあたって」 『日本史研究』662 日本史研究会、2017年10月、1頁。
- ^ 『新・国史大年表』国書刊行会、2007年、p127 - p129。
- ^ 山内昌之『歴史とは何か : 世界を俯瞰する力』PHP研究所〈PHP文庫〉、2014年。ISBN 9784569762432。全国書誌番号:22483532 。
- ^ 北康宏「国家形成史の過去と現在 : 貴族制論が残したもの」『歴史評論』第809号、歴史科学協議会、2017年9月、8-9頁、CRID 1520290884534544256、ISSN 03868907、国立国会図書館書誌ID:028451241。
- ^ 木下正史『藤原京』(中央公論社、2003年1月)64頁。
- ^ 藤森健太郎「日本古代国家成立史と歴史教育 ―大化改新における公民制成立の問題を中心に―」『群馬大学教育学部紀要. 人文・社会科学編』第60巻、群馬大学教育学部、2011年2月、131頁、CRID 1050845762595255040、hdl:10087/6036、ISSN 0386-4294、NAID 40018790931。
- ^ 大津透「<書評>鎌田元一著『律令公民制の研究』」『史林』第85巻第4号、史学研究会 (京都大学文学部内)、2002年7月、573-574頁、CRID 1390572174799913728、doi:10.14989/shirin_85_573、hdl:2433/239705、ISSN 0386-9369。
鎌田元一『律令公民制の研究』 京都大学〈博士(文学) 乙第10881号〉、2002年。hdl:2433/149633。 NAID 500000220161。国立国会図書館書誌ID:000003538183 。 - ^ 大津 2002, p. 575.
- ^ 中尾芳治「難波宮から藤原宮へ : 日本古代宮都の成立過程をめぐって」『市大日本史』第13巻、大阪市立大学日本史学会、2010年5月、3-4頁、CRID 1050001202446797952、ISSN 1348-4508。
- ^ 藤森 2011, p. 132.
- ^ 市大樹「004 石神遺跡の木簡」『奈文研ニュース』第7巻、独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所、2002年12月、3頁、CRID 1390853650399187840、doi:10.24484/sitereports.16766-12698、hdl:11177/1126。
- ^ 河内春人「年号制の成立と古代天皇制」(『駿台史學』156巻、2016年2月)8頁。
- ^ 市大樹「黎明期の日本古代木簡」『国立歴史民俗博物館研究報告』第194巻、国立歴史民俗博物館、2015年3月、89頁、CRID 1390009224089814784、doi:10.15024/00002211、ISSN 0286-7400、NAID 120005749110。
- ^ 『偽りの大化改新』.
大化の改新
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 06:57 UTC 版)
第三十五代天皇として即位したのは皇后の宝皇女だった(皇極天皇)。この頃に蘇我入鹿が聖徳太子の子の山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼすなどの事件が起き、蘇我氏の専横が目立つようになった。これに不満を持った中大兄皇子(葛城皇子、後の天智天皇)・中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し蘇我蝦夷を自殺に追いやった。645年の乙巳の変である。こうして蘇我氏に権力が集中する半世紀続いた体制は崩れたが同時に天皇もまた退位を余儀なくされた。 第三十六代天皇として新たに即位した先帝の弟の軽皇子(孝徳天皇)は646年に改新の詔を出して難波宮で次々と改革を進めていった(大化の改新)。大臣が左大臣・右大臣・内大臣の3人に増員されたのもこの時期である。しかし中大兄皇子と不和になった天皇は孤立し、臣下がいなくなった難波宮で654年に寂しく亡くなった。 第三十七代天皇となったのは重祚した宝皇女だった(斉明天皇)。多くの土木工事を行った天皇だったが大鷦鷯天皇の頃とは違って民衆の負担にしかならず悪評を残すことになった。中大兄皇子の主導で百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵する途中で天皇は崩御、残された中大兄皇子は白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。このことで各地に城が築かれ都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。
※この「大化の改新」の解説は、「大和時代」の解説の一部です。
「大化の改新」を含む「大和時代」の記事については、「大和時代」の概要を参照ください。
大化の改新
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 20:41 UTC 版)
「日本の歴史 (テレビ番組)」の記事における「大化の改新」の解説
映画として紹介。「歴史チューブ」内に映画館鑑賞のセットが組まれている。 中大兄皇子 - 小橋賢児 中臣鎌足 - 河相我聞 蘇我入鹿 - 永澤俊矢 蘇我倉山田石川麻呂 ‐ 鶴田忍 脚本:広田光毅 演出:小林義則(ドラマ制作センター部長)
※この「大化の改新」の解説は、「日本の歴史 (テレビ番組)」の解説の一部です。
「大化の改新」を含む「日本の歴史 (テレビ番組)」の記事については、「日本の歴史 (テレビ番組)」の概要を参照ください。
大化の改新
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 15:59 UTC 版)
645年、難波宮で行われた大化の改新時、日本という国号と共に最初の元号である大化が正式に定められた。
※この「大化の改新」の解説は、「律令制」の解説の一部です。
「大化の改新」を含む「律令制」の記事については、「律令制」の概要を参照ください。
大化の改新
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 15:09 UTC 版)
上山春平は著作「天皇制の深層」で、大化の改新は氏姓制から律令制への変革が行われた「神祇革命」、と記した。朝河貫一は大化改新は日本封建制の起源で、大化改新と明治維新を「日本史における二つの革命」と呼び、優れた異文化を受け入れた、と記した。
※この「大化の改新」の解説は、「日本の革命」の解説の一部です。
「大化の改新」を含む「日本の革命」の記事については、「日本の革命」の概要を参照ください。
「大化の改新」の例文・使い方・用例・文例
大化の改新と同じ種類の言葉
- 大化の改新のページへのリンク