さき‐もり【防=人】
読み方:さきもり
《「崎(さき)守(もり)」の意》古代、筑紫・壱岐・対馬(つしま)など北九州の防備に当たった兵士。663年の白村江(はくそんこう)の戦い以後制度化され、初め諸国の兵士の中から3年交代で選ばれ、のちには東国出身者に限られるようになった。その後数度の改廃を経て、延喜(901〜923)のころには有名無実となった。
ぼう‐じん〔バウ‐〕【防人】
防人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/10 01:25 UTC 版)
防人(さきもり)は、古代中国や、日本の飛鳥時代から平安時代、律令制度下で行われた軍事制度である。
中国の防人
738年完成の大唐六典では「辺要置防人為鎮守」(辺地の防衛のために防人を置く)とされている。防人の数は担当地域の規模によって定められており、上鎮では500(正しくは560とされている)人、中鎮では300(こちらも正しくは250)人、下鎮では300(200)人以下、上戍は50人、中戍は30人、下戍は30人以下とされた。唐代初期には全国で上鎮が20箇所、中鎮が90箇所、下鎮が135箇所、上戍が30箇所、中戍が86箇所、下戍が235箇所との記録があり、合計すると7-8万人の兵力となる。このことから上鎮がどれほど重要な場所であったかが伺える。新味兵士は農村から徴兵された他、犯罪者や無住者など所払いの人達も送られた。任期は3年だが、延長される事もしばしばあった。食料・武器は自弁であった。なお、開元、天宝年間(713年-756年)になると、募集された職業軍人で構成されるようになった。
日本古代の防人
制度
646年(大化2年)の大化の改新において、即位した孝徳天皇が施政方針となる改新の詔で示した制度のひとつである。663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された。「さきもり」の読みは、古来に岬や島などを守備した「岬守」や「島守」の存在があり、これに唐の制度であった「防人」の漢字をあてたのではないかとされている。
大宝律令の軍防令(701年)、それを概ね引き継いだとされる養老律令(757年)において、京の警護にあたる兵を衛士とし、辺境防備を防人とするなど、律令により規定され運用された。中国同様、任期は3年で諸国の軍団から派遣され、任期は延長される事がよくあり、食料・武器は自弁であった。大宰府がその指揮に当たり、壱岐・対馬および筑紫の諸国に配備された[1]。加えて、出土文字資料においては2004年に佐賀県唐津市の中原遺跡において「防人」の墨跡を持つ木簡が出土しており、肥前国にも配置されていた可能性がある[2]。 当初は遠江以東の東国から徴兵され、その間も税は免除される事はないため、農民にとっては重い負担であり、兵士の士気は低かったと考えられている。徴集された防人は、九州まで係の者が同行して連れて行かれたが、任務が終わって帰郷する際は付き添いも無く、途中で野垂れ死にする者も少なくなかった。2005年には中原遺跡から甲斐国(山梨県)出身の防人の存在を示す木簡が出土しており、2007年には「相模型坏」と同型の食器用土器が出土し、相模出身の防人がこの地域に派遣されていたことをうかがわせる[3]。
757年以降は九州からの徴用となった。奈良時代末期の792年に桓武天皇が健児の制を成立させて、軍団・兵士が廃止されても、国土防衛のため兵士の質よりも数を重視した朝廷は防人廃止を先送りした。実際に、8世紀の末から10世紀の初めにかけて、しばしば新羅の海賊が九州を襲った(新羅の入寇)。弘仁の入寇の後には、人員が増強されただけではなく一旦廃止されていた弩を復活して、貞観、寛平の入寇に対応した。
院政期になり北面武士・追捕使・押領使・各地の地方武士団が成立すると、質を重視する院は次第に防人の規模を縮小し、10世紀には実質的に消滅した。1019年に九州を襲った刀伊を撃退したのは、大宰権帥藤原隆家が率いた九州の武士であった。
規模
防人が東国から徴兵された時期、その規模は2000人程度を数えた。738年(天平十年)の「駿河国正税帳[4]」によると、この年駿河を経て東国に帰る防人の人数は1083人で、その内訳は伊豆国22人、甲斐国39人[5]、相模国230人、安房国23人、上総国223人、下総国270人、常陸国265人であった。他に防人を出していた遠江国、駿河国、武蔵国、上野国、下野国からも同規模の防人が出されていたと推測すると、さらに1000人程度が加算され、合計すると2083人となる[6]。この防人の規模は同年の「周防国正税帳」によっても裏付けられる、防人は3班に分かれて帰郷しており、中班953人、後班124人が記録に残っている。前班の人数は残っていないが、費やした食糧より1000人程度が算出され、合計すると2077人となる。
防人歌
奈良時代に成立した『万葉集』には防人のために徴用された兵や、その家族が詠んだ歌が100首以上収録されており、防人歌と総称される。関東地方など東国の言葉が使われている事も多く、東歌ともに古代の生活様相を伝えている。
現代の防人
古代の防人が九州沿岸の国防に従事していたことから、転じて、常に危険と隣り合わせで地域社会の安全を守る職務に従事する自衛官・警察官・消防官(消防団員)・海上保安官など[7][8]を、比喩的に防人(さきもり)と呼ぶことがある。(現代の防人、地域の防人など)
脚注
- ^ 直木孝次郎 他訳注『続日本紀1』平凡社(東洋文庫457)1986年、323頁の注
- ^ 唐津市・中原遺跡 防人存在記す木簡(佐賀新聞) ― 「戍人」の文字
- ^ 防人が作った食器用土器か 唐津の中原遺跡で出土
- ^ 「正倉院文書」正集第十七巻所載
- ^ 「駿河国正税帳」天平11年(739年)条によれば、同年中に甲斐国の防人39人のほか朝廷へ献上する貢馬を輸送した小長谷部麻佐、山梨郡散事小長谷部練麻呂の三者がそれぞれ東海道の支路である古代官道の甲斐路を通過したことを記している。
- ^ 喜田貞吉は論文『東人考』において武蔵、上野よりそれぞれ250人、他の4国よりそれぞれ150人合わせて1100人と算出している。(『東人考』、喜田貞吉著作集9巻「蝦夷の研究」、520頁、平凡社、1980年、〔初出『歴史地理第二三巻第六号第二四巻第二、四号』1914年6.8.10月〕
- ^ 自衛隊の広報誌MAMORのグラビア記事「防人たちの女神」、西部航空方面隊ウェブサイトのコーナー名称「防人の休息」、「平成の防人たちへ―元幹部自衛官の心からの諫言(展転社 2005年・著/真田左近)」など
- ^ 白鵬関「防人の像」除幕 篠栗町、警察官らたたえる - 西日本新聞2012年11月5日(47NEWS)
参考文献
- 森弘子『太宰府発見』海鳥社、2003年、ISBN 4-87415-422-0
- 筑紫豊『さいふまいり』西日本新聞社、1976年
- 前田淑『大宰府万葉の世界』弦書房、2007年、ISBN 978-4-90211678-6
- 浦辺登『太宰府天満宮の定遠館』弦書房、2009年、ISBN 978-4-86329-026-6
- 瀬野精一郎『長崎県の歴史』山川出版社、1998年、ISBN 978-4634324206
関連項目
- 古代山城
- 見島ジーコンボ古墳群 - 防人の墓所と推定される遺跡
- 国境対馬振興特別措置法案 - 通称・防人の島新法
- 日本の軍事史
- 元寇
- 健児
- 防人の詩 - 映画『二百三高地』の主題歌。作詞・作曲・歌唱さだまさし。
- 異国警固番役
- pop'n music - 『pop'n music 18 せんごく列伝』に「防人恋歌」、『pop'n music うさぎと猫と少年の夢』に「防人想歌」という楽曲がそれぞれ収録されている。
防人(さきもり)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/23 03:54 UTC 版)
「護神像」に選ばれ、護神像と合体することで得た強大な力で機械から人々を守る役目を担った黒い血の人間を、作中では「防人」と呼んでいる。防人は7人存在し、作中では尊敬の対象である。防人は死ぬか瀕死の重傷を負った後、自分が今まで習得してきた技術を「護神像」に保存して次の防人に継承する「引き継ぎ」のために、自らの護神像に食われる。
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防人
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シオ 主要人物を参照。 カーフ 護神像はクシャスラ。着物を着た青年で肩に刺青がある。クシャスラと合体していない状態でも巨大な機械を蹴り技で破壊するなど、高い身体能力を持っている。松田を狙ってシオ達に襲いかかる。後にヨキの襲撃を受け、敗北してクシャスラを奪われる。 レオ / レオナルド・エディアール 護神像はアシャ。目に大きなクマがあり、刀を所持している。かつて伍の村で暮らしていたが、両親を目の前で機械に殺され、その憎しみから偏頭痛に苛まれることになる。アシャに選ばれて防人となり、機械を壊すことで一時的に偏頭痛が治まるが、すぐに再発する。顔つきも変貌し、機械が全て消えないと偏頭痛が治らないと考え、無差別に機械を破壊し続けている。シオに敗北してアシャを失った後、松田の血を受けたことで偏頭痛とクマが完治した。以降はアシャを取り戻すため、シオと行動を共にする。 ドレクセル 護神像はアムルタート。六の村を支配している防人。巨漢で頭部に王冠を載せている。傍若無人な性格で、自分のためだけに護神像の力を利用しており、住民からも忌み嫌われている。 アラン・イームズ 護神像はウォフ・マナフ。眼鏡をかけた青年。知的好奇心が高く、世界のすべてを知るために旅をしている。カーフの襲撃を受け、ウォフ・マナフを奪われる。 ノール 護神像はハルワタート。女性のような顔立ちをしている青年で、アランやフランは女性だと勘違いした。レオとは面識がある。ネガティブで思い込みの激しいところがあり、弟であるミールの機械病を治すために防人になった。シオに襲い掛かるが、返り討ちに遭う。 ヨキ 七の村の医者で、アルの親友。その正体は参賢者の一人「黒き血の賢者」であり、スプンタ・マンユに選ばれた最初の防人でもある。作中の2000年前、赤き血の人間によって作られた黒い血の人間の中で、最初に自我が芽生えた。赤き血の人間や彼らが作り出した機械と戦い、先史文明の崩壊から生き延びた後にコトとキクに出会い、彼らの持ちかけた防人と護神像と蜘蛛の糸を使った世界再建計画に疑いを持ちつつもあえて乗り、三賢者を名乗るようになる。
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防人
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楠 芽吹(くすのき めぶき) 声 - 田中美海 年齢(学年):14歳(中学2年生) / 誕生日:神世紀286年5月9日 / 身長:159㎝ / 血液型:B型 / 出身地:香川県玉藻市 / 趣味:日曜大工、プラモデル / 好きな食べ物:うどん / 大切なもの:自分の誇り 本作の主人公。防人番号1番で、32人の「防人」のリーダー。気が強く真面目な少女。努力家で負けず嫌いな性格であり、どんなことでも平均以上にそつなくこなせる。一方で、他人との馴れ合いを「甘い」と切り捨てるなど、極端なまでに己を殺し、他人を遠ざけるストイックな一面を持つ。 勇者候補生の中でもトップクラスの成績を誇っていたが、最終的に三好夏凜に敗れて勇者の座を奪われた過去を持ち、今回の新たなお役目を通じて大赦の人々を見返したいと考えている。シズクには「『勇者になる』ことに固執しすぎている」と指摘されており、「他人の芝生を見てヨダレ垂らしてるガキ」「格好悪い奴」と酷評されている。 加賀城 雀(かがじょう すずめ) 声 - 種﨑敦美 年齢(学年):14歳(中学2年生) / 誕生日:神世紀286年7月22日 / 身長:152㎝ / 血液型:A型 / 出身地:愛媛県 / 趣味:おしゃべり / 好きな食べ物:みかん / 大切なもの:自分の命 防人番号32番。芽吹の同級生で、芽吹のことは「メブ」と呼んでいる。自分に自信の持てないネガティブな性格で、何事も悲観的に考えてしまう。なぜ自分が勇者候補生に選ばれたのかも理解できていない。唯一好きなのがおしゃべりで、特に人の噂話が大好き。 防人の中で唯一、個人的な興味から讃州中学勇者部に接触した事があり、その際「どうすれば勇気を持てるか」という相談を「勇者部への依頼」として持ち込んだ。 戦闘では基本的に前方へは出たがらず、主に防衛を任される。 山伏 しずく(やまぶし しずく) 声 - 石上静香 年齢(学年):13歳(中学2年生) / 誕生日:神世紀287年2月4日 / 身長:156㎝ / 血液型:A型 / 出身地:徳島県 / 趣味:なし / 好きな食べ物:ラーメン / 大切なもの:自分 防人番号9番。芽吹の同級生。両親が心中するなど、複雑な家庭環境で育った少女。あまり感情を表に出さず、他人とのコミュニケーションもうなづく程度で済ませてしまうため、何を考えているのかが読みづらい。 実は二重人格者であり、前述の性格は表の人格のもの。生命の危機に陥るともうひとつの人格「シズク」が目覚める。こちらは一人称が「俺」であり、非常に好戦的であったり、「自分より弱い奴には従えない」と吐き捨てたりと、表の人格とは正反対である。 かつては神樹館小学校に通っており、鷲尾須美・乃木園子・三ノ輪銀の隣のクラスに所属していた。シズクは当時の須美たちに対して「カッコよかった」「尊かった」と憧れにも近い感情を抱いており、「勇者になる」ことに固執する芽吹のことは快く思っていない。 弥勒 夕海子(みろく ゆみこ) 声 - 大空直美 年齢(学年):15歳(中学3年生) / 誕生日:神世紀285年4月27日 / 身長:163㎝ / 血液型:O型 / 出身地:高知県 / 趣味:ティータイム / 好きな食べ物:かつお / 大切なもの:家の繁栄 防人番号20番。芽吹たちの先輩。プライドが高く目立ちたがり屋で、功績を上げようとする気概は人一倍強い。しかし、運動神経はそこそこあるものの頭が弱く、全体的な能力は凡庸であるため気持ちが空回りしがち。 彼女の実家である弥勒家は、神世紀72年に四国全土で発生した大規模テロ事件の際、赤嶺家と共にその鎮圧に大きく貢献しており(この事件は大赦の情報操作によって隠蔽され、カルトの集団自殺事件とされている)、それが『英雄の血筋』として夕海子の自尊心に繋がっている。なお、赤嶺家はこの事件における功績を評価され、瀬戸大橋跡地の石碑に家名が刻まれているが、弥勒家はその後何らかの事情で没落したらしく、家名が刻まれていない。
※この「防人」の解説は、「楠芽吹は勇者である」の解説の一部です。
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防人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:52 UTC 版)
防人の配置は、九州倭国制圧のために東国の蝦夷を利用したヤマト王権による「夷を持って夷を制する」政策であったと考えられるということにする。
※この「防人」の解説は、「九州王朝説」の解説の一部です。
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