ちゅう‐ごく【中国】
読み方:ちゅうごく
3 律令制で、人口・面積などによって諸国を大・上・中・下の四等級に分けたうちの第三位の国。安房(あわ)・若狭・能登など。
4 律令制で、都からの距離によって国を遠国(おんごく)・中国・近国に分類したうちの一。駿河(するが)・越前・出雲(いずも)・備後(びんご)など。
ちゅうごく【中国】
ちゅうごく 【中国】
中國
姓 | 読み方 |
---|---|
中國 | なかくに |
中國 | なかぐに |
中国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/21 14:39 UTC 版)
中国(ちゅうごく、簡: 中国; 繁: 中國)は、ユーラシア大陸(アジア大陸)の東部を占める地域、及びそこで成立した国家をさす用語。日本では、1972年の日中国交正常化以降、中華人民共和国の略称としても使用されている[1][2][3]。
注釈
出典
- ^ 外務省:中華人民共和国
- ^ 中国 - Yahoo!ニュース Archived 2014年6月15日, at the Wayback Machine.[リンク切れ]
- ^ 地球の歩き方 > 中国の概要
- ^ a b 間宮林蔵述村上貞助編『東韃紀行』国立公文書館デシタルアーカイブ 東韃地方紀行 中巻(文化八年(1811年)筆原本画像)の最終頁に「中国」の呼称が複数登場し、「日本と中国」ともある。日本と中国が対置する概念として記載されている。 なお、同書に掲載されている清朝役人の名刺は「大清国」である。
- ^ a b 佐川, 英治、杉山, 清彦 『中国と東部ユーラシアの歴史』NHK出版、2020年2月1日、14-15頁。ISBN 4595321899。
- ^ 漢書西域伝卷4「及秦始皇攘卻戎狄,築長城界中國」
- ^ 漢書溝恤志卷29
- ^ 『塩鉄論』「五二功業について」p250で南越王国の征服のくだりで、「南越は中国に従った」と記載がある
- ^ 邦訳『塩鉄論』「十四物価の安定について(輕重第十四)」p76-77(辺境の郡(邊郡)が中國に対置されている。 辺郡とは辺境の郡のことであり、郡とは行政機構の郡であるから、辺郡とは武帝が新規に征服した「中国」の外部の地域であると考えられる。「十六領土の拡張について(地廣第十六)」p85でも辺境の郡は中国に対置されている。 他に「四四秦の評価について(誅秦第四十四)」p216などがある。
- ^ 邦訳『塩鉄論』「二農業に力を入れることについて(力耕第二)」p12-13、「六復古について(復古第六)p33」、「十六領土の拡張について」p88、など
- ^ 「三七 礼をとうとぶことについて(崇禮第三十七)」p189
- ^ 東洋文庫『塩鉄論』39章p199の訳では「中夏」
- ^ 「四三和議をむすぶことについて(結和第四十三)」p211
- ^ 「五二功業について(論功第五十二)」p218「今、漢の領土は広く(今以漢國之大)」
- ^ 新唐書 卷215上 突厥上, 6023頁
- ^ 新唐書巻220列伝第145高麗伝に「遼東故中國郡縣」(遼東は今は高句麗の領土であるが嘗ては中国の郡県であった)という文章があり、明史巻320列伝第209「外国二/安南」の記載にも「安南本中國地」(安南(ベトナム社会主義共和国の中北部)は、もとは中国の地であった)とある。
- ^ 後藤多聞『ふたつの故宮』NHK出版
- ^ 《欽定大清会典》卷五十六「夫對遠人頌述朝廷,称中國,或称天朝,乃一定之理」
- ^ 閻 立「『大清国籍条例』の制定・施行と日本」大阪経大論集 第63巻第4号、2012年11月、283-297頁
- ^ a b 佐川, 英治、杉山, 清彦 『中国と東部ユーラシアの歴史』NHK出版、2020年2月1日、215-218頁。ISBN 4595321899。
- ^ 川島真「最初の歴史教科書問題」(日本経済新聞、2009年10月26日)
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- ^ 佐川, 英治、杉山, 清彦 『中国と東部ユーラシアの歴史』NHK出版、2020年2月1日、228-230頁。ISBN 4595321899。
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- ^ 烏澤聲「満漢問題」1907年
- ^ a b 佐川, 英治、杉山, 清彦 『中国と東部ユーラシアの歴史』NHK出版、2020年2月1日、217-218頁。ISBN 4595321899。
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- ^ http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/91617/1/ifa020017.pdf
- ^ レジナルド・ジョンストン 『新訳紫禁城の黄昏』本の風景社 。
- ^ 佐川, 英治、杉山, 清彦 『中国と東部ユーラシアの歴史』NHK出版、2020年2月1日、19-20,254-257頁。ISBN 4595321899。
- ^ “中国で勢い増す「黄帝」崇拝 愛国心鼓舞、少数民族抑圧と紙一重”. 北海道新聞. (2014年5月18日) 2014年5月18日閲覧。
- ^ この訳語は、「中国」という言葉と一致しない、という見解があるが、新唐書列傳第146上/西域上/天竺國には、当時のインドの用語「シナ」を唐側では「中国」と理解していた用例が残っている。唐から当時北インドを支配していたヴァルダナ朝マガダ国に使者が送られ、唐使を迎えたマガダ王が家臣に「いにしえよりマハーチーナ(大シナという意味)の使者がわが国に来たことはあったのか?」と問い、家臣が「ありません」と回答した文章に続いて、「戎(えびす)の言葉では中国をマハーチーナ為す」との解説が付されている。原文は以下「「自古亦有摩訶震旦使者至吾國乎?」皆曰:「無有。」戎言中國為摩訶震旦」
中国(宋・元時代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 17:29 UTC 版)
「中国の近世は宋朝にはじまる」といわれるように、宋代以後、中国の歴史は新しい段階に入り、貴族に代わって士大夫が活躍した時代、政治的には武人政治が解体して皇帝独裁政治の時代であった。その武人と貴族の勢力を抑えるため、官吏の任用に科挙の制を用いて文治に力を注いだ結果、文学・芸術・宗教がすこぶる興隆発展することとなった。 書道 詳細は「中国の書道史#宋・遼・金」および「中国の書道史#元」を参照 書道においては、北宋のはじめ約半世紀ほどは中国の伝統的書法である晋唐の書の模倣が続き、王羲之の書風が流行した。やがて唐人が書法や型に束縛されて生気を失ったことの反省から、宋人は自由に自己を表現しようと考え、蘇軾・黄庭堅・米芾の三大家によって大きく書風が革新された。その新書風は南宋に及んでも流行し、大多数の書人はそれに属するものであった。しかし南宋中期から次第に晋唐へと復古する傾向が見られ、南宋の書道には、二王を宗とするものと、宋の三大家に学ぶものとの二つの潮流があった。やがて、それが元の趙孟頫の復古調の全盛時代という形で淘汰されていくが、晋唐の書へ復古するに至った理由は、宋人が自由と個性とを尊重して古法を軽んじ、粗放になったという反省からによるといわれている。以上が宋・元時代の書道の大勢である。 仏教 一方、宗教においては、宋・元の時期、禅仏教が盛況を呈した。宋朝は科挙によって官僚を登用する必要から儒教を重んじたが、同時に仏教や道教も保護し、この国家による保護政策によって仏教は隆盛に向かった。その中心は禅宗であり、宋代の禅宗は曹洞宗・法眼宗・雲門宗・潙仰宗・臨済宗の五家と、その臨済宗が楊岐派と黄龍派に分かれることから五家七宗と呼ばれる。宋の中期以後、楊岐派と黄龍派が次第に勢力を伸ばし、初めは黄龍派が盛んであったが、後には次第に楊岐派が優勢となった。そして南宋末の楊岐派の発展は目覚しく、殊に圜悟克勤の門下から出た大慧宗杲は多くの弟子を集めて一派をなした(大慧派)。その後、密庵咸傑の活躍により、同じく圜悟の門下の虎丘紹隆の系統(虎丘派)が盛んになり、その密庵門下では松源崇嶽・破庵祖先の2人が特に有名で、それぞれ一派をなした(松源派・破庵派)。南宋時代の禅文化に最も大きな影響を与えた無準師範は、その破庵派から出ている。 元朝は、南宋以来の漢民族の生活と文化をほぼそのまま容認したため、元代も仏教の中心は禅宗で、活躍した禅僧の多くは臨済宗であった。その中で特に重要な人として、破庵派の中峰明本、松源派の古林清茂や了庵清欲などをあげることができる。 宋代に禅宗は他宗を圧倒するほどの勢いを見せたが、その要因に居士仏教の流行と出版業の隆盛がある。居士の参禅は、禅宗が一つの完成した姿を現出した唐代に先例があったが、宋代以後、その比重は徐々に増していった。北宋の王安石・蘇軾・蘇轍・黄庭堅、南宋末の張即之、元の馮子振などの士大夫の参禅が知られる。科挙官僚の担い手となった士大夫に共通の教養は儒教であったが、当時の儒教は科挙に及第するための道具に過ぎず魅力がなかった。士大夫階級の哲学的欲求を満足させたのが禅宗であり、この新たな支持層を得たことにより、さらに名僧が輩出するという好循環を生んだ。また禅宗の権威の確立とともに、禅籍の刊行が行われるようになり、その出版による禅籍の流布は、禅宗が広く社会に浸透していった原動力の一つであったといえる。 士大夫が参禅した例として、蘇軾が黄龍派の東林常総から印可を受け、黄庭堅も同派の晦堂祖心の法を嗣いだ。張即之は禅に造詣が深く、大慧派の無文道璨らと交際した。馮子振も禅学に心を寄せ、元代禅林の巨頭・中峰明本や古林清茂らと親しく交わった。また趙孟頫も熱心な仏教信者で、中峰明本を師と仰いで親密な交流があり、松源派の独孤淳朋や馮子振とも親交が深かった。 墨跡の変化 このような詩・書・画を能くした文化人の参禅は、芸術重視という禅の世俗化をもたらした。士大夫の才能が僧侶においても尊敬されるべき対象となったのである。その影響は墨跡にも見られ、北宋末以後、蘇軾・黄庭堅・張即之の書風が禅僧の間に流行した。特に黄庭堅の書の影響は大きく、無学祖元など黄庭堅風のものが多くみられる。また竺仙梵僊は蘇軾の、蘭渓道隆は張即之の、了庵清欲は趙孟頫の影響を色濃く受けている。
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中国(中華共和国)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/08 03:43 UTC 版)
李 炎龍(りー いぇんろん) 人民解放軍特殊格闘部隊中尉。龍人兵と呼ばれる肉体改造を施された兵士である。
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中国(宋、元)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 08:42 UTC 版)
中国では13世紀の宋代から陶磁器の輸出が盛んになり、青磁、白磁、青白磁が輸出されていた。14世紀の元代には青花磁も加わり、アジアとアフリカ各地へ運ばれていた。日本向けの陶磁器が慶元で積み出しをしていたのに対して、東南アジア、南アジア、西アジア向けの陶磁器は広州や市舶司のある泉州で積み出しを行った。台湾や琉球諸島向けの陶磁器は福州に集積されたのちに泉州へ運ばれ輸出された。中国の海運は、元代に大きく改善された。それまで北洋と南洋の往来は盛んではなかったが、危険な北の航路が開拓されて南北の海運がつながり、14世紀前半から国内の輸送や海上貿易が増加した。慶元(寧波)は、南北のハブに位置する重要な港であった。 輸出先によって陶磁器の種類が異なり、各地の必要性や嗜好に合わせた品が選ばれていた。日本向けには、龍泉窯青磁、景徳鎮窯青白磁、福建陶磁が中心だった。東南アジアや西アジア向けには、龍泉窯青磁、福建陶磁、景徳鎮窯が中心だった。龍泉青磁は元代から器の大型化と装飾の増加が進んだ。遊牧民国家のモンゴル帝国を源流とする元は、大皿に盛った料理を取り分ける食文化であり、その習慣が影響したといわれている。新安沈船が航行していた14世紀前半は、大型化した龍泉青磁の輸出が盛んになった時期にあたる。 元は貿易を重視する王朝であり、服属をしない国(不臣之國)である日本との貿易も続けた。元は慶元路の警備を強化しつつ貿易を認め、官貿易の商品を国家が管理し、倭人(日本人)は入城させずに取り引きを行った。市舶司では「海外不臣之國」に対して30%の関税をかけていたことから、日本に対しても同様の関税がかけられたと推測される。 しかし、貿易の管理を厳しくしたためにトラブルが増加した。1309年には日本から来た海商が慶元の役人と対立し、運んできた硫黄を使って放火し、慶元城内の建築物が4分の1近く焼失する事件が起きる。事件以降の元政府は、日本だけでなく海商全体への警戒を強めた。日元は貿易をしていたものの、日本は元の招諭使に返答をしていないため正式な国交がなく、貿易におけるトラブルで日本側の協力は期待できなかった。そのため元政府には警戒強化の他に対策がなく、その後も1328年、1335年に同様の事件が起きた。
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(2) 中国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/18 21:28 UTC 版)
「セリカ」と表記されている。砂漠を越えて進むと最初に中国人と出会い、彼らの国から絹が送られてくるとある。ヘレフォード図では実体にそぐわない小地域でしかない。
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中国(中国経済産業局)
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「一般ガス事業者」の記事における「中国(中国経済産業局)」の解説
鳥取ガス 浜田ガス 出雲ガス 松江市ガス局 米子ガス 岡山ガス 津山ガス 水島ガス 広島ガス - 広島電鉄は同根。岩谷産業が筆頭株主 福山ガス 因の島ガス 山口合同ガス
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中国(本土)
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中国本土においては“小学”と呼ばれる。かつては初級小学(4年)、高級小学(2年)、完全小学(5年)の3種類に分かれていたが、現在は6‐12歳の6年制であり、義務教育である。
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中国 (シーズン3)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 15:23 UTC 版)
「ザ・ラストシップ」の記事における「中国 (シーズン3)」の解説
ポン・ウー (Peng Wu) 演 - フェルナンド・チェン シーズン3で登場する中国国家主席。アジアにおける優位性を持とうと様々な横暴な行為を働く。レクチンを体内に入れた人間がウイルスに感染するとワクチンが効かなくなるという効能を発見し、日本等周辺国にレクチンを封入したミサイルによる攻撃を行い、周辺国の国民を虐殺。それらの妨害を行おうとするチャンドラー達に対して敵意を持ち、国家安全部特殊部隊や稼働可能な4隻の昆明級駆逐艦で構成された艦隊などを「ネイサン・ジェームズ」に嗾ける。アリソン・ショーと内通し、アメリカ艦の位置をつかんで戦闘を有利とする。 日本の東京に部隊を率いて上陸し、国立博物館において文化遺産の破壊行為を働いていた所を「ネイサン・ジェームズ」やタケハヤ一味によって強襲され、最後はタケハヤに美術品の日本刀で刺殺される。 ラウ・フー (Lau Hu) 演 - ステファン・オイヤング シーズン3で登場する中国国家安全部部長。ポンの右腕的存在であり、国家安全部特殊部隊を率いてチャンドラー一行と戦闘を行う。自身もウルフと対等の格闘戦を演じる等高い近接戦闘能力をもつ。ウルフと二度目の戦闘で再度拳を交え、敗北し死亡する。
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中国(儒家・墨家など)
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古代中国では、春秋戦国時代に登場した諸子百家によって様々な思想が説かれたが、その内の1つである儒家では、開祖である孔子によって、「仁」(人間愛)が最重要徳目として説かれた。また孟子は、全ての人間が善性の萌芽を備えているとして「性善説」を説き、同時に、人民の生活を顧みてその信任・支持を得ることができないような天子は天命を失っているのであり、新たな天子に取って代わられるのが当然だとする「易姓革命」論を唱えた。 また墨家では、孔子の「仁」が近親者に向けられた差別的な愛であるとして、徹底した平等愛としての「兼愛」が説かれた。 秦朝末期に起きた、史上初の農民反乱である陳勝・呉広の乱の首謀者・陳勝が、決起するに当たり発した言葉は「王侯将相いずくんぞ種あらんや」であった。
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中国(中華人民共和国)
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江東区 (寧波市) 長江下流域。江表とも呼ばれる。後漢では揚州の会稽・丹陽・呉・豫章・廬陵・新都の六郡の地域。このため江東六郡も呼ばれる。
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中国(ちんせい)
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中国(中華人民共和国)
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「江西 (曖昧さ回避)」の記事における「中国(中華人民共和国)」の解説
江西(こうせい) 江西省 - 中華人民共和国の省。 江西省 (中華民国) - 中華民国の省。 江西省 (汪兆銘政権) - 中華民国南京国民政府の省。 江西等処行中書省 - 元の行中書省。
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中国(清朝〜中華人民共和国)
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「工業化」の記事における「中国(清朝〜中華人民共和国)」の解説
改革開放以降の詳細については「中華人民共和国の経済」を参照 中国は伝統的に高い水準の技術力を持ち、近代科学技術の基礎となる各種の道具の発明も羅針盤や火薬などで世界に先駆けていた。16世紀の明代中期以降には絹織物や綿織物の手工業も発展していたが、その資本蓄積はさらなる商業投資に向けられた事や、豊富な人口を持つため機械の導入による省力化が全く不要だった事は、西欧諸国で産業革命の進展と同時に進んだ市民勢力(中産階級)の台頭が皇帝専制体制を取る明朝、及びその統治体制を引き継いだ清朝では起こらなかった事もあり、産業化と同義としての「工業化」は長く起こらなかった。18世紀後半、清の乾隆帝がイエズス会の布教を禁止して西欧の文物流入を絶やした事は、産業革命の恩恵から中国を遠ざけた。 アロー戦争の敗北が1860年の北京条約締結に至り、イギリスやフランスとの科学技術力の格差を痛感した清朝は、曽国藩や李鴻章などの官僚によって洋務運動に着手した。清朝自らが西欧の科学技術を導入して各地に官設工場を建設する方式は、日本の明治政府が取った文明開化政策と同種で、かつ清朝の方が早期に着手していたが、支配理念では伝統を譲らず、従来の体制の枠組みの中に西欧の技術を組み込もうとする中体西用論に立脚した洋務運動に基づく改革は1894年からの日清戦争敗北によってその限界を明らかにした。 洋務運動が失敗した理由として官設工場の経営の問題が挙げられる。恒常的に近代企業を経営しようと思えば莫大な資金が必要であるが、その仕組み(会社法のような財産の保護や会計の監査を義務付ける法律)が当時の中国にはなかったのである。一例を挙げると、1870年代に外資が先導し生産を始めた器械製糸業は従来の手操りき生糸に代わって中国の代表的な輸出生産品を占めた。しかしながら外資以外は自己資本の乏しい零細工場ばかりで、資本の大部分を外部に仰がざるをえなかった。 日清戦争敗戦を期に全面的な改革の実施を目指した光緒帝や康有為らが行った1898年の戊戌の変法は西太后らによる戊戌の政変で失敗に終わった。一方、同年から義和団事変で清朝が大敗した1900年にかけ、欧州列強諸国は清朝の各地に租借地や排他的勢力圏を設定し、ここに自国の資本を導入して鉄道建設や鉱山開発などに着手した。 この「中国分割」に列強の一員として加わり、本国との距離が欧米よりも近い日本は、1905年の日露戦争勝利で自国の勢力圏とした満州南部で南満州鉄道の設立や撫順炭鉱の開発などを行い、後の工業地域の基盤を築いた。西太后自身が1901年から開始した光緒新政も含め、これらの諸政府による政策は中国の近代化・工業化を促進したが、同時に清朝による全国統治の継続を困難にした。辛亥革命によって1912年に清朝が滅亡した後は中華民国各地に軍閥が割拠する分裂状態となった。経済面を含む国家政策の立案は不可能で、中国の工業化はさらに遅れた。 その後第一次世界大戦は、欧米製品の流入を減らし、中国経済に大きなチャンスをもたらした。こうして、中国でも紡績業など工業化の兆しが見えてきたのである。 1920年代に入り、広州から北伐を続けた中華民国政府の国民革命軍が北上を続け、1928年にはようやく中国全土の統一を回復した。この政府の指導者となった蔣介石は、国際金融都市として発展した上海を中心とする浙江財閥の娘の宋美齢と結婚し、蔣介石政権ではブルジョワ政党と規定される中国国民党と民族資本家の協力が進んだ。 中国は世界恐慌の影響を受けながらもドイツとの協力(中独合作)による経済建設を目指し、ナチス政権成立後も天然資源供与との交換で経済建設に一定の成果を挙げたが、1937年からの日中戦争により蔣介石政権は沿海部の商工業都市の支配権を失い、ドイツとの協力関係も終了した。また、占領地に日本が樹立した南京国民政府も不安定で、戦闘が継続する状況では長期的な経済政策を立案できず、中国の工業化は再び中座した。 一方、1932年に満州国が建国されて日本による支配が強化された満州では、満州重工業開発などの企業による重工業中心の開発が進められた。満州は日本の戦争遂行を支える資源供給地として位置付けられ、その利益は日本によって利用されたが、高い鉄道敷設密度など、中国本土に先駆けた産業建設と工業化が目指された。1945年8月のソ連対日宣戦と日本軍の降伏で満州国が崩壊すると、旧満州地域は中国東北部として再び中国の一部となった。同地域で留用された日本人技術者はソ連が掠奪した産業施設の復旧や中国人への技術移転などを行い、東北部が中国の工業化の先進地域として機能する準備が整えられた。 1949年、中華民国(蔣介石政権)を台湾に追って成立した中華人民共和国は、ソ連と同様に中国共産党のプロレタリア独裁政権と規定される共産主義政権だったが、中国共産党中央委員会主席の毛沢東は農村からの社会主義革命を基礎とする毛沢東主義の提唱者だったため、その経済政策は人民公社に象徴される農業と工業の一体化や、下放政策も行われた大都市発展の抑制など、農本主義的な傾向を強く持った。農村製鉄の実施により粗鋼生産量でイギリスを超えるとした1958年からの大躍進政策は農村の生活を極度に窮乏させ、1965年からの文化大革命では高等教育機関の閉鎖を含む技術者の迫害・追放・死亡につながるなど、毛沢東指導下の経済建設は混迷を極め、中ソ対立によるソ連からの訪中技術者の帰国もあって、中国社会の工業化は遅々として進まなかった。 1976年、毛沢東共産党主席は死去し、その後の数年のうちに権力を握った鄧小平によって文化大革命は否定されることになった。鄧小平は改革開放の政策をとなえ、沿海部に経済特別区を設け、その政策的な優遇のもとでの輸出向け加工工業の発展もめざしていった。たしかに中国工業は技術の面では日本や韓国・台湾よりも劣っていたが、圧倒的な人件費の安さが強みとなった。これら近隣諸国が経済発展をとげていく環境にあって、中国はまず労働集約的な工業によって国際的な経済に結び付けられていった。しだいに工業地帯は限られた特別区から各地へ広がり、製造品目も繊維製品から機械部品などへと展開していった。
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中国(銭)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 17:08 UTC 版)
唐代の開元通宝10枚の質量が24銖すなわち1両に相当したことから、1枚あたりの質量を「銭」と呼ぶようになった。それ以来現在にいたるまで、10銭 = 1両の関係が保たれている。 ただし、開元通宝のような鋳造銭は規定の質量があるとはいえ、鋳造による大小あり一様でないため貨幣そのものが分銅代わりになったわけではない。 現在の定義(市制)では1銭=5 gである。
※この「中国(銭)」の解説は、「匁」の解説の一部です。
「中国(銭)」を含む「匁」の記事については、「匁」の概要を参照ください。
中国(推拿)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 06:18 UTC 版)
中国大陸では明代以後、医療行為としての按摩は推拿(すいな)と言うようになった。これは日本では中国整体と呼称しているものであり、現在の中国政府も公式な中医学の医療用語として「推拿」を採用している。現在、日本国内の按摩と中国大陸の推拿は、技法は似ているが、用法が全く違うので注意が必要だ。 日本において中国整体という民間療法が行う技法の多くは、推拿の一部の専門手法を用いた推拿式整体療法といえる。しばしば中国整体は日本で言う按摩と誤解されるが、それは按摩が推拿の技法に一番近いことも関連する。現在では、数は少ないが推拿専門の教育機関も存在している。 「推」には手を一方向へ押し進めるという意味があり、「拿」にはその押し進めた手で掴みあげるという意味がある。中国医学では、その理論に基づいて経絡や筋肉・関節などに様々な手技(後述の按摩の基本手技と同一のものも多い)を用いて疾病の予防・治療を行っており、鍼灸と並んで「推拿科」として治療をしている病院も多い。また、中国には法的にも推拿師・推拿医師という資格がある。
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中国(China)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/24 18:22 UTC 版)
「メイプルワールド」の記事における「中国(China)」の解説
中国版限定マップだった地域。上海ワイタンと宋山里はつながっていない。
※この「中国(China)」の解説は、「メイプルワールド」の解説の一部です。
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中国 (1901-1902)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/06 02:38 UTC 版)
「ポール・ボー」の記事における「中国 (1901-1902)」の解説
1900年6月から8月の間、大清帝国の首都北京で義和団事件(欧米では「北京の55日」の名で呼ばれることもある)が勃発。事件発生当時の駐清国フランス大使、ステファン・ピションを引き継いで、ポール・ボーはフランスの全権特使として清国へ派遣された。 彼はまた、義和団事件を最終的に解決させるための賠償交渉時にもフランスを代表して事に当たり、この目的は1901年9月7日に清国と欧米列強とが友好的な関係を正式に再開させるための条約が調印されるに至って達成された(北京議定書)。この条約で清国は、4億5千万両(テール)もの膨大な賠償金の支払いを準備することとなった。賠償金のうち2億6500万両がフランスの取り分である。また、清国はこれ以来、外国勢力の支配下に置かれる外交特区の創設を認めることともなった。この特区の中において、外国の軍隊は防衛力を恒久的に維持する権利まで有し、また、特区内を排他的に支配することも認められた。この日を境に、中国が欧米列強及び日本により分割されることが現実味を帯びてきた。 ポール・ボーはこの清国との交渉ののちの1902年7月に、フランスに帰国した。
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中国(後漢)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/07 00:50 UTC 版)
洛陽に白馬寺を建立したという説話による、仏教の中国伝来の一説の年。
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中国(ちゅうごく)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 06:39 UTC 版)
「中国 (曖昧さ回避)」の記事における「中国(ちゅうごく)」の解説
中国 - ユーラシア大陸の東部地域において成立した国家・社会の近代に於ける総称。歴史的に中国人が居住してきた地域。また、その地域に樹立された国家。「中華」と同義。「支那」「中国の歴史」も参照 また、以下の略称。 漢民族とその土地・文化等に用いられる地域、王朝や政権、国号、の呼称。中国大陸 - ユーラシア大陸東部に位置する亜大陸。 中国本土 - 歴史的に漢民族が居住してきた地域。 現在の中国河南省に相当する地域、中原の別称。 中華民国 中華民国 (1912年-1949年) - 1912年に樹立され、1949年まで中国本土を拠点とした国家。 中華民国 - 台湾を統治している国家。「台湾」も参照 中華帝国 中華帝国 - 中国史上において、広大な領域を支配した歴代王朝。 中華帝国 (1915年-1916年) - 1915年から1916年まで続いた短命政権。 中華ソビエト共和国 - 1931年に瑞金で樹立された短命政権。 中華共和国 - 1933年に福州で樹立された短命政権。 中華人民共和国 - 1949年に中国共産党によって樹立された国家。
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中国(前漢)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/04 18:57 UTC 版)
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中国(周・戦国時代から秦・前漢)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:12 UTC 版)
「紀元前3世紀」の記事における「中国(周・戦国時代から秦・前漢)」の解説
紀元前300年頃 - 湖北省の郭店一号楚墓が造営され、大量の竹簡(郭店楚簡)も納められる。 紀元前299年頃 - 楚の懐王が秦に抑留され、代わって頃襄王が即位。 紀元前296年 - 趙の武霊王が中山国を滅ぼす。 紀元前293年 - 伊闕の戦いで白起率いる秦軍が韓・魏連合軍を破る。 紀元前286年 - 斉が宋を滅ぼす。 紀元前284年 - 燕の楽毅が率いる秦・楚・韓・趙・魏・燕6国連合軍が斉を攻め臨淄が陥落(済西の戦い)。 紀元前284年 - 秦と趙による黽池の会盟。 紀元前278年 - 白起率いる秦軍が楚の都郢を陥落させる。楚の詩人屈原が汨羅江に入水自殺する。 紀元前269年 - 閼与の戦いで趙奢率いる趙軍が秦軍を大破する。 紀元前260年 - 長平の戦いで白起率いる秦軍が趙兵40万人を殺害する。 紀元前256年 - 秦が東周を滅ぼす。楚が魯を滅ぼす。 紀元前249年 - 呂不韋が秦の丞相となる。 紀元前247年 - 秦王政の即位。 紀元前241年 - 函谷関の戦い、蕞の戦い。 紀元前238年 - 秦の長信侯嫪毐の乱が鎮圧され、連座して呂不韋が失脚、李斯が丞相となる。 紀元前230年 - 秦が韓を滅ぼす。 紀元前228年 - 秦が趙を滅ぼす。 紀元前227年 - 荊軻による秦王政暗殺未遂事件。 紀元前225年 - 秦が魏を滅ぼす。 紀元前223年 - 秦が楚を滅ぼす。 紀元前222年 - 秦が燕を滅ぼす。 紀元前221年 - 秦王政が斉を滅ぼし中国を統一する( - 紀元前206年)。秦王政は始皇帝と名乗る。丞相を中心とする官制を整備。度量衡を統一。万里の長城建設。 紀元前219年 - 始皇帝が泰山で封禅の儀式を行う。 紀元前217年 - 睡虎地秦簡が埋葬者とともに墓に納められる。 紀元前214年 - 秦の百越征服が終わり、南海郡・桂林郡・象郡を設置する。霊渠が完成する。 紀元前213年 - 秦の始皇帝が宰相の李斯の進言により焚書坑儒を実施。 紀元前210年 - 秦の始皇帝が死去し、始皇帝陵(驪山陵)に埋葬される。二世皇帝胡亥が即位。 紀元前209年 - 陳勝・呉広の乱。 紀元前207年 - 望夷宮の変で胡亥が殺害される。趙高を倒した秦王子嬰が即位。 紀元前206年 - 子嬰降伏による秦の滅亡。鴻門の会。楚漢戦争始まる。 紀元前202年 - 垓下の戦いで劉邦が項羽を滅ぼし、前漢を建てる( - 紀元後8年)
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中国(中国経済産業局)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 04:00 UTC 版)
「一般ガス導管事業者」の記事における「中国(中国経済産業局)」の解説
鳥取ガス 浜田ガス 出雲ガス 松江市ガス局 米子ガス 岡山ガス 津山ガス 水島ガス 広島ガス - 広島電鉄は同根。岩谷産業が筆頭株主 福山ガス 因の島ガス 山口合同ガス
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中国
出典:『Wiktionary』 (2021/06/14 14:42 UTC 版)
発音(?)
京阪式アクセント
ちゅ↗ー↘ごく
固有名詞1
語源
中華思想に基づく、世界の中心の国との説が有力であるが、単に「わが国」を意味しているとの説もある。
関連語
翻訳
- アイヌ語: santan
- アラビア語: الصين (as-sīn)
- ベラルーシ語: Кітай
- ブルトン語: Sina
- チェコ語: Čína
- デンマーク語: Kina
- ドイツ語: China
- ギリシア語: Κίνα
- 英語: China, Cathay
- エスペラント: Ĉinio, Ĉinujo, Ĥinujo
- エストニア語: Hiina
- ペルシア語: چين (čīn)
- フィンランド語: Kiina
- フランス語: Chine 女性
- ヘブライ語: סין (sin) 女性
- ヒンディー語: चीन (cīn)
- ハンガリー語: Kína
- インターリングア: China
- インドネシア語: China, Cina, Tiongkok
- アイスランド語: Kína 中性
- イタリア語: Cina
- 朝鮮語: 중국 (ko) <中國> (chung.guk)
- ラテン語: Sinae
- ラトヴィア語: Ķīna
- リトアニア語: Kinija
- マレー語: Tiongkok, China
- モンゴル語: Хятад
- オランダ語: China
- パフラヴィー語: چینی (čīnī)
- ポーランド語: Chiny
- ポルトガル語: China 女性
- ケチュア語: Chunwa
- ルーマニア語: China 女性
- ロシア語: Китай (Kitay)
- サンスクリット: चीन
- スロヴァキア語: Čína
- スロヴェニア語: Kitajska 女性
- スペイン語: China
- セルビア語: キリル文字表記: Кина (sr) 女性、ラテン文字表記: Kina (sr) 女性
- スウェーデン語: Kina
- タガログ語: inchik
- タイ語: จีน
- ウルドゥー語: چين (čīn)
- ベトナム語: Trung Quốc
固有名詞2
語源
延喜式で、畿内からの距離による「近国」「中国」「遠国」の三区分のうち、「中国」に属していたため。異説ではヤマト王権と九州王朝の間に存在した地方であるため。
名詞
「中国」の例文・使い方・用例・文例
- 彼は中国人です
- 中国人は友好的な国民です
- 中国と日本の文明
- 彼は中国の大学から博士号を授けられた
- 彼は中国史に没頭した
- 彼と話してはじめて彼が中国人だと分かった
- 中国と友好関係を樹立する
- 中国の主要な輸出品は何ですか
- 中国製品が市場にあふれた
- 彼女はとても伝統的な中国の家庭の出身だった
- 中国の人口増加
- パンダは中国固有の動物だ
- 私はその映画を観て中国文化に興味をもった
- 彼は中国にとても行きたがっている
- この文を中国語にしなさい
- 中国,日本,タイ,ベトナムなどのアジア諸国
- 中国語なら少しわかる
- 中国本土
- 彼は中国語に熟達している
- 中国との国交回復は日本にとってとても重要だった
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