諸王の王
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諸王の王(しょおうのおう、英: king of kings キング・オブ・キングス, the King ザ・キング; lord of lords ロード・オブ・ローズ; emperor エンペラー)または王の中の王、王中の王、王者の王、王の王とは、「皇帝」および「唯一神」の同義語。
- 皇帝(emperor エンペラー)
- ペルシア帝国の君主の称号。シャーハンシャー。大王とも訳される。
- 上記の称号をギリシャ語化したバシレウス・バシレオーン。ヘレニズム時代の君主やパルティアの君主、7世紀以降の東ローマ帝国の皇帝などが使用した。
- エチオピア帝国の皇帝は、ゲエズ語で「王の王」を意味するネグサ・ナガストと呼ばれる。君主の権威が広範囲に及ばなかったり、自身の出身地内しか統治できていない場合は単に「王(ネグス)」、もしくは「諸侯(ラス)」と呼ばれた。エチオピア帝国を侵略して建国されたイタリア領東アフリカ帝国に於いても、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はネグサ・ナガストを称した。
- 唯一神(God ゴッド)
諸王の王
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詳細は「セプティミウス・オダエナトゥス」を参照 「パルミラの君主一覧(英語版)」も参照 222年、パルミラと関係の深いカラケネ王国は、パルティア(アルサケス朝)を倒してサーサーン朝ペルシア(224-651年)を興したアルダシール1世(在位226年頃-241年)によって滅ぼされた。その後、サーサーン朝は230年にメソポタミアを占領すると、ペルシア湾を支配して海上交易を拡大していった。シャープール1世(在位241-272年)の時代にわたってシリアからメソポタミアにかけてサーサーン朝とローマとの戦闘が相次ぎ、パルミラの通商が途絶えがちになるに従い、パルミラの射手を中心とする部隊がローマのもと編成されていく。 260年に皇帝ウァレリアヌス(在位253-260年)が、シャープール1世との戦闘(シリア・メソポタミア戦争(イタリア語版))において、エデッサ(現、ウルファ)の戦いで捕虜となり、首都クテシフォンで虜囚のまま虐殺されると、セプティミウス・オダエナトゥス(オダイナト〈ウダイナ〉)が、262年、凱旋の途につくシャープール軍をユーフラテス河畔において襲撃し、クテシフォンまで追い詰め一矢を報いた。オダエナトゥスはアラブ人の家系であり、元老院議員で「タドモル首長」(レーシュ=タドモル〈RŠ TDMWR〉、パルミラ太守〈ギリシア語: exarchos Palmyrenōn〉)の称号を持ったハイラーン (Ḥairan) の息子であった。 オダエナトゥスは、続いてガッリエヌス(在位253-268年)を支援して対抗勢力を討つなど皇帝の即位に貢献したことで、内憂外患に悩まされるローマの東の守りを任されるに至った。後の271年のパルミラ語碑文には「諸王の王」(王の中の王)にして「東方全域の総督(改革者・再建者)」という称号が記されている。本拠パルミラはローマから半独立状態にあり、オダエナトゥスは東方総督として、肥沃な三日月地帯のシリアからメソポタミアのオアシス都市を味方にして、常にサーサーン朝と対峙したが、267年の出征の際、オダエナトゥスと長男ヘロデス(英語版) (Herodes) が、エメサ(現、ホムス)で、甥のマエオニウス(英語版)によって暗殺された。しかし、オダエナトゥスの後妻であったゼノビア(バト=ザッバイ〈BTZBY、Bath-Zabbai〉「ザッバイの娘」の意)が間もなく鎮圧し、実子のウァバッラトゥス(ワーバラト、ワハバッラート〈「神アッラートの贈り物」の意〉)を擁立してパルミラの実権を握った。文化的素養があったといわれるゼノビアは、側近の一人として哲学者カッシオス・ロンギノス(英語版)を顧問に迎えている。
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