諸王家間の対立とモンケ推戴にいたる経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 03:20 UTC 版)
「モンケ」の記事における「諸王家間の対立とモンケ推戴にいたる経過」の解説
1241年、オゴデイが死去したため、本来ならばシレムンかモンケが後を継ぐはずであったが、オゴデイの皇后であったドレゲネの政治工作で、オゴデイとドレゲネの間に生まれた長男のグユクが後を継ぐこととなってしまった。ヨーロッパ遠征での総司令であったジョチ家の当主バトゥは、遠征中の対立もあってドレゲネの工作とグユクの即位に反発し、摂政となったドレゲネからの再三のクリルタイ召集にもかかわらず、病気療養を理由に出席を拒み続けた。モンケもこれに不満を持つが、ドレゲネ生存中は雌伏しバトゥと手を結んだ。 しかしそれから約5年もの間、モンゴル帝国はカアンの空位という状態を招くことになり、帝国各地、特に辺境部では駐留軍の狼藉や現地責任者が勅令の偽造や軍令の濫発を繰り返すなど、混乱に陥っていた。この事態を重く見たトルイ家のソルコクタニ・ベキはドレゲネの要求に応じ、1246年春にクリルタイ開催を帝国全土に呼びかけた。バトゥも自らの出席は病気を理由に拒んだものの、長兄オルダや次弟ベルケなどジョチ家の有力王族たちをモンゴル本土へ派遣し、テムゲ・オッチギンら東方三王家やオゴデイ、チャガタイ、トルイ家の王族諸将に加え、帝国各地の帰順諸政権の代表たちも列席して、同年8月のクリルタイでグユクが第3代皇帝(カアン)に即位した。 ドレゲネはグユクを見届けると、その2ヶ月後には病死した。グユクはオゴダイ、チャガタイ両家での自勢力の支持基盤を固めようと強引に当主位の改廃を行い、さらに甥のシレムンも遠ざけた。特に先年から反目していたジョチ家のバトゥとの対立が決定的となり、あわや内戦になりかけたが、即位2年後の1248年にグユクも病死した。 バトゥはオゴデイ家とチャガタイ家から政権を奪い、帝国で最大の勢力を誇るジョチ家とトルイ家が共同して帝国の国政再建を計画し、ソルコクタニ・ベキと連携した。グユクの没した後、その皇后オグルガイミシュが摂政となったが、バトゥはソルコクタニ・ベキやモンケ、クビライなどトルイ家の王族たちや有力諸将たちとともに独自に集会を開き、オグルガイミシュはじめオゴデイ家政権の拒絶を表明した。次にジョチ家とトルイ家が主催するクリルタイを強行し、全会一致でモンケを次期モンゴル皇帝に指名した。オグルガイミシュ側は後継候補としてグユクの息子ホージャ・オグルを望んでおり、他のオゴデイ家やチャガタイ家の王族たちなどはシレムンを推していた。しかしいずれも幼少であり、バトゥらが推すモンケに比べ、モンゴル皇族や諸将の多くの支持は得られないでいた。オグルガイミシュはバトゥらの行動を非難したが、逆に当時オノン川、ケルレン川の河源地域にあったチンギス・カンのオルドで開催する2回目のクリルタイへの参加を勧められた。グユクによってチャガタイ家の当主になったイェス・モンケもバトゥを非難したが、バトゥは広大な帝国の統治を年少者に委ねることは不可能であると書簡で論駁し、重ねてクリルタイへの出席を求めた。 こうしてバトゥ側とオグルガイミシュなどそれに対抗する諸勢力は、帝国各地で支持者の獲得に奔走してさらに2年を費やしたが、これ以上の遅滞がもたらす帝国の混乱を懸念したバトゥは、トルイ家と東方三王家とも協議してオグルガイミシュ側とイェス・モンケに最後の説得を行った。ついに体勢が不利と判断した後継候補のシレムンとホージャ・オグルら自身が出席を表明したものの、彼らは約束の日時には指定の場所に姿を表さなかった。ここに至り、モンケを推すバトゥを始めとするジョチ家、トルイ家、東方三王家はクリルタイを開催し、1251年7月1日、かねて指定されていたチンギス・カンの大オルドのあったコデエ・アラルの地のクリルタイにおいて、モンケは全会一致をもってモンゴル帝国の第4代皇帝(カアン)として即位した。 このとき、後々の害になるとして、先帝グユクの皇后として隠然たる影響力を持っていたオグルガイミシュ、さらにはシレムン、イェス・モンケなどオゴデイ家やチャガタイ家の反対派を処刑、粛清するという冷酷さを見せた。
※この「諸王家間の対立とモンケ推戴にいたる経過」の解説は、「モンケ」の解説の一部です。
「諸王家間の対立とモンケ推戴にいたる経過」を含む「モンケ」の記事については、「モンケ」の概要を参照ください。
- 諸王家間の対立とモンケ推戴にいたる経過のページへのリンク