ヨーロッパ遠征
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1521年からは外征に乗り出し、ハンガリー王国からベオグラードを奪い取り、翌1522年のロドス包囲戦で聖ヨハネ騎士団からロドス島を奪うなど活発な外征を行った。この2ヶ所は曽祖父のメフメト2世が最後まで征服できなかったところであり、これにより帝国内におけるスレイマン1世の支持、評価は著しく向上した。また、ロドス島の征服によって3大陸にまたがるオスマン帝国領土内の海上交通のとげが取り除かれ、領土内の航行が円滑となった。 ロドス島征服の直後に、スルタン即位前からの寵臣で義弟のイブラヒム・パシャを大宰相に抜擢しているが、ベオグラード、ロドス島ともに、若いスルタンの実力を国内向けに演出する効果を狙ったイブラヒム・パシャの進言によるものとも言われている。オスマン帝国はこの時点でもまだ支配が安定せず、1522年から1524年にかけてエジプトで反乱が起こったが、イブラヒム・パシャは反乱を鎮圧、1525年に総督に赴任してエジプトの支配を安定させ、1526年・1527年にアナトリア南部で親サファヴィー派の部族が起こした反乱も収拾させ、軍事・行政共に有能な手腕を示し、スレイマン1世の信任を深めていった。 1526年には、モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を討ち取りハンガリー中央部を平定し、ハプスブルク家のオーストリア大公国と国境を接した。スレイマン1世はラヨシュの戦死により断絶したハンガリー王位に、オスマン帝国に服属したトランシルヴァニアの領主サポヤイ・ヤーノシュを推し、傀儡としてハンガリーの間接統治を狙った。しかし、ハンガリー王位継承を宣言したハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の弟フェルディナント(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)と対立すると、1529年に第一次ウィーン包囲を敢行し、ウィーン攻略には失敗するもののヨーロッパの奥深くにまで侵攻して西欧の人々に強い衝撃を与えた。 スレイマン1世は1532年にも再びオーストリア遠征を敢行したが、どちらも戦端を開こうとせず和睦の話し合いが行われ、1533年にフェルディナントの使者とイブラヒム・パシャとの協議の結果和睦が成立した(コンスタンティノープル条約)。内容はヤーノシュの王位を認め、オスマン帝国に貢納金を支払うことが確約されたため、ハンガリーに対するオスマン帝国の優位が明言され、スレイマン1世はしばらくヨーロッパ遠征は控える代わりに東方遠征へ向かった。
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ヨーロッパ遠征
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1878年(明治11年)から翌年 ヨーロッパ遠征を行った。1877年12月14日、欧州回航が命ぜられ、翌1878年1月12日横浜港に回航し、1月17日午後2時45分、横浜港を出港した。同日は金田湾に碇泊、翌18日は下田港に停泊、翌19日出港、1月23日長崎港に到着した。1月26日長崎を出港したが一旦引き返し、1月29日改めて出港した。2月3日香港着、10日発。2月17日シンガポール着、21日発。3月1日コロンボ着、5日発。3月18日アデン着、21日発。3月29日スエズ着、翌30日発。同3月30日イスメリヤ着、翌31日発。同7月31日ポートサイドに入港、5日間碇泊した。4月11日マルタ島バレッタに回航、4月13日からマルタ港の造船所で入渠し、修理を行った。5月4日同地発、以後は各港に数日間碇泊した。同日シチリア島シラキュース着。5月7日同島メッシーナ着。5月10日イタリア・ナポリ着。5月18日同国ラ・スペツィア着。5月20日同国ジェノバ着。5月24日フランス・ツーロン着。5月29日同国マルセイユ着。6月5日スペイン・バルセロナ着。6月9日同国カルタヘナ着。6月12日イギリス領ジブラルタル着。6月15日ポルトガル・リスボン着。6月20日スペイン・フェロル着。6月26日イギリス・プリマス着、7日碇泊。7月4日同国ポートランド着。7月6日同国ポーツマス着、11日碇泊。7月18日同国グリーンハイス(Greenhithe)着、11日碇泊。なお『海軍省報告書』によると5月25日、清輝乗組の川村正介少尉はイギリスで退艦し、3年間の自費留学を行った。7月31日(または7月30日)フランス・セルブル(セルフール)着、15日碇泊。8月21日イギリス領ジブラルタル着。8月26日フランス・ツーロン着、9月29日より同地で修理を行った。10月3日イタリア・ジェノバ着。10月8日同国ナポリ着。10月14日シチリア島パレルモ着。10月18日同島メッシーナ着。10月20日マルタ島バレッタ着、10月23日よりスクリュー翼1枚の交換などの修理を行った。11月3日トルコ・ベシカベー着。11月4日同国チャナク着。11月6日同国ガリボリ着。11月7日同国アルタッキ着。11月9日同国コンスタンティノープル着、11日碇泊した。以後帰国の途につき、チャナク、ポートサイド、グレートビター湖、スエズを経由し12月8日アデン着。12月26日ボンベイ着、 1879年(明治12年)1月6日より同地で上甲板の修理を行った。1月11日ボンベイ発、17日コロンボ着。1月21日コロンボ発、ポイントデガールに回航、23日同地発、31日ベナンに到着した。2月4日ベナン発、2月6日シンガポール着。2月23日シンガポール発、3月2日マニラ着。3月6日マニラ発、9日ランマ島西湾着、翌10日香港に入港した。3月16日香港発、霧のために香港口テートー島で漂泊、翌17日出港したが北東風の為に18日チノベーに避泊、19日同地発、20日厦門外港に到着、21日厦門に入港した。3月25日厦門発、3月29日長崎港に帰国した。4月4日長崎発、大辺浦、神戸、鳥羽に寄港し、4月18日横浜に帰港した。4月23日品川に帰着した。 1879年(明治12年)5月19日品川から横須賀に回航した。6月21日横浜に回航、23日に艦隊訓練を行い、横須賀に戻った。8月26日品海に回航した。9月18日横須賀に回航した。 修理 9月10日(または9月12日)清輝は修復艦と定められ、9月22日より横須賀造船所で修理開始、30日にボイラーを陸揚げした。1881年(明治14年)7月7日に修理は完了した。
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ヨーロッパ遠征
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1236年にはじまるバトゥの西方遠征(バトゥの西征(英語版))では再びグユクや父スベエデイらとともに従軍した。途中、グユクは遠征軍総司令のバトゥと諍いしたためオゴデイの命令によってモンゴル本土へ召還されたが、ウリヤンカダイはその後もバトゥの遠征軍のもとでピャスト朝のポーランド王国(孛烈児)を攻撃(モンゴルのポーランド侵攻)するなど東欧での作戦に従事していたようである。
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