わ‐ぼく【和睦】
和睦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/03 04:45 UTC 版)
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関連項目
和睦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 16:48 UTC 版)
長慶と六角義賢の使者が交渉をやり取りした結果、6日に義賢の仲介で長慶と義輝の和睦が成立した。27日に義輝は将軍山城から下りて相国寺で長慶・伊勢貞孝・細川氏綱らの出迎えを受けて入京、5年ぶりに京都へ戻った。長慶は12月に京都から芥川山城へ戻り、四国勢も解散して帰国した。ただし、晴元は和睦に反対して姿を消し、以後も長慶への敵対行動を続けることになる。 義輝と和睦した長慶は幕府の関係修復と勢力拡大に努め、永禄2年(1559年)3月に義輝を自邸へ招き歓待、同年と翌永禄3年(1560年)にかけて河内・大和を平定して領土を増やした。また、永禄3年に長慶は義輝から幕府相伴衆に任命、朝廷から修理大夫に任官され、子の義興も筑前守に任官、御供衆にも任じられ父子共に幕臣として義輝に仕え、対立関係から一転して幕府と協調関係を築いていった。 幕府との関係修復と領国増加で長慶の勢力は増加、長江正一は永禄4年(1561年)に義興も相伴衆に任命された御礼に義輝を歓待、長慶が晴元と和睦した時期が全盛期と記しているが、今谷明は義輝の帰京で幕府発行の命令書である奉行人奉書が復活、反対に長慶の書状は出されなくなり、形式的にせよ幕臣となったことにより義輝との上下関係が定まった点を指摘、独立政権を切り回していた天文22年から永禄元年までの5年間が長慶の全盛期と指摘している。いずれにせよ、長慶は幕府との戦いを経て畿内最大の大名として君臨したが、永禄4年以後は六角義賢を始めとする敵対勢力の反撃と身内の相次ぐ不幸で苦境に立たされていくことになる。
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和睦
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