和睦の破棄と再締結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 08:02 UTC 版)
「享禄・天文の乱」の記事における「和睦の破棄と再締結」の解説
ところが今度は、門徒達を指揮していた抗戦派の下間頼盛による暴挙で、翌天文3年(1534年)3月に証如は一時期、人質にされた。やがて本願寺へ解放されると、下間から説得でも受けいれたのか定かでは無いが、翻意した証如は同年5月29日には和睦を破棄、再戦に及んでしまう。だが翌天文4年(1535年)6月に細川軍との総攻撃で、戦闘は本願寺の大敗に終わり、当時の後奈良天皇の日記に「本願寺滅亡」と記されたほどである。 その天文4年4月に長島から呼び戻したばかりの蓮淳や興正寺蓮秀と共に再び和議を図った証如は、これを機に下間兄弟を今回の一揆の扇動者としてその一切の責任を負わせることで証如・蓮淳の責任を不問とし、彼らや近江などの畿内門徒の総破門を行うことを条件にした。9月には本願寺と細川との和睦交渉を妥結、11月には幕府・細川・六角との和議が成立した。 しかし今回も和議に納得しない一揆衆も一部で存在し、翌天文5年(1536年)3月には中嶋城に籠もったが、7月29日には木沢長政に鎮圧され、下間兄弟は逐電した。しかし、証如は二人を許さず、天文8年(1539年)3月に下間頼秀を近江で、7月には下間頼盛を堺でそれぞれ刺客に襲わせて暗殺している。 この間、戦勝で京都の自治権を得た法華一揆と比叡山延暦寺との対立で、天文5年7月には比叡山側から援軍を求められた本願寺だったが派兵には応じず、軍資金を送って比叡山への支持表明のみ行った(結果は比叡山・六角連合軍が勝利した)。8月には細川晴国も味方の裏切りで敗死した。 なお和議締結後も、証如の求めに応じて石山本願寺に留った蓮淳は、成人した証如の補佐役として従来の立場を事実上回復し、天文19年(1550年)に同寺で没するまで証如の名において本願寺の事実上の最高指導者としての地位を保持し続けることになったのである。
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