ケトルとは? わかりやすく解説

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kettle

別表記:ケトル

「kettle」の意味・「kettle」とは

「kettle」は、英語で「やかん」を意味する単語である。主に、を沸かすために使用される容器を指す。形状は、底部広く上部取っ手注ぎ口がついた形が一般的である。また、電気利用してを沸かす電気ケトルも「kettle」と呼ばれる

「kettle」の発音・読み方

「kettle」の発音は、IPA表記では /ˈkɛtl/ となる。IPAカタカナ読みでは「ケトル」、日本人発音するカタカナ英語では「ケトル」と読む。この単語発音によって意味や品詞が変わる単語ではない。

「kettle」の定義を英語で解説

A 'kettle' is a container or device in which water is boiled, having a lid, spout, and handle, or a small kitchen appliance of similar shape that functions in a self-contained manner. Kettles can be heated either by placing on a stove, or by their own internal electric heating element in the appliance versions.

「kettle」の類語

「kettle」の類語としては、「teapot」がある。ただし、「teapot」は主に「ティーポット」を意味しお茶淹れるための容器である点が「kettle」とは異なる。

「kettle」に関連する用語・表現

「kettle」に関連する表現として、「boil the kettle」がある。これは「やかんを沸かす」という意味で、お茶入れる前の準備や、インスタントスープ作る際などに使われる

「kettle」の例文

1. Could you boil the kettle?(やかんを沸かしてもらえますか?)
2. I bought a new kettle.(新しいやかんを買った。)
3. The kettle is whistling.(やかんが沸騰して鳴っている。)
4. The kettle is on the stove.(やかんがコンロの上にある。)
5. The electric kettle is more convenient.(電気ケトルの方が便利だ。)
6. The kettle is made of stainless steel.(そのやかんはステンレス製だ。)
7. The kettle is full of water.(やかんはいっぱいだ。)
8. The kettle is boiling.(やかんが沸いている。)
9. The kettle has a built-in thermometer.(そのやかんには温度計内蔵されている。)
10. The kettle automatically turns off when the water boils.(が沸くとやかん自動的に電源が切れる。)

ケトル【kettle】

読み方:けとる

湯沸かし。やかん。


け‐ど・る【気取る】

読み方:けどる

[動ラ五(四)古く「けとる」とも》

多くけどられる」の形で用いる)その場雰囲気相手のようすなどから、事情感じ取る感づく。「二人の関係を—・られないよう振る舞う

魂を奪う。正気でない状態にする。

「ものも言はず、息もし侍らず。何か物に—・られにける人にこそ」〈源・手習


ケトル

名前 Kettl; Kettle

やかん

(ケトル から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/11 00:41 UTC 版)

やかん(薬缶、薬罐、薬鑵)は、湯沸かしに用いる道具で、主に土瓶形である。薬・茶などを湯で煮出す・煎じるため火にかける道具でもある。


注釈

  1. ^ ただし、1995年PL法が施行されてからは、突沸等による火傷や吹きこぼれ等によるストーブの損傷を抑制する観点から、説明書およびストーブ本体に「ストーブの上で使用しないこと」の旨が記載されるようになった。
  2. ^ 電源コード接点を本体側面に差し込むタイプ、磁石を使って電源コード接点を本体側面に接続するタイプも以前は多かった。これらのタイプは、コンセントから離れた場所に本体を移動させる際に、電源ベースを使うタイプでは不要な、電源コードを本体から外す操作が必要である。

出典

  1. ^ 社団法人全国調理師養成施設協会編『改訂調理用語辞典 カラー版』 1999年、1201頁
  2. ^ 雑貨工業品品質表示規程”. 消費者庁. 2013年5月23日閲覧。
  3. ^ a b 「日本人の知恵、漢方」”. 城西大学水田記念図書館. 2020年2月23日閲覧。
  4. ^ 堀江皓. “南部鉄瓶雑学”. 2020年2月27日閲覧。
  5. ^ 消費者物価指数、品目見直し 除外…携帯型オーディオ 追加…タブレット端末:朝日新聞デジタル
  6. ^ Kettle – 1891”. Magnet Academy. National High Magnetic Field Laboratory. 2023年9月16日閲覧。
  7. ^ Austin Court: Engineering exhibits: The Atrium”. IET Birmingham. The Institution of Engineering and Technology. 2023年9月16日閲覧。
  8. ^ a b “後絶たないやけど事故 ティファール電気ケトル”. 中日新聞 (中日新聞社). (2013年6月6日). オリジナルの2013年6月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130615120733/http://www.chunichi.co.jp/article/living/life/CK2013060602000003.html 2013年6月14日閲覧。 
  9. ^ 沸騰までの時間が業界最速の蒸気レス電気ケトル”. 家電Watch. インプレス (2014年9月18日). 2017年11月13日閲覧。
  10. ^ 電気ケトル(CK-CH08型) 新発売”. ニュースリリース. 象印 (2016年10月13日). 2017年11月13日閲覧。
  11. ^ 平湯宗人、中原大輝「電気ポットと電気ケトルの使い方と比較」『平成26年度 電気・情報関係学会九州支部連合大会論文集』、電気・情報関係学会、2014年9月16日、303頁、doi:10.11527/jceeek.2014.0_3032017年11月12日閲覧 
  12. ^ 100Vと200Vの電気ケトル比較”. SuperTechsan. YouTube (2017年2月26日). 2017年11月21日閲覧。


「やかん」の続きの解説一覧

ケトル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/23 16:52 UTC 版)

陰陽探偵少女遊RANTO☆魔承録」の記事における「ケトル」の解説

野干呼ばれる人語理解する荼吉尼天霊獣天子使い魔通常一般人には見えない

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ケトル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:22 UTC 版)

竹本織太夫 (6代目)」の記事における「ケトル」の解説

谷崎潤一郎陰影礼賛』-ケトル No.00 井上ひさし『たいこどんどん』-ケトル No.01 〈空気無料ではなかった。土ももそして光も決し無料ではなかった。いまその勘定書回ってきており、人間たちがこの付け決済しないかぎり、大自然地球の上人間たちが住むことを許さないだろう。〉 2010年4月9日ご逝去された井上ひさしさんの言葉である。この言葉はまるで、東日本大震災原発事故予知していたかのようだ。(略)猥雑エネルギー饒舌笑い庶民いきおいきと描きながら「日本とは」「日本人とは」を鋭く見据えた井上ひさしさんのまなざしを、しっかりと受け止めたい。 歌川国芳没後150年 歌川国芳」-ケトル No.02 東寺空海立体曼荼羅」-ケトル No.03 唐で学んだ密教凡人には難しいものだった空海もそれをわかっていて、絵で伝えることが望ましいと思い曼茶羅持ち帰り密教世界紹介した。しかし、それだけでは満足しなかった。絵よりも、よりわかりやすく人々悟り世界見せるために、3D化して曼茶羅をつくることにしたのだ。今でいうならバーチャル・リアリティ極致で、イメージヴィジュアル化、アコースティック化、空間化した空海立体曼茶羅構想した精神が示すのは、いわば悟りのための美術、あるいは人を救うアート宗教美術生き生きとした力の源泉は、美を人間のために役立てようとする姿勢にあるのでしょう仏教では、自利利他ということがよくいわれます自利とは自分のために利他他者利益のためにおこなう修行です。そして、大乗仏教ではとくに利他行重視されます。それこそ人々幸せにしたい社会福祉の父でもあった空海願いであろう坂本龍一commmons : schola」-ケトル No.04 現在、インターネットの普及により誰もがあらゆる音楽情報簡単にアクセスできるようになりました。それによって、音楽いい意味でも悪い意味でも優劣つけられることなく並列化されつつあります旧来の型にはまった音楽観西洋クラシック音楽優れたものとし、伝統音楽ポピュラー劣ったものと見る―が、相対化されたことは歓迎すべきことです。 「commmons : schola」が企てるのは、ほどよい一般性をもった文化教科書作り出すではなく圧倒的に突出した音楽拾いつつ、そこから普遍性をもった標準作り出そうという、きわめて野心的なブロジエクトなのですそのような標準選定は、たんに広くバランスのとれた知識だけによっては不可でしょう場合によっては、選者個人的なこだわりから特殊な音楽を選ぶことがあってもいいそういう特異性からこそ普遍性通ず標準生み出されるのです。文化規則性からはみ出し例外であるからこそ、いつでもどこでも新しく響く、それこそ本当の「古典と言うべきではないでしょうか手塚治虫ブッダ』-ケトル No.05 フェルメール真珠の首飾り少女」-ケトル No.06 河合隼雄明恵 夢を生きる』-ケトル No.07 宗教とは本来個人の心の救済問題であるはずなのだが、人が集まると政治がらみとなる。あげくの果て僧兵備えて戦争までしようということになる。明恵遺訓にも次のようなものがある。〈凡そ仏道修行には何の具足もいらぬなり。松風に唾をさまし、朗月を友として究め来たり究め去るよりの事なし〉 「栂尾明恵上人遺訓」に次のような一節がある。〈人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)の七文字を持つべきものなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあないしるべき様なり乃至帝王帝王あるべき様、臣下臣下あるべき様なり此のあるべき様を背く故に一切悪しきなり〉。そして、まさに、明恵は僧としてあるべきように生きぬいた。現世においてまず「あるべきように」あろうとした。修行すべきように修行し振舞うくべきように振舞まう。人は常に浄玻璃の鏡日夜自分振舞い映っていると思いなさい、と。これは人に知られないだろうから、ごまかしてもいいやなどと思っても、その鏡にはしっかりと映っているのである現世のことはどうであっても後生だけ助かればいいなどと説いている経典はない、と明恵言い切っているのである今を生きるあなたの「あるべきようわ」は何か?と、時代向こう側から問いかけられているようだ松岡正剛日本という方法』-ケトル No.08 九鬼(周造)が留学中考えたことは「寂しさ」とか「恋しさ」という感情生むものは何かというものでした。九鬼によると、この「寂しさ」とは他者との同一性得られないという感覚で、「恋しさ」は対象欠如によって生まれ根源的なものへの思慕なのです九鬼はこれらの感情感覚は「失って知る異質性」への憧れ孕んでいると考えます。そして、人間という存在がすでに何かを失ってこの世界に生をうけているという「被投性」をもっているのではないかということに深い関心寄せました茶の湯浄瑠璃文人画として見いだされ上質日本文化は、つねに「無」や「無常」とは表裏一体なものとなっているはずなのです感じたいから、そこからを抜く枯山水になっていることがあるのです。そこに「被投性」があり、それゆえ失って知る異質性」との出会い暗示があるのです。これを不思議がってはいけない。その不思議こそが「日本という方法」の正体なのだと考えた九鬼見方が、何かを失ってわかる本来の感覚というものなのです千宗屋茶 利休を今をつなぐ』(「伝統伝燈」)-ケトル No.09 「伝統」という言葉自体が、明治以降新しく作られたものです。「伝えて統(す)べる」という熟語は本来存在せずそれまでは「伝燈と書かれていました。これは仏教教えで、釈尊亡くなるときに弟子嘆きかなしんで、「私たちはあなたが亡くなった後、何を支えにして生きていけばよいのか」と尋ねたところ、釈尊の「自燈明・法燈明」つまり「私を支えにしてはならない真理と、あなた方正し真理追究したいと思う志を燈にしなさい」という答え由来するものそうです仏教では迷いを闇にたとえますから真理=法を燈として歩みなさいという釈尊のことばから、真理教え伝えることを「伝燈と言うようになりました。ですから師から弟子教え伝えることを「伝燈と言うのです。ところが明治廃仏毅釈によって、神道国教据えられ、もともと外来宗教である仏教排撃された時、伝燈という言葉仏教色が強いから「燈」をやめて「統」という字を当てることになったのです。 では、この燈を伝えるための具体的な工夫というと日々、油を差すことに尽きます。だから油を絶やすことが「油断なのです。常に新しい「油」、つまり新しエネルギーを注がなければ、燈は維持できません。その新しい油が、変化する生活に対応するための工夫であったり、時代に添った意識であったりするのでしょう。この本では利休茶秘伝書である『山上宗二記』を繙き、茶の湯で一番大事なことは「工夫」することだと記されています。古い法を学んだ上で自分創意工夫こそがお茶なのだと。茶の湯は、繰り返し新し工夫加え更新し続けて擦り切れることのない、強靭な枠組みをもっている、とあります人形浄瑠璃文楽次の工夫を探ることで、新し生命吹き込まれます。私は、この芸能核心には、いまなお赤々と燈が絶えことなく燃えていることを、現代お客様感じていただける舞台務めたい思いますロラン・バルト表徴の帝国』-ケトル No.10 バルトはその純粋なエクリチュールを、たとえば枯山水庭園感じる。「どんな花もない、どんな足跡もない。人間はどこにいるのか?岩石搬入のなかに、箒の掃き目のなかに、つまり表現体の働きのなかに、いる。」 さらには文楽についても書かれている。「動作と声の統一が、表現する人間生み出す」と考えられている西洋演劇違って、「《文楽〉は、舞台三個所から、同時にみとってもらうようにと別々に表出される三つ表現体(エクリチュール)を用いる。すなわち、繰り人形人形遣い、声師、である。」「ここでは声が、あそこでは目が、もう一つ向こうでは身のこなしが、それぞれ肉体一つ一つあるかのように、しかもそれぞれ呪物フェティッシュ)の一つ一つあるかのように、別々の行動原理エロス)の性格与えられ存在する」というのだ。 『ZENSHIN 柴田是真漆工漆絵絵画』-ケトル No.11 是真は、「西洋油絵久しき耐えるといって数十年。けれども、わが漆器は、古物見て剥落摩滅したものはない。漆を絵画同様に表現できればすばらしではないか」と考えていました。たとえば、和紙漆絵を描くというのは、ほとんど誰もやったことのない試みでした。ただ線をひくだけでも絵の具違って漆は自由が利きませんが、耐久性では遙かに優るそういう漆の性質最大限にいかす材料求めて和紙などを含めてとことん研究し、描く技術磨きました。さりけなく描かれているように見える絵が、実は誰も絶対真似できることができない技術裏打ちされています。白隠展 HAKUIN 禅画込めたメッセージ』-ケトル No.12 白隠職業画家でもなけれは、風雅に遊ぶ日曜画家でもない、それら全ての作品は、大名から庶民に至るまで、あらゆる階層人々惜しみなく与えられたものであると言われています。ただ禅の教え伝えたい菩提心と、ただただ描くことが好きな絵心とが合致して生まれた作品は、ユーモア包まれ頭でっかちではない禅の教えストレートに伝わってます。 面白くて笑えるのに深い思想たたえた白隠禅画見ていると、禅とは難しいものではなく、いまの私たちでも日常活かすことができる思想なのだということ教えてくれる気がしましたみうらじゅんマイ仏教』(「比較三原則」「自分なくし」)-ケトル No.13 言葉があるから基準もでき、基準があると、人はつい他人比較してしまう。むしろ常に他人比較しながら生きているのが人間でしょうおもしろいかおもしろくないか、幸せ不幸せか。他人がいて、それを比較する言葉があって、はじめて自分立っている位置認識します比較ができるから人類進化したのかもしれないし、比較こそが苦しみ生む原因なのかもしれません。これを著者は「比較三原則」と呼んでいて、"他人過去と親"、この三つ自分比較してはいけないと説きます。でも、上手に比較三原則」を意識すれば、気が楽になることもあると、その技術教えてくれますまた、"「自分なくし」は生きるテクニック"の章では、人間他人機嫌を取り過ぎると「なんで俺は他人のことをばかり考えているんだろう」と落ち込むこともあり、結局自分探しが行き着く先もここだとあります必死になって自分探した結果が、「たいしたことない」では浮かばれません。だから、早く自分をなくす」方法を身につけたほうが得だ、と書きます。その例として、みうらさんが昔から好きだという、ものまね芸人取り上げられます。彼らの芸は「自分をなくす」ということと、「ご機嫌を取る」ということが、同時にできている「自分なくし芸」であると。それに比べ素人中途半端なものまね目も当てられない。なぜならそれは、「自分をまだキープしたままの今ものまね丘だからです。この指摘は、私のように芸を継承することを業にする者にとってもひとつの極意です。「自分探し」よりも「自分なくし」。これこそが、生きる上で、芸を極める上でも、大事な心構えであることに、改めて気づかされました映画華麗なるギャツビー』-ケトル No.14 クリストファー・ボナノス『ポロライド伝説』-ケトル No.15 印象的だったのは、ランド博士マーケティング幹部執行役員昇進させた時に与えた職務内容。それはたった4単語で「Keeper of the Language(言葉管理者)」だったそうです科学的な厳密性と同じくらい言葉にも気を遣っていたことがわかるエピソードです。 『セレンディップ三人王子たち』(「セレンディピティ」)-ケトル No.16 「セレンディピティ」とは、ウォルポールによると、「偶然と才気によって、さがしてもいなかったものを発見する」ことを意味します。この言葉は、次第広まり多く人びとが口にするようになるとともに、「幸せな偶然」の意味使われるようになってきましたが、たんに「幸せな偶然」であれば、わざわざ「セレンディピティのような言葉作る要はありません。 ウォルポールは、セレンディピティ発見の鍵は、「幸せな偶然」を待つだけではなく、その偶然を生かすことができるかどうかだといいます。つまり、実験観察をする人たちの心がまえ次第であり、何事にも集中する意識があって、周囲出来事注意深く観察し、それに瞬間的に、かつ無心反応する心が常にそなわっていることが必要で、先入観禁物だともいっています。ただ、セレンディピティ発見科学分野のみで、注目されているのような印象うけますが、そうではありません。このおとぎ話のように日常生活にも起こりうることであり、ウォルポールのいう条件さえ身につければ誰でもセレンディビティを体験することできるのです。 ドラマ鑑定士と顔のない依頼人」-ケトル No.17 都築響一大阪万博Instant FUTURE』-ケトル No.18 今や人々はどんどん物を持たなくなってます。自宅大きな冷蔵庫を置くより、近くコンビニに行くほうが便利だし、たくさんの書籍CD所有するより、ネット上に大量データ保存するクラウドサービス利用して必要な時端末通じて取り出すほうがいい。大阪万博未来予測外した原因一つは、日々暮らしへの愛情欠落かもしれないモノ頼りすぎたあまり、テクノロジー発達によって、暮らしがどう変わるのが望ましいのかを真剣に考えることを忘れてしまった。でも、都築響一さんの序文にもあったように、大阪万博映像は、なぜか脳内最深部駆け巡る何かとてつもなく古くて新し感覚信じるままに突っ走ってしまうチカラそのもの疑い、ためらうことばかり覚えてしまった、世紀末の子供である私にとっては、だからこそ大阪万博は、何よりも新鮮なのです。 内沼晋太郎本の逆襲』-ケトル No.19 電子書籍一般化した現在、もはや「本とは何か」という定義ができなくなっているとも言ってます。本の歴史は、手書き写本起源として始まります。本が現在のような冊子になったのは、羊皮紙という素材生まれて以降のこと。続いて印刷という複製技術生まれて手書きの必要がなくなりその後デジタル技術生まれて印刷不要になった。同時に冊子ではなく、まるで石板の皮のような1枚タブレット状にまた戻ったとも言えるのが現代です。そう考えると、商品カタログパンフレットiPad見たら、本でないとは言えません。博物館収蔵されている写本が本であるなら、Evernote上に収集された論文も本です。つまり、どこからどこまでが本なのかは、人によっても時期によっても変わっていくわけです。 「本とは編集されコンテンツである」とか「本とは印刷され冊子である」とか定義しないと落ち着かない人もいるでしょうが、とらわれずに本を守りつつ、活動する内沼さんの姿はとても魅力的です。出版社取次書店図書館も、本を読む習慣がすでにある人に「この本の面白さ」を伝えるのに精一杯で、誰もその手前にいる人に「本というものの面白さ」を伝えることをしていないではないかと。 「本の逆襲」という本のタイトルは、書店出版社売り上げ減少している原因読者のせいにし、努力工夫もせずに飲み屋で「出版業界斜陽産業だ」とつぶやいてきた大人たちへの強烈なアンチテーゼです。なにより、「出版業界未来」に、「本の未来」まで巻き込まないでくれ!という内沼さんの切実な怒りです。なぜなら本は形を変えながら人生豊かにしてくれる存在であり続けるという確信内沼さんにはあるからです。 しかし、この問題は私にとっても他人事ではありません。文楽入場者数減少問題後継者問題置換えて、改めてじっくり考えなければならないことを痛感しましたエーリッヒ・フロム『愛するということ』-ケトル No.20 原題は"The Art of Loving"(愛の技術)、Artには「芸術」という意味もありますが、ここでのArtは「技術」という意味で使われています。つまり、愛とは心の技術であり稽古をしないとできるようにならないものなのですでも、その「技術」は、どんな行動を心がけどういうファッションをすれば異性愛されるかといった「愛される」ための「恋愛マニュアル」ではありません。逆に愛されることより愛する」ことが重要だ強調します。 フロムによれば愛の技術習得するための前提条件は「規律集中忍耐」。まるで道場の壁に毛筆書かれている言葉ようです例え水泳テニス上手になるには練習が必要ですが、愛になると、人は生まれながらにできると思ってます。しかも、水泳テニススクールありますが、愛にはありません。つまり、自習必要なのです。ではどうやって自習するか?まずは、愛するようになりたいと思うことが大事だフロム説きます。またフロムは、愛を与えることは自分生命与えることだとも述べてます。ここで言っている生命とは、人形浄瑠璃出てくる主君愛する人へ命を捧げる「命」のことではなく自分のなかに息づいているもの〉のことで、相手に対して自分喜び興味理解知識ユーモア悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現与える〉ことが愛だとフロム言っているのです。愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということでもあります。私はフロムの言う、愛に関して重要なのは自分自身の愛にたいする信念で、つまり自分の愛は信頼値するものとであり、他人のなかに愛を生むことができると「信じる」ことである、という言葉を、勇気持って信じてみようと思いましたバルテュス『MITSOU』-ケトル No.21 三味線弾きの家に生まれた私は、ずっと飼っていた。三味線の胴の表側革が通常だが、繊細な音を表現するには、やはり革には敵わないへの感謝敬意をこめて、私の家では、家族同然として一緒に生活していた。私自身幼少時代飼っていた虎猫ベンツ)も、私の誕生日のあと突然に姿を消し喪失感から愛猫の絵を描いていたことを思い出す。 バルテュスは、自分作品理解しようとしたことは一度ないそうだ作品には、何か意味がなくてはならないのか、そう思ったからバルテュス自分のことを話さなかった。生真面目職人として筆をとり、自分信じる美を追求し続けた画家。私もバルテュスのような勤勉さ戯曲向かい合い舞台務めたいと思う。 Tony Bennett & Lady GaGaCheek to Cheek」-ケトル No.22 フィリップ・チェスターフィールド『わが息子よ、君はどう生きるか』-ケトル No.23 たとえばチェスターフィールドは、すべての人はうぬぼれ自尊心)を持っており、他人に何かを頼む場合などには、それに訴えるのがよいと言ってます。いかにも彼らしい言い方であり、この点をとりあげて彼やこの本を非難する人もいます。しかしその非難当たっていません。他人にものを頼むために急におべっか」を使っても、他人がこの本を読んでいたら、その「おべっか」にはだまされたはしないからです。つまりこの本は「おべっか使え」と教える本ではなくおべっかだまされるな」と教えてくれる本なのです結局のところ人にものを頼んで成功するための最善方法は、それに先立つその人との長い交際によって、信用を得ることです。その信用どうした得られるかをこの本は教えてくれる。この点だけでも、長い間この本がイギリスの上社会でのジエントルマンシップの教科書として使われ理由物語ります本日千秋楽。ジェントルマンシップに則ってチェスターフィールドの子孫、第6代チエスターフィールド伯爵着用したことにちなむ、チェスターフィールドコート楽屋入りするとしましょう小川知子文楽 吉田玉男』(「かわる」ことを考える)-ケトル No.24 「かわる」とは何か。「かわる」という漢字には、前と異なる状態、変化変更の「変」。全く別のものと交換する換金交換の「換」。また同種同等のものと交換する、前の物事をやめて別の物事をする意味の「替」。そして今回襲名二代目吉田玉男)に「かわる」は、交代の「代」、別のもの・人がその役をするの意味です。 古代中国の易の理論をまとめた繋辞伝けいじでん)には、日本でも有名なこんな洞察がある。「窮スレバ則チ変ズ。変ズレバ則チ通ズ。通ズレバ則チ久シ」。つまり「窮した時には変化せざるをえなくなり、それが新たな展開を生み、永続性につながる」という天の法則一方で、「変わらないために変わる」という逆説もある。ヒトの細胞にはもとのものと同じものを作るプログラム組み込まれている。人体細胞レベルでは数カ月でそっくり入れ替わる同様の事象読み解いた随筆が『方丈記』だ。「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとのにあらず」。鴨長明は、変わらないように見え京の都街並みも、実は住まい住民時の流れとともに入れ替わっており、「昔ありし家は稀なり」とも記す。 鴨長明下鴨神社神官の子として生まれ、その下鴨神社では、21年ごとに社殿修繕建て替えをする式年遷宮があり、今年34回目災害被害修繕など臨時含めると59回目)の遷宮向けて儀式始まっている。伊勢神宮行なう式年遷宮祭神宿る建築とその技術後世そのまま伝えるためのもので、存続のための古くからの知恵だ。鴨長明幼少期式年遷宮経験が『方丈記』につながっているかもしれない歌舞伎人形浄瑠璃には、「早変わり」という演出がある。去年AKB48コンサート招待してもらいましたが、舞台両端から幕がサッと横切ると、再びメンバー現れ時には衣装変わっていた。一瞬にして局面変える早変わり」という演出は、古今東西時代超えて共通する摂理なのかもしれない中村明一『倍音』-ケトル No.25 フラメンコにおける歌手・ギター・ダンサーとの関係と、文楽における三業太夫三味線人形)の関係は、似ているではないか勝手にそう思った僕は、作曲家であり尺八奏者でもある中村明一さんの「倍音」を手に取りました本のなかに「整数倍音・非整数倍音比較表」があり、周波数波形言語・聴感上の特徴効果・例が一覧になってます。その表には、気になった通り、非整数倍音の代表に義太夫節書かれいました。 さらに三味線にも触れられており、たとえば三味線二つの非整数倍音を出すための工夫がされているそうですもうひとつは「サワリ」を持っているということ一の糸だけが、上駒にのっておらず、棹に弦がじかに触れてます。その弦を弾く、あるいはその弦と共鳴する音を弾いた場合、弦を支え部分面積が広いために整数倍音だけでなく、非整数倍音が出る仕組みになっていて、これを「サワリが付く」と言い、同じ旋律でも、調弦選び方でサワリの付く音を変えることができるそうです。 この本は、私たち芸能のなかなか言葉説明しにくいことをわかりやすく解明してます。倍音は、古代からの脳を受け継ぐものだそうです古代からの言葉の意味超えた大切なもの気づき、それを未来伝える。これら古代からの無意識の遺産継承してこそ、芸能の道は開けていくのではないでしょうか円山応挙「氷図屏風」(Eテレ日曜美術館 夢の応挙 傑作10選」)-ケトル No.26 もっとも興味持ったのは番組最後に紹介された、1780年描かれ大英博物館秘蔵の「氷図屏風」です。氷の割れたヒビを墨の線で描いたものですが、一見抽象絵画のようでもあり、現代絵画作品のようにも見えます。下の半分鋭く長めの墨の線が何本か引かれただけですが、氷のひび割れ瞬間の音やその冷気まで伝わってくる、その鋭く走る線が見るものを氷の世界誘います奥行き感じさせる微妙な墨の濃淡即興描いたかのように見えながら計算し尽くされ表現は見るものを圧倒します。 氷を描く応挙の筆は、アイススケートの4回転ジャンプのように華麗美しい。しかし4回転が高い技術と飛ぶ勇気スケート懸ける人格思想裏打ちされているからこそ美しいように、自然を写生し描く応挙作品も、総合力に裏打ちされたがゆえの品格感じました宮元健次『月と日本建築』-ケトル No.27約物」(NIKKEI ART REVIEW「この記号打てますか?」)-ケトル No.28 現在のような約物歴史はまだ浅いといえるが、〃や々などは紀元前中国・殷の金文由来するという説もあるそうだ。私のような職業では上演台本詞章書き出しには庵点 〽が付いている。これは歌の記号として使われ、すでに中世謡曲本に見られるそうだ。決し発音されることはなくても、約物は文や語を区切り文章に意味を付け加え文章にはなくてはならない存在、いわば無言脇役ということ知った司馬遼太郎この国のかたち』-ケトル No.29浄瑠璃記」の冒頭には「江戸期の人達にもし会えるなら高田屋嘉兵衛会いたいと書かれています。兵術北前船交易成功したものの、その絶頂期千島列島沖でロシア船に掌捕されてしまいます緊迫する日露関係のなか、結果的に頼まれもしないのに日露和平尽力することに。満足に初等教育もうけていなかった嘉兵術ロシア堂々と交渉できたのは、浄瑠璃ずきのおかげで魅力的な表現ができたことも功を奏したそうです英語圏でいえば、無学な船乗りながらシェイクスピア全部暗講していて適時引用する感じでしょうか。彼がカムチャッカ半島連行されるとき、嘉兵衛は数冊の浄瑠璃本持っていったそうです浄瑠璃から学んだ気迫が嘉兵衛支えたのかもしれません。 江戸時代、嘉兵衛そうだったように、大坂商家などに丁稚入った子供たち休みのたびに、文楽を観たり、浄瑠璃聴いたりしていました。それは娯楽であると同時に言葉を磨く場所でもあったのです。たとえば丁稚から手代昇格すれば、きちんとした敬語や、掛け合いをする際の相手説き伏せる物言いも必要でしょう司馬遼太郎は、浄瑠璃町人階級日本語正しく教育するなど、娯楽上の意味があったのだと指摘します江戸時代浄瑠璃本言葉磨き、男を磨き、女を磨く時代でもあったのです。 ウルフルズたった今!」(アルバムええねん」)-ケトル No.30 齋藤孝『こども孫氏兵法』-ケトル No.31 「勝ちを見ること衆人の知るところに過ぎざるは、善の善なる者に非ざるなり」ということばが引用されていた。 これに対して、「目立ちたいとか、ほめられたいとか、もしきみがそんなふうに思ったときは、このことばを思い出してほしい。孫子せんせいは、だれにでもわかる目立つ勝ち方も、もっともよい勝ち方ではないといっているよ。それよりも、しっかり準備をして確実に勝つほうがすごいことだと考えているからなんだ。人前派手にがんばる姿は目立つし、ほめられることも多い。そのいっぽうで冷静にコツコツ努力する姿はあまり目立たないし、ほめられることも少ない。でも、じつはそれこそが、孫子せんせいのいう「善の善なる者」つまり本当にすごいことなんだ。だってその人は、人には知られない地道な努力をつみ重ねてきたということだからね。そして、努力はだれかにアピールするためではなく自分のためにするものだということ知っている人なんだ」とわかりやすく書かれている。 私は息子に、この本を自由に読んで楽しんでもらい、この世の中を「強くしなやかなこころ」で生き抜くヒント手に入れてもらいたい岡倉天心茶の本』-ケトル No.32 天心自然と人間を対等に扱うという日本茶人のもつ自然観についてこう述べてます。茶人は、花を選びえすれば責任果たしたとしてあとは、花が花自身物語を語るのにまかせる。暑さうんざりするような夏の日、昼の茶会呼ばれて行ってみると、ほの暗く涼しげととのえられた床の間一輪百合釣り花瓶生けられているのに出会うかもしれない露に濡れたその花の様子人生愚かしさ微笑んでいるかのようだと、天心語ります人間営み有限性相対性儚さを、ここでは一輪の花が「ほほ笑んで許し受け入れてくれるのです。 『一谷嫰軍記』は源氏方の熊谷直実平敦盛討ち世の無常感じて仏門に入ったという『平家物語』などでも名高い史実踏まえ、「直実討ったのは敦盛ではなく身替り我が子だった」という大胆な創作が加わる戯曲です。「熊谷陣屋の段」の舞台には桜の木。そこには立て札があり「一枝を切らば一指を切るべし」と書いてあります一本切った者は、罰として指一本を切るという警告ですが、これには「裏の意味」があり、その立て札直実は深い想いで見つめます。「一枝」「一指」とは、「一子」でもあり、つまり「一子を斬れ」という、主(あるじ)源義経直実下した命令であると。 天心は、茶人の死を利休最期を語ることで締めくくります。美しく生きてきた者だけが美しく死ぬことができる」と。死は生の完成であり、至高芸術であると言っていいのかもしれません。 九鬼周造『「いき」の構造』-ケトル No.33元祖天才バカボンの春」(元祖天才バカボンED)-ケトル No.34 「これでいい」だと自分だけで受け入れているようにどうしても感じてしまいますが、「のだ」を付けてこれでいいのだ!」にすることによって、自分の考え思想相手受け入れさせ、ママバカボンハジメちゃんもパパ中心とした世界中に取り込んでしまいます。それをみんながあたたかく受け入れるという、このマンガ全体像象徴している言葉だと思います。また自分世界を「のだ!」を入れることで、構築するという高度な技でもあります。「のだ!」には、ソフトに相手服従させる働きがあると言語学者先生いっていましたが、バカボンのパパ豊富な語彙言葉創造性兼ね備え、「これでいいのだ!」ですべてを受け入れさせる驚くべき話術持ち主だともいえます自分含めて一般に父親は子どもと意味のあるコミュニケーションをしなければ思いすぎて、かえって煙たがられます。バカボンのパパナンセンスさは、父親の手本になると思います磯田道史武士の家計簿』-ケトル No.35 「歴史とは過去と現在キャッチボールである。いまを生きる我々が自分問題過去投げかけ、過去投げ返してくる反射球を受け止める対話連続歴史決まった史実覚える「暗記物」ではないのだ」 「歴史はあるのではない、生まれるのだ」私が生業にしている浄瑠璃過去歴史上の人物人生生き生き描き人形浄瑠璃として上演することで、現代お客様過去問題投げかけている。ここ数年自分ルーツ断片的にしか伝わってなかったことに気がつき、それを徹底的に調べ繋がり与えることで本にしたいと考えてます。磯田さんのように文献的知識無機質な歴史記述生き生きとよみがえらせ、供養にしたいと思います。 『ラ・ラ・ランド』(瀧廉太郎荒城の月」)-ケトル No.36 (劇中流れた)「Japanese Folk Song」こそ、瀧廉太郎の「荒城の月」を元にモンクビバップしたものであった。この瀧廉太郎は、四代目竹本織太夫(後の八代目竹本綱太夫)と従兄弟ということもあり、よりこの曲に興味を持つことになった。 この映画美し心理は、人は人生において、自分変えてくれ、なりたい人物になる道筋作ってくれる人と出会うけれど、最終的にその道ひとりで歩まねばならないということだ。人は、残り人生決定づける人と結びつくことはできるが、その結びつき残り人生までは続かないそのことはすごく美しくて切なくて驚くべきことだ、ということ監督描いていると思う。 齋藤孝『こども君主論』-ケトル No.37 リーダー求められるのは「覚悟」を持って決断し周りの「仲間」から信頼され困難に負けず努力」し、「運命」さえも乗りこえる力であり、それはまさに、きびしい社会生き抜くために、どんな人でも必要な力だからです。 「仲間」や「努力」はともかく、「覚悟」や「運命」は、大人でもドキッとしてしまうテーマかもしれません。でも、こどもを取り巻く環境は、大人同じように、きびしさ溢れてます。また、こどもが大人社会出てゆく、そう遠くない日に向けて早い段階から「本当に役立つこと」を伝えていくのも、必要なのではないでしょうか。それに、こどもは大人思っている以上にたくましくしなやかで、自分らしくあろうとする心を、いつの間に自分育ててます。だから大人はもっとこどもを信じて世の中ホント」を知らせてもいい。この本を手にした全てのこどもが、そして大人も「きびしい社会生き抜く人」になれますように。 『維摩経』 (100分 de 名著) -ケトル No.38 興味惹かれたのは、維摩経第九章「入不二法門品(にゅうふほうもんぼん)」でした。「不二」は「二つではない」という意味で、善と悪、美と醜などの二項対立解体する相反するものすら平等になる世界のこと。ですから「不二法門」とは、悟り世界へと入る道のことです。 まず、維摩は、この「不二法門」とは何か、並み居る30人上の菩薩に対して質問します例えば、「生じる」ことと「減する」ことが一つであれば、「死」があるのは「生じた」からと考えることができますそうすると生と死連続していることになります。ではどうして二項対立否定する必要があるのでしょうか。通常何が「善」で、何が「悪」で、何が素晴らしくて何がダメかがわからないと、社会適応できません。しかし、「不二」は、そういう二項対立の罠に引っかかってはいけないという教えです。 最後に維摩は、文殊菩薩意見求めます文殊菩薩は「言葉思考絶えた世界」に入ることだと「不二法門」を語ります。そして今度文殊菩薩維摩意見求めます維摩は何も答えません。「維摩の一黙(いちもく)、(らい)の如し」という維摩経のいちばん有名なシーンです。維摩の「だんまり」によって皆が雷に打たれたように「不二法門」について悟るわけです。「自」と「他」という二項対立維摩経自分というが強いほど、人は苦しむと教えます自分を守るためのバリアを外すためにも、人の世話をしたり、されたりしようと思いお世話上手、お世話され上手になりたい思います永六輔職人』-ケトル No.39 今回特集は「TBSラジオ大好き!」。師匠(咲太夫)が「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界」の常連ゲストとして20年上出演されていたご縁もあり、師匠鞄持ちTBSラジオによくご一緒させていただいたものでした。 「豊竹咲甫太夫の會」を初め勤めたときにも、永さんは番組ゲスト呼んでくださりその後もたびたびあたたかいエールいただきました体調崩され毎週月曜夕方番組六輔七転八倒九十分」に出演されなくなっても、テレビ舞台で私を聴いた感想FAXしてくださり、「咲甫太夫の芸が良くなった!」と、こちらが恐縮するほど御心にかけていただき可愛がってくださいました。 ラッセル幸福論』-ケトル No.40 私が興味深く感じたのは、ラッセル自身自分体験から導き出した幸福になるための「究極ポジティブシンキング」でした。①自分が一番望んでいるものが何であるかを発見して徐々にこれらのものを数多く獲得する。②望んでいるもののいくつかを、本質的に獲得不可能なものとして上手に捨てる。③自分欠点無関心になることを学び、だんだん注意自分から外界事物集中させるまた、ラッセルは、不幸の最大原因自己没頭、つまり自分の考えに引きこもってしまう状態になることだといいます最後に世評対するおびえについては、生死関わる問題なければ無視しろ!と明解です。更にこの害悪対す究極的な治療法は、ただ一つ一般大衆一段と寛容になることである。寛容さ増やす最善方法は、真の幸福を享受しているがゆえに、仲間人間苦痛与えることを主な楽しみとしていない個人の数を増やすことであると。まさにこの本は現代SNS時代にも通じ幸福論です。「いいね!」と炎上しかない不健康不寛容社会に対しても、数学者であるラッセル万人当てはまる公式を提示してくれています。私もこの本から幸福の答え出したい思います西郷隆盛南洲翁遺訓』-ケトル No.41 西郷は「みな自分甘やかす心がもとにあるからで、決し自分甘やかす心を持ってならない」(『遺訓26現代語訳)と説きます。 本来の儒教取り戻すために注目されたのが陽明学です。陽明学は、宇宙万物根拠であり、根本原理である「理」と自己の行動」を合致させよ、という「知行合一」。そして「致良知」人が本来持っている道徳性実践せよと説きます。まさに、天の使命受けて行動し自分甘やかすことを戒めた西郷には陽明学教え貫かれいました。その古い儒教思想結果的に日本近代化しました。そして、現代今度西郷言葉改め私たち生きる哲学として、浮上してきています。私も西郷のように邪なものを無くして「理」に合致すれば清く正し行いができると信じてこれから日本時間風雪に耐えてきた古典大切にしたいと思います。 「変わりゆくものと変わらないもの」(オーデコロン百貨店紙袋)-ケトル No.42 齋藤孝『こども武士道』-ケトル No.43 「文楽はおはぎである」-ケトル No.44 私は「おはぎ」に目が無い素朴な餡子粒々残ったお餅食べごたえ満点イチ推し地元大阪日本橋国立文楽劇場近くの「玉製家」の「おはぎ」ですが、地方公演立ち寄る街の食堂スーパー移動中の道の駅など様々な場所で売られているものも捨てがたい魅力あります地域ごとに大きさ硬さや餡のタイプ甘さも様々で、どれを食べて美味しくはずれることがありません。餡子使ったお菓子数々ありますが、毎日でも食べられるものをと考えたら「おはぎ」に敵うものはありません。見た目がちょっとだらしない感じもよく、一息つきたい時に自然と選んでいました。おはぎは、おやつなのか、ご飯なのかそれさえも定かではなく、また和菓子屋さんではなく専門店餅屋さんや食堂店先販売していることが多いというのも面白い。 また、お彼岸には付き物の「おはぎ」ですが、呼ばれ方季節によって変わるのもいい。ご存知の方も多いかと思いますが、「おはぎ」は秋の花(はぎ)」、「ぼたもち」は春の花牡丹(ぼたん)」からきています。ところがまだまだ異名あります。おはぎの真ん中の餅生地は、通常のお餅違い臼と杵つかないことから呼ばれるようになった「つき知らず」。その「つき知らず」を「着き知らず」とかけて、夜に到着する船、と解きます。そのココロは、いつ着いたかわからない「夜船」。さらに、「月知らず」とかけて、北向きの窓、と解く、そのココロは月が昇らない窓「北窓」など、なんとも面白食べ物ではないでしょうか。さらに、おはぎの餅生地には、もち米うるち米両方使います。このどっちつかず性質作り方そうです。「つき知らず」の名でもわかるように、すりこぎ弱い力でつぶし、米粒の形であるような、ないような、つまり「半殺し」な状態で完成させるのです。この中半端さこそ、おはぎ的で、独自の個性としかいいようがありません。 最近、『文楽のすゝめ」という入門書出版しましたが、その取材文楽を「おはぎ」に喩えたところ、反響多くありました。もともと庶民芸能として、大阪誕生した文楽は、いつの間に芸術として神棚上げられているように思います人形浄瑠璃偉大な先人たちが芸術にまで高めてくださいました。現在の文楽ユネスコ無形文化遺産登録されていることもあり、喩えていえば、神棚供えてある「ぼたもちのようだ感じてます。遠慮から手を出しずらく、「棚ぼた」でもなければ観に行かない、という方もいらっしゃるのではないかと。私は文楽敷居下げことなく皆さんの手届きやすいところに戻したいとの思いから本を作りました。「神棚上がっている文楽もう一度ちゃぶ台戻したい」。これからも「おはぎ」のように愛される文楽ありたい思います六本木ヒルズ森美術館15周年記念展『建築日本展』-ケトル No.45 岸見一郎三木清人生論ノート』を読む』-ケトル No.46 大阪歴史博物館木村蒹葭堂―なにわ知の巨人』-ケトル No.47 江戸時代大坂観光訪問先ベスト3は、四天王寺大坂城阿弥陀池で、明和年間竹本座劇団分裂したとき、初代竹本綱太夫が「竹本義太夫再興座本」を名乗って興行したのも阿弥陀池和光寺門前でした。私は木村蒹葭堂江戸期大坂中心に一大サロン文人ネットワーク築いた彼の足跡辿り、知の交流あり方探りたいと思いました特筆すべきは、日々彼のもとに集まる知識情報が、けっして一方的なものではなく相手希望応え相手のために自分できること提供しあう関係であったことです。つまり彼のコレクションは、互い信頼に基づく互恵あり方のなかで蓄積されたものであり、18世紀後半知識人たちは個人として活動以上に「横のつながり」を大切にしていることがわかります交友によって結ばれたネットワーク互恵特徴持ちつつ、常に情報やりとりなされていて、それによって更に強いつながり生まれて専門立場年齢そうしたものを超えて人々結びつくだからこそ新しい知の発展可能性生まれるのではないかと、私は気づかされました。 「火垂るの墓」「糸井重里×芦田愛菜」(SWITHCHインタビュー)-ケトル No.48 糸井さんが若者言葉の「エモい」という言葉わかりやすく説明した糸井さんによると、いつだって言葉時代とともに変化していて、江戸時代流行語「粋」「鯔背」も当時新しく生まれてきた言葉であり、それまであった言葉では俺の気持ち表せないと思うから、俺の服を着るように俺に似合言葉生み出すのだと。ただし、新し言葉活きのいいピッチピチな感情をすくうのにいい網。でも、いつも同じ網だと人は飽きてしまう。 その言葉聞いた人に、意味以上の何かが見えてくる。そうやって伝わるメッセージは意味だけとは限らないところがおもしろく、歌と同じだと。この指摘は、太夫という語り表現する者として、とても参考になった糸井さんは、こうした抽象度の高さはじれったくて、今の時代には受けないかもしれないともいう。「もっと具体的に」の時代では、本当に伝えたいのは言葉では伝えきれない気持ちなのに、「わからせてくださいと言われてしまうと、どうしようもない。たとえば海を見たときに「これが海ですよ」と、簡単に言いたくないと思ったときこそが言葉生まれ瞬間なのだと。 芦田さんも、日本人には空気を読むか行間を読むとか、表せないものを感じ取る文化があり、言葉じゃない言葉言葉にならないところの言葉をどう伝えるかが、俳優にとって一番大切だと言う。この二人言葉は、私に言葉向き合うことの大切さ教えてくれました姜尚美『あんこの本』-ケトル No.49 姜尚美さんの『何度でも食べたい。あんこの本』との出会いは、本屋さんでのジャケ買いである。その表紙の、あんこを牡丹花びら見立てた中将堂本舗の「中将餅」。この写真誘われ、本を手に取ると、贔屓の玉製家さんのおはぎや中村製餡所さんの「あんこ屋さんのもなかセット」や出町ふたばの豆餅など、私の大好物ばかりが紹介されていてすぐに購入しました著者の姜さんが25歳の頃まであんこが苦手だったということ知り、私自身文楽に入座してからあんこに開眼したことを思い出しました。 あんこは和菓子の命と言われながら、その発祥歴史について不明な点が多く文献もあんこに特化した本は圧倒的に少ないことを知りました。また製法についても「習うより盗め」という世界で門外不出風潮強く、なぜその作業をするのかについても、「祖父の代からこうしているから」という場合多く、Aの店ではこうしているがBの店ではこうしている。だからこんなに味が違う、という比較を読むにつけ、これは伝統芸能修業同じだということに気づかされましたそもそも、あんこの起源羊肉スープ肉饅頭だそうだ。「あんこ」とは、いわゆる「餡」のこと。本来、「餡」とは、米や麦で作った食物に穴をあけて、その中に詰めるもの全般を指す。つまり、肉でも野菜でも、穴を満たす具はすべて「餡」。日本でその餡をいつから小豆作るようになったのか、正確なことはわかっていない。今のところ通説とされるのが、「鎌倉時代、宋から帰った禅僧たちが伝えた点心ルーツ」というものだ。「点心」は「てんしんではなくてんじん」と読む。意味は現在と同じで、食事食事の間に食べ軽食および習慣のこと。この頃伝えられ数々点心中に、あんこが生まれきっかけとなる羊羹饅頭があった。 羊羹の「」は訓読みで「あつもの」。つまり羊羹はもとは羊肉スープのことだったのだ。これを中国見聞きした日本の禅僧たちは帰国後、肉食禁止のため小豆や米、小麦などを粉にして成形して蒸したものに汁をかけて食したいわゆる精進料理が、長い時間をかけて今の蒸し羊雲のようなものに変わっていき、室町時代には「小豆煮て皮を取ったもの」に葛粉砂糖入れて蒸し上げ、今でいう、こしあん原型になった説明がある。姜さんも記しているように、眉ツバなものも含めて伝説多さはあんこの歴史長さ、そしてどれだけ人々愛されてきたかを物語バロメーターだ。 この本には、素晴らし自家製あんを作る店、古くから続く製餡所、吟味した生餡加工する店、小豆以外の豆を使う店、和菓子屋さん、パン屋さん雑穀屋さんまでが、等身大日本のあんこの現在の姿として組み入れている。そして、あんこが苦手だったひとりの人間が、どんどんあんこを好きになっていく未完成成長記録でもある。私はこの本を読んで伝統芸能が苦手な人のために、この本のような文楽紹介する本を作ってみたくなりました

※この「ケトル」の解説は、「竹本織太夫 (6代目)」の解説の一部です。
「ケトル」を含む「竹本織太夫 (6代目)」の記事については、「竹本織太夫 (6代目)」の概要を参照ください。

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