戦争まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/28 04:46 UTC 版)
「チャールズ・A・パウナル」の記事における「戦争まで」の解説
“ボールディ”こと、チャールズ・アラン・パウナルは1887年10月4日に生まれ、1910年に海軍兵学校(アナポリス)を卒業する。卒業年次から「アナポリス1910年組」と呼称されたこの世代の同期には、マーク・ミッチャー、「テッド」ことフレデリック・C・シャーマン、ジョージ・D・マレー、のちにレイモンド・スプルーアンスの参謀となるチャールズ・J・ムーア(カール・ムーア)らがいる。ちなみに、卒業成績は131名中81位で、103位だったミッチャーを上回っていた。 第一次世界大戦時、パウナルは哨戒艇「ヴェデット(英語版)」 (USS Vedette, SP-163) の艇長となり、大西洋を往復する輸送船団の護衛と対潜掃討に従事し、その功績により海軍十字章が授与された。 「ヴェデット」艇長としての殊勲は、敵の潜水艦や機雷が潜む海洋の中を軍隊や物資輸送の護衛を務め、護衛上最も重要で厳しい任務を遂行した。。 大戦終結後の1920年代から1930年代には、パウナルは駆逐艦「ジョン・D・フォード(英語版)」(USS John D. Ford , DD-228)艦長やアメリカ海軍航空局(英語版)機材部門勤務などを経て、大佐に昇進後の1938年12月21日から1941年3月21日までの間は、空母「エンタープライズ」(USS Enterprise, CV-6)の艦長を2年3カ月務め、同艦の艦長としてはもっとも長く在任した。のちに「ビッグE」と尊称された「エンタープライズ」の現役艦としての艦歴の中で、365日を越えて艦長を務めたのはパウナルと、パウナルの後任として1941年3月21日から1942年6月30日まで務めたマレーの2人だけである。「エンタープライズ」時代には慣熟航海を通じて、のちに武勲をもたらず礎を築いた。真珠湾攻撃による第二次世界大戦参戦後も前線での戦闘経験がなかったが、1943年に入り環境が大きく変わることとなる。パウナルは、1943年8月の時点では少将の地位で西海岸艦隊航空団指揮官の任にあった。
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