第一次世界大戦時
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「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン」の記事における「第一次世界大戦時」の解説
1914年、第一次世界大戦が勃発し、8月7日にウィトゲンシュタインはオーストリア・ハンガリー帝国軍の志願兵になっている。クラクフへ着任し巡視船ゴプラナ号内で過ごすことになるが、隊内では孤独にさいなまれ、さらに兄パウルが重傷を負ってピアニスト生命を絶たれたと聞き「こんなときに哲学がなんの役に立つのか」との疑問に陥り、しばしば自殺を考える。そんなある日、ふと本屋へ立ち寄るがそこには1冊しか本が置いていなかった。それはレフ・トルストイによる福音書の解説書であり、ウィトゲンシュタインはこの本を購入して兵役期間中むさぼり読み、信仰に目覚めて精神的な危機を脱した。誰彼かまわずこの本を読んでみるよう薦め、戦友から「福音書の男」というあだ名までつけられるほど熱中したという。 このころから彼は哲学的・宗教的な内省をノートに頻繁に書き留めている。これらのメモのうち最も注目に値するのはのちに『論考』で全面的に展開される写像理論のアイディアであろう。これは後年の述懐によると、塹壕の中で読んだ雑誌の交通事故についての記事中の、事故についての様々な図式解説からヒントを得たものだという。11月にはかつて財政支援をした詩人ゲオルク・トラークルが鬱病で入院しウィトゲンシュタインに会いたがっているとの知らせを受け取る。自身も孤独と憂鬱に悩まされていたこともあり、あの天才詩人と親しく話せる仲になれればなんと幸せなことかと喜び勇んで病院へ見舞いに向かったが、到着したのはトラークルがコカインの過剰摂取により自殺した3日後のことであった。またフリードリヒ・ニーチェの選集も買い求めて『アンチ・キリスト』などのある部分には共感を覚えながらも信仰の念をかえって強める。 1915年に入ると、工廠の仕事に回されたため哲学的思索に耽る時間がなくなり自殺願望が再発するが、友人の手紙に励まされて再び執筆を始め、多くの草稿を残す。『論考』の第一稿もこのころには完成していたことがラッセル宛の書簡で知られているが現存していない。1916年3月、対ロシア戦の最前線に砲兵連隊の一員として配属される。ロシア軍の猛攻撃のさいには避難命令を斥けてまで戦い抜いた功績で勲章を受け、伍長へ昇進した。1917年後半にはロシア革命の影響で戦況が比較的平穏になり、ウィーンで休暇を取って過ごすこともできた。1918年には少尉に昇進、やがて協商国(イギリス、フランス、イタリア)軍と対峙するイタリア戦線の山岳砲兵部隊へ配属となる。ここでも偵察兵としてきわめて優秀な働きにより二度目の受勲をした。しかしオーストリア軍全体の劣勢は明らかであり、退却を余儀なくされたのち再び休暇が与えられる。この休暇中にはウィーンへ戻らず、ザルツブルクの叔父の家でついに『論考』を脱稿する)。さっそく敬愛する批評家カール・クラウスの著書を刊行していた出版社へ原稿を送るが、出版は拒否されてしまう。やむをえずウィトゲンシュタインはすでに崩壊しつつあるイタリアの前線へ戻るが、11月4日のオーストリア降伏の直前にイタリア軍の捕虜となり、はじめはコモ、のちにカッシーノの捕虜収容所へ送られることとなった。 1919年、ウィトゲンシュタインは収容所からラッセルに書き送った手紙で『論考』の概略を伝える。ラッセルはその重要性に気づき、収容所へ面会に行かなければならないと思ったが、そもそもラッセル自身が反戦運動により刑務所に投獄されていた。しかし、当時パリ講和会議のイギリス代表で各国政府機関に顔の利いたケインズの尽力で得た特権により、原稿はラッセルやフレーゲの元へ届けられた。そして8月21日、ウィトゲンシュタインはようやく釈放される。
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第一次世界大戦時
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「イスラエル工科大学」の記事における「第一次世界大戦時」の解説
言語問題は解決したが、深刻化する予算問題までは解決できなかった。1914年7月17日に、最後の役員会議がベルリンで行われた。この議題について、施設の役員たちの間で様々な内部論争が起こったが、最終的にエズラ協会はテクニクムを競売にかけることを提案した。テクニクムの主要債権者であったエズラ協会の隠された意図は、独自に新しい敷地を獲得し、もはや運用上の問題が起こらないようにするということであった。 2週間ほど経過して第一次世界大戦が勃発。この事態によって、トルコと同盟を結んでいたドイツに本拠を据えるエズラ協会は、計画どおりにテクニクムを売却することができた。なぜなら、この施設の競売参加者たちは、トルコと戦っていた連合国出身ばかりだったからである。1915年3月15日、「テクニクム協会」の財産は売り払われ、エズラ協会は自らの手で22万5千マルク分の新しい土地と建築物を得ることになる。 戦時中は建築作業は中断され、施設や設備の保守管理の労力は削減された。1917年、ドイツ軍は建物を占領し、これを消毒施設や調理場として利用した。同年の春には、替わってトルコ軍が来て、主要建築物を病院にしてしまった。1918年10月にはイギリス軍がハイファを制圧、その上テクニクムの建築物を軍事病院に仕立て上げた。 戦争後のエズラ協会の経済的状況は絶望的であり、戦勝国側との同盟を結んでいたシオニスト機構はこのチャンスを利用して、1920年2月6日、エズラ協会よりテクニクムを買い受けることとなった。 テクニクムに生涯を捧げ晩年をハイファで過ごそうとしたナタンには、対立し合う者たちがこの施設を支配していく状況は見るに耐えない様子であった。
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第一次世界大戦時
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「ノーム・エ・ローヌ」の記事における「第一次世界大戦時」の解説
ノームデルタ(Delta) ガンマ(Gamma) ガンマ-ガンマ モノスパブ(Monosoupape) オメガ - 日本では、公式動力初飛行に使用された「アンリ・ファルマン複葉機」(ファルマンIII)や、日本初の国産飛行機、奈良原式2号機、会式一号機、などがこのエンジンを採用している。 オメガ-オメガ ノーム ラムダ(Gnome Lambda) ノーム ラムダ-ラムダ ル・ローヌ7C(Le Rhône) 9C(Le Rhône 9C) 9J(Le Rhône 9J) - いわゆる "110馬力型ル・ローヌ"
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第一次世界大戦時
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「ジェマル・パシャ」の記事における「第一次世界大戦時」の解説
1914年、ジェマル・パシャは第一次世界大戦中、その影響力を懸念したエンヴェル・パシャと対立し、同年11月18日、シリア・パレスチナ戦線で行動する第4軍(別名「エジプト解放軍」。7個師団、約10万人)司令官に任命された。 11月10日、第4軍はエル・アリシュを無血占領し、11月18日にエン・ナフとシナイ半島を占領してスエズ運河の英軍陣地を脅かした。 1915年1月29日、第4軍はイギリス軍と初めて交戦したが、砂漠の横断に手間取り、イギリス軍は増援を集結させることができた。ダーダネルス作戦開始後、イギリス軍はスエズ運河を経由して第8、第10、第25師団を海峡地区に、1個師団をバグダードに、1個師団をビトリスに派遣することに成功した。この後、攻勢は縮小された。 1916年8月、1万3千人の兵力でスエズ運河突破を図ったが、撃退された。同年12月16日、エル・アリシュを放棄。 1917年4月、第4軍(第8軍団、第3、第16歩兵師団)は、「ユルドゥルム」(稲妻)軍集団の編成下に入り、同年にシリア・西アラビア軍集団総司令官に任命された。 同年9月25日、第4軍からフリードリヒ・クレス・フォン・クレッセンシュタイン(ドイツ語版)将軍の第8軍が編成された。 同年10月、シリア戦域は2分され、ジェマル・パシャは第4軍(ジェヴァード・パシャ将軍)と北アラビアの部隊から成る「シリア」軍集団の司令官となった。 同年12月、エーリッヒ・フォン・ファルケンハインと紛争を起こし、ダマスカスに去る。ジェマル・パシャの撤退後、軍集団は解散された。その後、海軍相代行となる。 1918年10月、タラート・パシャ政権と共に退陣。
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第一次世界大戦時
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戦争特需に伴う硬貨用材料の価格高騰により、1917年(大正6年)9月まで製造されていた五十銭硬貨(五十銭銀貨)、1911年(明治44年)8月まで製造されていた二十銭硬貨(二十銭銀貨)、および1917年(大正6年)11月まで製造されていた十銭硬貨(十銭銀貨)の代替として発行された。 1917年(大正6年)10月30日:大正小額政府紙幣 五十銭券・二十銭券・十銭券の様式を制定。 1917年(大正6年)11月8日:大正小額政府紙幣 五十銭券・二十銭券発行開始、大正小額政府紙幣 十銭券告示上の発行開始。図柄は菊花紋章で改造紙幣の流用。 1917年(大正6年)12月6日:大正小額政府紙幣 十銭券実質的な発行開始。図柄は菊花紋章で改造紙幣の流用。 1919年(大正8年):大正小額政府紙幣 二十銭券製造終了。 1922年(大正11年):大正小額政府紙幣 五十銭券・二十銭券・十銭券製造終了。 後継は1922年(大正11年)5月に発行開始された五十銭硬貨(五十銭銀貨)および1920年(大正9年)9月に発行開始された十銭硬貨(十銭白銅貨)である。 なお、二十銭硬貨については二十銭紙幣の製造中止以降新規製造が行われず、これ以降、額面金額20銭の法定通貨(紙幣・硬貨)は製造発行されていない。
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第一次世界大戦時
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「アントン・フレットナー」の記事における「第一次世界大戦時」の解説
第一次世界大戦時、フレットナーは今日サーボタブ(Servo tab)と称される、飛行機の操縦をしやすくする為に操縦翼の先端を上下に向ける機構を開発した。 フレットナーは第一次世界大戦中、アムステルダムの航空流体研究所で指揮をとった。 1920年代、彼はスクーナーを購入して2基の50フィートの円柱を追加した船はマグナス効果で推進する初めての船になった。彼は妻と海岸に来た時に発案した。彼は砂を使ってマグナス効果で帆走の潜在性を実用化できる事を示した。船はバーデン=バーデンと名づけられ、1926年、大西洋を横断した。通常のスクーナーでは帆走不可能な強風下でも航行できた。しかし、嵐で1931年破壊された。商業船として「バルバラ号」が建造され米国まで帆走した。(→ローター船)
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