パリ‐こうわかいぎ〔‐カウワクワイギ〕【パリ講和会議】
パリ講和会議
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パリ媾和会議(パリこうわかいぎ、旧字体:巴里媾󠄁和會議、英語: Paris Peace Conference)は、1919年1月18日から開会され第一次世界大戦における連合国が中央同盟国の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、国際連盟を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが[注釈 1]、実際の討議のほとんどはパリのフランス外務省内で行われており、ヴェルサイユ宮殿を会場に使ったのは対独平和条約(ヴェルサイユ条約)[注釈 2]、対ハンガリー平和条約(トリアノン条約)[注釈 3]、関連する諸条約(ヴェルサイユ小条約)の調印式のみであるため、その呼び方は正確ではない。
- ^ 中川竹三『ヴェルサイユ会議』(1920年、民友社)など
- ^ 調印式にヴェルサイユ宮殿の鏡の間を使用したのは、ドイツ側の勝利に終わった普仏戦争の仮講和条約締結とドイツ帝国の発足が鏡の間で行われたことによる。
- ^ ヴェルサイユ宮殿敷地内の大トリアノン宮殿で調印式が行われた。ただし、調印式が行われたのは講和会議終了後である。
- ^ ミラーは当初パリでウィルソンが提示した草案が原案になると考えていたが、第一回会議直前にハウスから「ハースト=ミラー案」を草案とすると知らされ、前日まで作成に当たった(山越裕太 2011, pp. 66)。
- ^ ただし日本代表団にクレマンソーが便宜を図ったことはなく、日本代表[誰?]による日本語訛りの演説に際し、まわりに聞こえるような声で「あのちびは何をいっているのか」といったとも伝えられる。(マイケル・ブレーカー『根まわし・かきまわし・あとまわし 日本の国際交渉態度の研究』<1976年、サイマル出版会 p.2>、小熊英二『単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜』<1995年、新曜社 p.214>)
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パリ講和会議
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「西部戦線 (第一次世界大戦)」の記事における「パリ講和会議」の解説
1919年のパリ講和会議においてはフランス・イギリス・アメリカ合衆国が会議を取り仕切り、その結果6月にヴェルサイユ条約がドイツ側に提示された。ドイツには軍事的、経済的に厳しい制限が加えられた。ドイツでは激しい反対が巻き起こったが、連合国軍が無条件での受諾を要求したため、条約は調印、批准された。 アルザス=ロレーヌ地方はフランスへと返還された。ドイツ軍は兵士数を10万に制限され、海軍もきわめて限定された上に、航空戦力については保持を禁止された。艦艇の多くは休戦協定の発効の後、連合国によって接収されていたが、このうちイギリスのスカパ・フロー軍港に送られた艦艇の大部分は自沈している(スカパ・フローでのドイツ艦隊の自沈)。ライン川西岸地区(ラインラント)は非武装化され、キール運河は国際河川として解放された。同時にロシア帝国の崩壊を受けて東ヨーロッパ諸国の再整理が行われた。
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パリ講和会議
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「第一次世界大戦の賠償」の記事における「パリ講和会議」の解説
1919年1月からパリ講和会議が開始され、賠償問題が協議された。この会議の当初で最も紛糾した争点は、「フランスによるザールラントの領有」、「フランスによるライン川左岸占領の継続」、そして「賠償金」であった。3月25日からはウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソーにイタリア首相ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランドを加えた4人で会議が行われた。クレマンソーは強硬に賠償要求を行ったが、ロイド・ジョージはあまり長期にドイツを拘束することは復讐心をかき立てるとして反対であり、「賠償支払の期間は出来るだけ短くしなければならない」と説いた。 一方で巨頭会談とは別に、1月23日には賠償委員会が設立された。慎重派のケインズは委員会に出席できず、ヒューズやカンリフといった強硬派がイギリス代表となった。アメリカ代表は賠償を損害の補償に限定しようとしたが、ヒューズらは戦費をも含めるべきと主張した。ウィルソンは戦費を含めることは認めないと指示を送った。これに対してイギリスとフランスは、対米債務の削減があれば賠償金削減があるとほのめかしたが、3月8日にアメリカ財務省はいかなる債務削減にも応じないと拒否回答した。行き詰まりを打開するために3月10日に設置された米英仏専門家の三者委員会はドイツが支払い可能な額を考慮し、3月15日には総額1200億マルク(600億金マルクと600億パピエルマルク)という賠償額を勧告した。ロイド・ジョージやクレマンソーも現実的な路線に転換し、イギリスは委員会代表にケインズを加入させた。しかし保守党や新聞世論を背景とするヒューズやカンリフ、ジョン・ハミルトン (初代サムナー子爵)(英語版)常任上訴貴族 (Lords of Appeal in Ordinary) の抵抗は強かった。3月26日に米英仏の三政府案が提出されたが、アメリカが最大1400億マルク、フランスが1880億マルク、イギリスは2200億マルクと開きは大きかった。ロイド・ジョージとクレマンソーは講和会議での決着を諦め、決定を先送りすることにした。一方で賠償に軍人恩給を含めるべきとする英仏の主張がアメリカを屈服させ、条約にはドイツの恩給支払いが盛り込まれることとなった。ケインズはこの流れに抗議して会議の途中で帰国した。 6月28日にヴェルサイユ条約が署名された。第八編231条で大戦の結果生じた損失の責任は「ドイツ及びその同盟国」にあることが明記され、232条ではドイツに完全な補償を行う能力が無いことを確認した上で、損失に対する補償を行うべき事が定められた。ヴェルサイユ条約では一定の物納による賠償が定められた。賠償金については占領軍費用として1921年4月30日までに200億金マルクに相当する物資・金を支払い、400億マルクの無記名債券を発行することが定められたが、賠償金総額については決定されず、独立の賠償委員会を設置して後に協議されることとなった。また、116条によってロシアの賠償請求権は留保され、正式政府の成立後に協議されることとなった。
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パリ講和会議
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「ウッドロウ・ウィルソン」の記事における「パリ講和会議」の解説
「パリ講和会議」も参照 第一次世界大戦休戦後、和平会談に出席するため1918年12月4日にフランスのパリへ出発した。ウィルソンは在職中にヨーロッパへ外遊した最初の大統領である。ウィルソンは「平和原則」で示した公正な態度のため、連合国国民のみならず、旧中央同盟国国民からの期待も集めていた。イギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた。ウィルソンはフランスのジョルジュ・クレマンソー首相、イギリスのデビッド・ロイド・ジョージ首相と共に講和会議の三巨頭として主要な案件に携わり、戦後秩序の決定者の一人となった。しかし十四か条の平和原則がそれまで大戦中に英仏伊日など主要国が結んだ協定や条約を無効にし、アメリカの要求に従って最初から決めるように求める内容であったため会議参加国の反発を招いた。特にドイツに苛烈とも言える賠償を求めたフランスのクレマンソーとの対立は根深く、一時は会議決裂すら危惧される情勢であった。また、国際連盟建設については意欲的であり、講和会議小委員会の一つである国際連盟委員会委員長にはウィルソンが自ら就任している。 この委員会で日本全権の牧野伸顕らは、国際連盟規約に人種差別の禁止を盛り込むという人種的差別撤廃提案を提案した。ウィルソンの側近で代表団の一員であったエドワード・ハウス名誉大佐は日本側から草案を見せられた際に、ウィルソンも賛成するだろうと述べており、翌日にはウィルソンは大統領提案として人種差別撤廃を提案すると日本側に伝達している。しかしイギリス連邦、特にオーストラリアの反発は強く、またアメリカ上院もこの提案が内政干渉にあたり、この提案が通れば条約を批准しないと猛反発した。採決においては11対5で賛成多数だったにもかかわらず、「全会一致でない」「本件のような重大な問題についてはこれまでも全会一致、少なくとも反対者ゼロの状態で採決されてきた」として議長権限により否決とした。一方で、日本が要求したドイツが持っていた山東半島の権益を日本に引き渡すという山東問題においては、日本が連盟不参加をほのめかす強硬措置を執ったため、親中華民国派が多いアメリカ全権団内部からの反発を押して、不本意ながら日本に山東半島の権益を引き渡すことに合意している。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}しかし、最近[いつ?]の研究では、日本はアメリカ・イギリス両国から会議出席を要請された立場であり、当時大国となっていた日本が参加しなければ会議が成立しなかったという見解が学会の大勢である[要出典]。 ウィルソンはこの件にもあるように、国際連盟成立のために様々な譲歩を余儀なくされ、期待を寄せていた人々からの失望を買った。また山東問題の譲歩などで、アメリカ全権団内からの支持も失った。それでもヴェルサイユ条約をはじめとする各講和条約が成立し、国際連盟も成立する運びとなった。しかしアメリカ上院は、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うという国際連盟規約第10条が、モンロー主義を掲げるアメリカの中立主義に抵触すると反発した。側近はこの条項を受諾するに当たって留保条件をつけて上院の同意を得るべきだと説得したが、ウィルソンはこの譲歩に頑として応じなかった。結果、上院は批准を行わず、アメリカは国際連盟に参加することはできなかった。1919年のノーベル平和賞受賞は、連盟創設の功績によるものである。
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「パリ講和会議」を含む「ウッドロウ・ウィルソン」の記事については、「ウッドロウ・ウィルソン」の概要を参照ください。
パリ講和会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 03:39 UTC 版)
「エドワード・M・ハウス」の記事における「パリ講和会議」の解説
ハウスは、ウィルソンの「十四か条の平和原則」の作成に協力し、ヴェルサイユ条約や国際連盟規約の起草にも大統領と共に取り組んだ。ハウスは、イギリスのアルフレッド・ミルナー、ロバート・セシル、フランスのアンリ・シモン、日本の珍田捨巳、イタリアのグリエルモ・マルコーニ、アドバイザーのジョージ・ルイス・ビール(英語版)らとともに、国際連盟の委任統治委員会に参加した。1919年5月30日、ハウスはパリでの会議に参加し、外交問題評議会(CFR)設立の基礎を築いた。1919年を通して、ハウスはウィルソンに対し、ヴェルサイユ条約の批准に向けてヘンリー・カボット・ロッジ上院議員と協力するよう求めたが、ウィルソンはロッジをはじめとする共和党幹部との協力を拒否した。 この会議で、ウィルソンとハウスの間の政策と性格の深刻な不一致が明らかになった。ウィルソンは寛容さを失い、親しい顧問を次々に解任していった。また、ハウスの義理の息子であるゴードン・オーキンクロスが、アメリカの平和委員会でウィルソンを蔑視する発言をしていたことが判明し、オーキンクロスを解任した。 ウィルソンがアメリカに戻っている間の1919年2月、ハウスは十人委員会に参加し、ウィルソンは受け入れないであろう妥協案を交渉した。翌月、パリに戻ったウィルソンは、ハウスの交渉が自由すぎると判断して、彼を交渉の場から外した。その年の暮れにアメリカに戻って以降、ハウスとウィルソンは二度と会ったり話したりすることはなかった。 1920年代、ハウスは国際連盟と常設国際司法裁判所へのアメリカの加盟を強く支持していた。 1932年の大統領選挙ではフランクリン・D・ルーズベルトを支持したが、ウィルソンのときのようにその側近になることはなかった。ルーズベルトが大統領に就任した後、ハウスはニューディール政策に幻滅したが、それを大々的に公表することはなかった。ハウスはルーズベルト政権の初代駐独大使であるウィリアム・E・ドッド(英語版)の親友であり、ホワイトハウスや国務省とドッドとの仲介役を務めたこともあった。
※この「パリ講和会議」の解説は、「エドワード・M・ハウス」の解説の一部です。
「パリ講和会議」を含む「エドワード・M・ハウス」の記事については、「エドワード・M・ハウス」の概要を参照ください。
パリ講和会議と同じ種類の言葉
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