第一次バルカン戦争
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第一次バルカン戦争(だいいちじバルカンせんそう)は、1912年10月から1913年5月まで行われた、オスマン帝国に対するバルカン同盟(セルビア、モンテネグロ、ギリシャ、ブルガリア)の戦争である。バルカン連合軍は、兵員数ででも戦略的にも劣勢なオスマン軍に勝利し、迅速な成功を成し遂げた。戦争の結果、欧州に残るオスマン帝国の領地は殆ど連合軍の手中に収められた。続いてアルバニアの独立にも結び付いた。成功にもかかわらずブルガリアは和平とオスマンの脅威が去ったことで不満を持ち、まもなく第二次バルカン戦争を始め、今度は第一次バルカン戦争の連合軍と闘うことになった。
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- ^ Stowell, Ellery Cory (2009). The Diplomacy Of The War Of 1914: The Beginnings Of The War (1915). Kessinger Publishing, LLC.. p. 94. ISBN 978-1104487584
- 1 第一次バルカン戦争とは
- 2 第一次バルカン戦争の概要
- 3 背景
- 4 戦闘態勢と計画
- 5 戦闘経過
- 6 戦争結果とその後
- 7 関連項目
第一次バルカン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 03:02 UTC 版)
第一次バルカン戦争中には、ブルガリアがギュミュルジネを占領した。結局、第二次バルカン戦争中の1913年7月14日には、ギリシャに征服されたが、ブカレスト条約ではギュミュルジネはブルガリアに返還された。町のギリシャ人住民がブルガリアの支配下から脱しようと、さまざまな作戦をこらしたが、第一次世界大戦まではブルガリアの一部であり続けた。1913年には短命な国家として、ギュミュルジナ共和国が西トラキア地方に建国され、コモティニはこの国の首都として宣言された。1919年のヌイイ条約では、コモティニは他の西トラキア地方とともに、ギリシャに返還された。
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第一次バルカン戦争
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「ギリシャの歴史」の記事における「第一次バルカン戦争」の解説
1912年10月、モンテネグロがオスマン帝国に宣戦布告、第一次バルカン戦争が勃発したことにより、セルビア・ブルガリア・ギリシャらはモンテネグロと同盟関係を結んでいたことにより参戦した。1913年3月18日、ゲオルギオス1世がテッサロニキで社会主義者en:Alexandros Schinasにより暗殺された。1913年5月30日にロンドン和平条約が結ばれたことにより、オスマン帝国領が分割されたが、ギリシャはマケドニアを巡ってブルガリアと対立、1913年6月16日にブルガリア軍と交戦状態に入り、ここに第二次バルカン戦争が開始された。ギリシャはこの戦争でも勝利し、ブカレスト講和条約(英語版)により、カヴァラをさらに獲得することとなった。しかし、この一時の平穏も1914年6月にサラエボ事件が原因で第一次世界大戦が勃発したことにより破られた。ギリシャは初期においては同盟を結んでいたセルビアとの関係や国王コンスタンディノス1世がドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の義弟であったことから、中立の立場をとったが、1914年秋以降、オスマン帝国やブルガリアが中央同盟国側で参戦したことにより、連合国の圧力は高まるばかりであった。そのため、ヴェニゼロスは連合軍への参戦を目指したが、親ドイツ派である国王や軍参謀本部との対立が深まり、ヴェニゼロスは首相を解任された。このため、あくまでも連合軍側での参戦を考えていたヴェニゼロスは連合国の支援を受けた上でテッサロニキに臨時政府を樹立、ギリシャは二つに分かれることとなった。しかし、ヴェニゼロスの要請を受けた連合軍の作戦により、ギリシャは経済封鎖され、さらに王党派は連合軍の攻撃にさらされた。このため、国王派は敗北、コンスタンディノス1世も亡命した。ヴェニゼロスはアテネに戻り、王党派の追放を行ったが、これはこの後も長く続くヴェニゼロス派と王党派の対立を決定的なものにしていた。結局、ギリシャは連合国側に所属することとなり、第一次世界大戦が終結するまでテッサロニキにおいて中央同盟軍側と戦うこととなる。
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第一次バルカン戦争
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「アンドラニク・オザニアン」の記事における「第一次バルカン戦争」の解説
同年からアンドラニクはブルガリアのソフィアへ移り、定住するようになった。その地でボリス・サラフォフ(ブルガリア語版)などの内部マケドニア革命組織の指導者たちに出会ったアンドラニクは、彼らとともに虐げられたアルメニア人とマケドニア人のために再び闘うことを誓い合う。その後第一次バルカン戦争が始まると、アンドラニクはブルガリア軍内で230人のアルメニア人義勇兵から成る中隊を指揮してオスマン軍と戦った。この義勇軍は、アレクサンダル・プロトゲロフ(ブルガリア語版)率いるマケドニア=アドリアノープル義勇軍 (bg) の一部を構成していた。また、アンドラニクはダシュナク党のガレギン・ヌジュデ(英語版)とも指揮下の部隊を共有していた。その一方で、オスマン軍の側に付いてバルカン同盟側と戦ったアルメニア人兵士も約8千人いた。 その後、アンドラニクはメルハムリの戦い (en) を含めたいくつかの戦闘で名を上げ、ブルガリア政府によって中尉の位を与えられた。1913年にはプロトゲロフ将軍から勇敢勲章(ロシア語版)も授与されたが、ブルガリアとセルビアとの間の戦争(第二次バルカン戦争)を予期したアンドラニクは同年5月に部隊を解散し、翌年8月までヴァルナ近くの村で農民として暮らした。
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第一次バルカン戦争
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詳細は「第一次バルカン戦争」を参照 1908年以降の青年トルコ人革命以来オスマン帝国は、「汎トルコ主義」に基づき「トルコ化」を推進した。この政策はバルカン半島の諸民族から激しい反発を生む一方、すでに独立を達成しているギリシャ、セルビア、モンテネグロ、ブルガリアの各国はこの地域での影響力拡大を虎視眈々と狙っていた。また「汎スラヴ主義」の大義のもと「南下政策」を展開するロシア帝国もこれら各国への支援に積極的であった。 1911年にアルバニアの自治要求がオスマン帝国で始まると、それまでマケドニア問題で対立していたセルビアとブルガリアがロシアの仲介で同盟を結ぶ。これを受けてブルガリアはギリシャと同盟し、セルビアもモンテネグロと同盟を結んだ。この結果「バルカン同盟」がロシアの後ろ盾で結成され、1912年の10月には各国がオスマン帝国に相次いで宣戦を布告した。 オスマン帝国は慌ててイタリアと講和して伊土戦争を終わらせたが、バルカン同盟軍を止めることはできず、ブルガリアはエディルネ東近郊まで進軍しイスタンブールに40kmまで迫った。セルビアはマケドニアに侵攻しスコピエを抜き、アルバニアからアドリア海まで到達した。ギリシャはイピロスに侵攻しこれを確保した後、テッサロニキ(トルコ語でセラーニク、ブルガリア語ではソルン)を手中に収めた。同じくテッサロニキを目指したブルガリアとは数時間の差であったという。 これら各国の快進撃は1912年の12月に入ると一転して膠着状態に陥り、12月には休戦。ロンドン講和会議が始まり、翌年4月にはモンテネグロ以外の各国は停戦する。
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