さんごく‐きょうしょう〔‐ケフシヤウ〕【三国協商】
【三国協商】(さんごくきょうしょう)
イギリス・フランス・ロシアの各国間で締結された露仏同盟(1894年成立)、英仏協商(1904年成立)、英露協商(1907年成立)によって作られた三国の協調関係を示した言葉。
「協商」と「同盟」が成立したことで、列強は二分して相争う一触即発の状況になったが、その後イタリアが同盟から脱落し、1902年に仏伊間で仏伊協商を締結。
さらにオーストリアは民族紛争で機能不全に陥り、実質三国協商対ドイツの様相を呈す。
1914年に勃発した第一次世界大戦では三国協商は「連合国」を作り、ドイツ、オーストリアをはじめとする「三国同盟」が作った「同盟国」と交戦した。
(その後、英国と日英同盟を結んでいた日本、「ルシタニア号事件」を契機にドイツへ宣戦布告したアメリカも協商陣営に加わって参戦した)
三国協商
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三国協商(さんごくきょうしょう、英語: Triple Entente、フランス語: Triple-Entente、ロシア語: Антанта)は、19世紀末から20世紀初頭においてイギリス帝国・フランス・ロシア帝国の各国の間で締結された、露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作られた三国の協調関係を指した言葉[注釈 1]。英仏露協商ともいい、独墺伊同盟と対立し、第一次世界大戦の主要な交戦国となった。
注釈
- ^ 「協商」(フランス語「entente」の訳語。「同意」「協定」を意味する)とは国家間における同盟ほど強くない緩やかな協力関係の事であって商業活動の協力の事ではない。
- ^ イタリアが三国同盟に加盟した理由は、チュニジア侵攻を行ったフランスに対して敵愾心を持っていたところへ、フランスの孤立を図っていたビスマルクが勧誘したことによる。但し、この際イタリアはオーストリアに対する未回収のイタリア問題を断念せねばならず、三国同盟は締結当初から強力な一枚岩体制ではなかった。
- ^ エチオピア戦争敗北後のイタリアは、むしろフランスとの提携によって地中海・アフリカ北岸政策を進めるようになる。1900年には秘密協定を結び、フランスのモロッコにおける優越を、イタリアのトリポリ・キレナイカにおける優越をそれぞれ相互に承認することとなった。そしてこの協商により、ドイツがフランスを攻撃した場合において、イタリアは参戦義務を負わないことが定められた。
- ^ 多民族国家であるがゆえに、政府は民族自決の要求に絶えずさらされていた。詳細は「オーストリア=ハンガリー帝国」を参照
出典
三国協商と同じ種類の言葉
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