えいろ‐きょうしょう〔‐ケフシヤウ〕【英露協商】
英露協商
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英露協商(えいろきょうしょう、英: Anglo-Russian Entente、露: Англо-русское соглашение)とは、1907年にイギリスとロシア帝国が結んだ協約。イラン、アフガニスタン、チベットにおける両国の勢力範囲を決定した。
- ^ a b c d e f 中山裕史「露仏同盟の変容過程 : 1891-1907 : 日露戦争の衝撃」『経済研究』第25巻、大東文化大学経済研究所編集委員会、2012年3月、7-29頁。
- ^ キース・ニールソン. “日露戦争と国際関係―英国の戦略的外交政策―”. 防衛研究所. 2023年3月11日閲覧。
- ^ a b c 水田正史「英露協商とイランの借款問題」『社会科学』第69巻、同志社大学人文科学研究所、2012年3月、85-123頁。
英露協商
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「エドワード7世 (イギリス王)」の記事における「英露協商」の解説
日露戦争の敗戦で極東進出を阻止されたロシア皇帝ニコライ2世は、イギリスとの関係改善を志向するようになった。エドワードやイギリス政府もロシアとの関係改善に前向きだった。そのため1907年に入ると英露間で中央アジアの「グレート・ゲーム」をめぐる交渉が進展を見せ、同年8月31日に至って英露協商が締結された。これにより英露が長きにわたって争奪戦を繰り広げてきたアフガニスタンについては、ロシアへの敵対行動に利用しないとの条件付きながらイギリス勢力圏であることをロシアが確認した。またペルシャ帝国(イラン)については、北部をロシア勢力圏、南部をイギリス勢力圏とする分割がなされた。またチベットについては両国とも不干渉で合意した。この英露協商はペルシャにおいては「イギリスがペルシャをロシアに売り飛ばした」と批判されることが多かったが(この不満が1909年のペルシャ立憲革命の一因となった)、英仏協商、露仏同盟を結んでいるフランスでは英露接近は歓迎された。日本も日仏協商、日露協商の交渉を進めている時期だったので英露接近を歓迎した。 ニコライはエドワードとの直接会見を希望しており、エドワードの方もなるべく早期にロシア帝都サンクト・ペテルブルクを訪問して甥ニコライと再会することを希望していた。しかし専制王朝国家ロシアは自由主義国イギリスでは評判が悪く、英国王がロシア帝都を訪問することには反対の声が根強かった。バーティの友人には初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルドやサー・アーネスト・カッセルらユダヤ人も多いが、彼らもユダヤ人迫害(ポグロム)の中心地であるロシアの帝都を訪れることには反対していた。外相グレイも英露協商を深化させるためには英露両君主の会見が不可欠と認識しつつも、ロシア帝都で会見を行うことには難色を示した。そのためエドワードは、帝都訪問を断念し、1908年6月にレヴァル沖でニコライと会見することにした。エドワードとアリックスは、ここでニコライ、皇后アレクサンドラ(アリッキー)(エドワードの姪)、皇太后マリア(ミニー)(アリックスの妹)らと再会し、家族として抱き合った。またエドワードはこの席上でニコライを王立海軍元帥に叙した。
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